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テレビ逆取材・
クリエイティブってなんだ?

第25回  思いを垂れ流せるとわかった時には、
      画面の向こう側とこちら側に人間がいる



[今回の内容]
このページでは、NHK・ETV特集に絡めて、
「クリエイティブとはなんだろうか?」
について、まわり道をしながら考えてみています。
今回は、21日(月)に放送された第1夜に登場の
見城徹さんについての、糸井重里の談話になります。










----幻冬舎の見城徹さんと
  対談をしたかった動機は、何ですか?


「『クリエイティブって何なんだろう?』
 というテーマは、わけわかんなくも思えるし、
 いろいろなふうに考えられるのですが。
 まあ、仮に、ソフトの中で
 とぎすまされたものがクリエイティブなんだ、
 というくらいで考えてみると・・・。

 今回、見城徹さんとぜひお話をしてみたかったのは、
 本というものが、ソフトだからです。
 本を求める人たちは、紙を買うのではないし、
 品物を運ぶときのコストを重視しているわけでもない。
 つまり、中身のソフトだけを見たい商品ですよね?
 出版というものを考えてみれば、完全にソフト業界で、
 クリエイティブがなければ、成り立たないはずです。
 
 なのに、ソフトを生産する専門家でもいるかのように
 文壇だとか学者の倉庫から、人をとってきて
 書いてもらうような風潮があったんですけど。
 でも、見城さんは、自分で走りまわって
 狼に接近する子どものように、命がけで
 ソフトを取ってこようという気持ちでやってきた。
 
 見城さんが幻冬舎を作った時に、
 ほとんど、クリエイティブの復権を目指すんだ、
 というような会社設立の言葉を書いていましたが、
 ソフトを作る側としてはまっとうなそういうことが、
 世の中に、なかったことへの怒りを、感じました。
 『俺、ほんとはそんなこと言いたくないんだ』
 と言っているかのようにさえ感じたんです。
 楽なほうばかりに流れることへの怒りというか。

 ぼくもそういう気分になったことはありますけど、
 そこでとどまってみました。
 『楽なのがいい』と思う時の自分を否定することは、
 おそらくおおぜいの他人をも否定することになるので、
 『じゃあ、俺は楽なことをしたい、というだけでは
  ないとしたら、いったい、何がしたいんだろう?』
 と考えてみたんです。

 そうしたら、クリエイティブになるものを
 作っていきたいという思いだけが、残った。
 
 『この先、こんな風になっていくんだろうなあ』
 という自分の姿が想像できてしまうと、気持ちが悪い。
 それは、もう性分で・・・。
 いちばん嫌なのは、この先に自分が、変なふうに
 なってしまうんじゃないだろうか?という不安です。

 見城さんも『不安で仕方がない』と言っていて、
 『人ってそんなもんでしょう?』と話しているけど、
 不安だし気が小さいし臆病だし、なんて人間が、
 本屋に連れて来させて、金を出させて、
 持って帰らせて、読ませて、というのを
 100万人もの人間にさせてしまうということが、
 とっても面白いと思いました。

 だけど、いろいろな人は、見城さんが
 『七転八倒して脂汗を流して葛藤して、
  そこから生まれたものだけに力があるし、
  ソフト自体に命のないものは、売れないんです』
 と言っている心の部分を考えないで、その部分なしで、
 『見城さんは、マジシャンのように何でもかんでも
  売る方法を知っているのではないか?』と考える。

 そんなわけがない。
 一朝一夕でできていなるはずがない。
 永い間に堆積した層のようなものがあることを、
 方法だけを訊ねる人は、ぜんぜん見ていないんです。
 ・・・その層の上に更に旗を立てるのには
 コツがあるのかもしれないけど、そんなのは
 ものを作る側から見れば、どちらでもいい。
 見城さんが『細胞のひとしずく』とおっしゃるように、
 ある意味で『くさいもの』でないといけないんですよ。

 役割だけで成り立っているものは、
 もう、世の中には、なくなってきていて。
 これからは、ますますそうなっていくだろうし、
 そこらへんが、クリエイティブというものを
 考えるためのヒントになっていると思います。

 自動車も、服も、靴にしても、ぜんぶが
 役割としてはもう充分でというところにいますよね。
 でも、人は、まだ渇いている。
 その渇きは、まろやかなかたちを欲しているのか、
 鮮やかな色なのか、嗚咽させるような何かなのか、
 自分の獣性をよみがえらせるようなものなのか・・・
 何を欲しているのかは、自分にもわからない。
 だけど、誰かが何かを出してくれたら俺は感動するぜ、
 と準備をしながら街の人たちが歩いているような・・・
 ぜんぶがクリエイティブを欲しているんだと思います」

----その渇きを埋めたい?

「だから、ファミコンが出はじめた時に
 ロールプレイングゲームを作るのがおもしろかった。
 『俺は、お前を愛してる』というような、
 小説家がもう使えないような使い古されている言葉が、
 ゲームの中で自分が操作した主人公が言うと、
 通じる!と感じたんです。あれはうれしかったです。

 例えば『愛してる』だとかいう情報の中に、
 本を読んでくれるお客さんは、もう入ってくれない。
 だから、使えなくなってしまった言葉だらけなんです。
 『詩の言葉と日常の言葉は地続きなんだ』
 と言う谷川俊太郎さんに、ぼくは賛成しているから、
 ゲームの中でそれができて、すごくうれしかった。

 どこかのお兄ちゃんとお姉ちゃんが
 話すような言葉を、排除してしまうような世界では、
 やっぱり、現実に対して、
 服の『たけ』が足りないような気がしていたから。
 だけど、コンピュータゲームには『たけ』があった。
 お前そんなのずるいよっていうくらいに
 くさいセリフにみえても、本人にとっては、
 『それを待ってたんだよ・・・!』
 という言葉を、表現できる。
 それで、ものすごくうれしくなっちゃったんだけど、
 今度はそれを方法論として使う人たちが
 ゲームの世界に出てきてしまったので、どうも・・・。
 たぶん、『わかりやすさ』ということは、ぼくが
 狙っていることの、もっと外側のものなんですよね。

 『お前を愛してる』というようなものは、
 表現として熟していない言葉かもしれないけれど、
 ある場面では誰かの心を動かすかもしれない。
 極端に言うと、ぼくは、インターネットで、
 表現のレベルまで達していないと言われるような
 『私だけの日記』や『うちの赤ちゃんの写真』も含めて
 出てしまったものは出てしまえばいいと思います。
 ・・・自己満足が表出してしまうことを、
 ぼくは、肯定しているんです。

 レベルの低い表現なりに、それに似合った他者がいる。
 誰もいいと思わないものはあまりなくて・・・。
 電車のなかで、高校生のカップルが
 ブレザーとセーラー服のままで、
 じっとおたがいを見つめているような風景を、
 ぼくは、嫌じゃないんですよね。
 あそこでは気持ちが通じ合っている。
 他の誰にも通じない何かがあるんですよ。
 心は、動いている。
 そういうものとして存在する文章があっても、
 いいんじゃないかなあと思います」

----質は、問わないんですか。

「大勢の人がそれを欲しがるかとか、
 素晴らしい価値だと認められることには、
 表現の出来、不出来がもちろんあると思うけど、
 今まではそれを出す手段もなかったんですよね。
 表現をしてみようとしたけれど、
 俺がやっても通じないから、と黙ったり、
 誰かの表現を手伝う側にまわったり、
 俺はだめだけどお前のはいいなと感じても、
 そういうはぜんぜんかまわないんです。
 その表現の幅が、今までは、
 これほどまでにはなかったんだと思います。

 『勝ちぬきエレキ合戦』という番組が昔にあって、
 あの時に、音楽なんか考えたこともなかった不良たちが
 みんなエレキギターを弾きはじめたんですよ。 
 そいつらが、意外とうまかったりして。
 あの時にやたらとばらまかれたギターが、
 日本のポップスの環境を少し変えたというところに、
 ぼくはショックを受けたんです。
 ああいうことがないと、聴くほうの耳も、
 高度なことをやる人の『ここ聴いて!』という思いを
 聴いてくれる部分も育たないんだろうなあと感じてて、
 そんなようなものに、インターネットがなれば、
 いいなあと思うんです。

 ソフトだとかクリエイティブというものは、
 ほとんどが、水子になっているんだと思います。
 石原慎太郎さんにしても郷ひろみさんにしても、
 見城さんに会わなかったとしたら、
 他の小説を書いたのかもしれないけれど、
 『弟』や『ダディ』は、書かなかったでしょう?
 ただ、見城さんに出会う人たちは、
 宝くじに当たるように幸福なんです。
 見城さんの人生を半分くれたような瞬間があって、
 それにこたえてものを書くという瞬間があって・・・
 それは、普通に歩いている人には、起こりっこない。

 つまり、ぼくが思うのは、あらゆるひとが、
 ひょっとしたら無数のクリエイティブの水子を
 現世に残したまま死んでいくんだということです。
 ぼくのように半端に知られている人だとしても、
 急に女子バレーボールについて思ったような話には、
 仲のいい編集者だとしても、雑誌の紙面をくれないよね。
 ぼくが女子バレーを語る番組も、たぶん作りにくい。
 活字でもテレビでも、メディアは、
 どこかのところで、不動産に近い有限なものです。
 でも、思っていることは、いま言ってしまわないと、
 これ以上しゃべらなくなるだろうなあ、と
 自ら水子にしてしまうようなものが、あって。

 それを水子のままで届けあうのが、
 ともだちとのおしゃべりなんだと思います。
 そのおしゃべりが、おもしろい。
 ヒントにしか過ぎないことを出しあう場だったり、
 企画ができていない時の頭の中だとか、
 『ちくしょう、もうすこしでわかるんだけど、
  何だか、まだ、かたちにならないんだよなあ!』
 みたいな時に、もし仲のいい理解者が近くにいたら、
 『まだうまく言えないんだけどさあ、
  お前わかれよな。こうでこうで、こうなんだよ!』
 って、しゃべれるでしょう?

 それを、インターネットがあると、できるんです。
 面積が有限ではないから、いくらでも開墾できる。
 『そんなばかなこと言うなよな』というのも含めて、
 すごい水子供養になって、水子どうしが合体したり。
 『俺もわかんないけどさあ』とかいうひとことが
 実はものすごくよかったりする場合もあるだろうし。

 ・・・ぼくが重要だと感じるのは、
 『インターネットができたことで
  誰でも思ったことを垂れ流せる』という、
 システムができたこと自体なのではなくて、
 『垂れ流せるとわかった時には、
  画面の向こう側とこちら側に人間がいる』
 という事実が思い起こされることなんです。
 なんか、コンピュータの先にあるものは、
 ヒッピーの考えに近いものがありますよね。
 『ヒッピー心』を刺激するというか」





★談話の途中ですので、つづきます。
 「表現には、普遍性を持つほどの
  質の高さが必要なのではないだろうか?」
 という見城徹さんの問題意識に絡めて、
 インターネットで表現することについて
 糸井重里の思ったことを、訊いているところです。


(つづく)

この番組への激励や感想などを、
postman@1101.comに送ろう。


2000-08-22-TUE

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