ヒウおじさんの鳥獣戯話。
さぁ、オトナたち、近くにおいで。

第10回

ベニシジミという蝶【チョウ】をごぞんじだろうか。
南西諸島を除く日本全国に分布する橙色の小さなチョウだ。
このチョウがモデルになった可能性のあることわざがある。
それは「蓼食う虫も好き好き」。
チョウの幼虫は食べ物に厳格で、極端な偏食家である。
モンシロチョウの幼虫(青虫)がキャベツや菜の花などの
アブラナ科の植物につくように、
ベニシジミの幼虫はスイバやギシギシなどのタデ類につく。
彼らにとってタデは命の糧に他ならない。
それをあげつらうようなことわざはいかがなものだろうか。
もっともベニシジミばかりがタデを食うわけでもない。
人だって食通ともなれば鮎の塩焼きには蓼酢が不可欠だし、
イタドリもスイバもすっぱいけれど食べることができる。
さらに多くの日本人が好物としているソバだってタデ科植物。
外国人が見たら、日本人こそ「蓼食う人も好き好き」なのだ。

「蚊【カ】の鳴くような声」という表現がある。
貧相な体格のカが出しそうなかぼそくて弱々しい声のこと。
もちろんカは鳴かない。
だからこの言い回しは生物学的に間違いである。
カが耳元で立てるブーンという高い音は羽音であり、
しかもかよわいどころか耳ざわりでしかたない。
だからこの言い回しは修辞法としても間違っている。
「一寸の虫にも五分の魂」もひどい。
一寸は約3センチだから、
その大きさならチャバネゴキブリくらい。
やつらの魂の大きさが1.5センチも
あるはずがないではないか。
そもそも魂はいまだ科学的に物体として確認されていない。
それなのになぜ大きさがわかるのだろう。
もし仮にことわざが正しかったとしよう。
するとやつらを殺すたびに1.5センチの魂を
つぶしていることになる。
われわれ人類はそこまで冷酷非道な生き物なのだろうか。

「蛍【ほたる】二十日に蝉【せみ】三日」
ということばもある。
絶頂期は短いですよ、という意味だ。
わかりやすい比喩のようだが、これもまた事実誤認である。
昆虫はほとんどの場合、成虫期間より幼虫期間が長いのだ。
だから彼らの一生において
成虫なんて時期は老後のようなもの。
幼虫の期間こそ、虫の虫たる絶頂期といえよう。
その伝でいけば、ホタルの絶頂期は1年近くに及ぶし、
セミにいたっては7、8年はざらで、
17年なんてつわものもいる。
政治家を評するときによく用いる「玉虫色」。
これもイエローカードぎりぎりの表現だろう。
なぜならタマムシがすべて
七色に光り輝いているわけではなく、
角度によって色が違って見えるわけでもないからだ。
日本に250種ほどもいるタマムシの大半は
茶色っぽかったり黒っぽかったりして地味な虫なのだ。
もっとも政治家などしょせん
地味な人種って意味ならOKかも。

地味といえばとても地味なのに、
日本語使用頻度が高い虫もいる。
ケラである。
そもそも虫をさげすむときに
「虫けら」と接尾語にするほどだし、
「おけらになる」は
賭けで負けて無一文になった状態の常套句。
それにしても、無一文がなぜケラなのだろう。
一説にはケラが前脚を広げた姿が、
お手上げのポーズに似ているからだという。
ケラを実際に捕まえたことのある人には説得力のある仮説だ。
あまり有名ではないが
「けらの水渡り」ということわざもある。
最初は熱心にやっても途中で投げ出す場合のたとえである。
これなど、先人の誰かがケラを水中に放り投げたのだろう。
もともと土中生活者のケラは
必死で生き延びようと泳ぐはずだ。
だが土を掘るのに適した前脚は
水をかくには不向きに違いない。
やがてケラはあきらめて泳ぐのをやめたと想像される。
つくづく気の毒な虫であるが、よく観察された虫でもある。

観察の行き届いた表現は他にもある。
「蜂【はち】の巣をつついたよう」という比喩はいいえて妙。
いうまでもなく大騒ぎのさまを表したことばである。
想像して欲しい。
ミツバチの巣でもおおごとだが、
それがスズメバチの巣だったりした日には、
上へ下への大騒ぎになること必至である。
「蜘蛛【くも】の子を散らす」も実に的確な表現だと思う。
もっとも実際にクモの子が散る場面を見た経験のある人が
いまの世の中にどれだけいるかは疑問であるが。
証言しよう。
クモの子は親の作った巣の中に固まっているものだが、
危険を察知すると四方八方へといっせいに逃げていく。
その散りっぷりの見事なこと見事なこと。
ただしあまり真剣に見ていると鳥肌が立つこと必至である。

ときとしてことわざは科学的事実に先んじる。
20世紀になり、動物行動学が脚光を浴びはじめた頃、
鳥を使ってある実験が行なわれた。
鳥にハチを食べさせたところ、刺されてしまった。
毒によって痛い目にあってしまったのである。
以来学習した鳥は二度とハチを食べなくなった。
同じ鳥に今度は毒をもたないアブを与えてみた。
なんと鳥はアブも敬遠して食べなかったのだ。
ハチをとらない鳥は姿形のよく似たアブもとらない。
この実験によりアブの擬態の効果が実証されたわけだが、
「虻【あぶ】蜂とらず」の語ははるか昔から存在していた。
え、ことわざの意味が違うじゃないかって?
確かに「虻蜂とらず」は「二兎を追う者一兎も得ず」の意。
ま、いいじゃないですか。
たまにはこんな「虫のいい」結論にしたって。


イラストレーション:石井聖岳
illustration © 2003 -2005 Kiyotaka Ishii

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2005-06-28-TUE


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