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テレビ逆取材・
クリエイティブってなんだ?

第21回  苦しくても仕事をする動機があるのか?
     (消費というクリエイティブ・その1)



[今回の内容]
「ものを作ることが一番おもしろい」
という趣向に、かなり近いところで
今度の番組を制作してお届けするのですけど、
実は、ただ単に作るだけの職人になることへの危惧を、
番組ナビゲーターの糸井重里は抱いているようです。
今回から数回は、生産する時のクリエイティブではなく、
消費することをどうとらえるのかについて、
ナビゲーターの個人的な意見を訊いています。





(番組撮影中の風景)



----何が一番楽しいと思いますか?

「夢中になるという状態が、
 ぼくにとっては、一番のエクスタシーでして・・・。
 『夢中になること以上に面白いことは、ない』
 というようなイデオロギーを、きっと
 ぼくは、どこかに持っているのでしょう。
 でも、それだけではだめなんだよ。

 『ほぼ日に寮があるといいなあ』と
 こないだ、何となくともだちに話したら、
 『糸井さん、そしたら仕事させようとするでしょう?
  寮の中にコンピュータ入れようとするでしょう?
  ・・・そういうことしちゃ、だめですよ(笑)』
 と言われて、ああそうか、と思った。
 意識してなかったけど、もし寮を作ったら、
 俺、たぶんそうするんだろうなあ。
 夢中になることが一番だと思っているから、
 ついつい、そういうことをしたがるんですけど、
 それだけじゃ、きっと、よくないですよね」

----夢中になって作るだけでは、なぜいけないのですか?

「努力型の職人は、世論にほめられやすいし
 いいものをつくっていることは確かだけど、
 本人の楽しみの設計図を作るのが苦手ですよね。
 だから、八谷和彦さんから
 『あ、ぼく毎日8時間は寝ていますよ』
 なんて聞くと、ああ、俺は下手だなあと感じるの。

 努力して生産しつづけるよりも、消費することのほうが
 実は、クリエイティブなのではないか、と思うんです。
 ぼくたちは、みんなが拍手してくれるから、とか
 責任が果たせるから、ということで、今までは喜んで
 生産に関わることばかりしてきたわけですけど・・・。
 生産って、消費がない限りできないじゃない?
 だから、消費の中にクリエイティブな要素がない限り、
 安いパック旅行をお客さんに出すような生産になり、
 『でも買ってくれなかった、もうからなかった』
 と、そうなってしまわざるを得ないような気がする。

 日本全体が抱えているのが、この、
 『消費する時のクリエイティブがない』という問題で。
 そういう『遊びのクリエイティブ』について、
 どれだけ考えられるだろうかということを、
 これからぼくたちは、気持ちを変えて、きちんと
 思っていかないとだめなんだろうなあと感じますね。
 だから、ぼくは
 『休み』のことと『遊び』のことを考えるのが
 ものすごく大事だなあと感じていて、
 いま、答えがわからないままに
 かなり真剣に考えているんですけど」

----『遊び・楽しみ』といったようなものと
  『仕事の目的』の関係については、どう思いますか?


「以前に、性格も能力もある人たちが
 集まるような面接の試験をした時に、
 『どうしてここに来たいの?』とたずねてみたら、
 『つらいけど楽しそうだから』と言うんです。
 その人たちは、明らかにはいいやつなんだけど、
 でも、そこがまず、ひとつ問題だと思います。
 楽しそうだと思われる職場は、いいところなのか?
 もしかしたら、仕事は楽しくないのかもしれないし、
 実際は、たぶん、楽しくない仕事のほうが多いと思う。
 『楽しくなくてもやる理由が仕事にある』
 という考えのほうがよっぽど重要で、それと同時に、
 『楽しいことは、仕事以外にもたくさんあるんだ』
 と思えていなければ、危険な状態でもありますよね。
 つまり、他に楽しいことがないからって、仕事に
 楽しみを求めてしまうというのは、違うんじゃないか?

 『そもそも、仕事を何のためにやるのかと言うと、
  苦しくてもやれるぐらいの動機があるからでしょ?』
 ・・・とぼくは、言ってみたいわけです。
 本当はそういう動機があってほしいわけだし、
 楽しむために職場で遊んでもらっていては、迷惑です。
 だったら、他のところで充分に楽しいことをしていて、
 何か実現したいことがあるんだから
 苦しくても仕事をやる、というほうが、ずっといい。
 こうなると、苦しくてもやれるというくらいの動機が、
 仕事をする上でもっと必要になってくるんだろうなあ、
 そういうことが、最近わかってきたような気がする。

 よく、中小企業の社長室なんかに
 『**を以って、広く地域に貢献し・・・』
 とか、社の目標が書いてあるじゃないですか。
 そういうことをお題目のように唱えられた時代は
 もちろん、きちんとあったと思うんですよ。
 自分たちのやっていることと、
 高度経済成長をする日本を富ませるためだとか
 地域を豊かにするためだとかいう大目標とが
 ほとんど合致していた時代があって、
 その目標が当時の動機になっていた人たちも、いた。

 ぼくは今まで、仕事を遊びのようにやってきたから、
 遊びでも仕事でもどっちでもいいと思っていたけれど、
 でも、それだけでは、どうしても
 『苦しくてもやれる理由』に、ならないんですよね。
 楽しいだけでは、軍隊なんてできないじゃないですか。
 『あの海軍は、楽しそうだなあ』とかいうのは、違う。
 そうなると、作り手が考える上で、今まで、
 頭の中の空き地のようになって放っておかれたのは、
 『自分が仕事を離れた時に遊べるものがあるか?』
 『夢中になって守りたいものが、あるのだろうか?』
 『仕事に、自分のものだけではない目標があるか?』
 そういうような問いなのではないでしょうか。
 二重にも三重にもなっていくそういう問いかけを
 探さなければいけないなあ、と最近は思っています。
 ・・・その、動機になるような目標は、
 お金の多寡ではないんだろうなあというところまでは
 ヒントが出てきているのですけど。

 『仕事、楽しいですよ』という若い人がいたとして、
 もしも『楽しい』が仕事をしている目的だとします。
 それなら、最後に根性を出さなければいけなくて、
 楽しくなくなっちゃった時に、その人は怒りますよね。
 だからきっと、どこかで、社会の目的と自分の目的が、
 嘘でもいいから合致している部分がないと・・・。
 国という単位が強固にあった時代には、
 そういう目的は、たぶん国と同じだったのでしょう」

----さきほど『消費にクリエイティブがない』と
  言っていましたが、具体的にはどういうことですか?

  
「『バイクを買うためにバイトをしてます』
 とかいう子がいますけど、そうなった場合、
 そのバイクって、ほんとに好きなものなの?
 ・・・具体的には、そういう問いかけだと思います。
 今『私、遊びたい』と言っている子たちは
 テレビを見てともだちとおしゃべりをすることで
 ほとんどの時間が費やされているじゃないですか。
 この楽しみかたは、まだ、不幸だと思う。

 パチンコがあって映画があって、
 誰かとダベったり居酒屋があったり、
 行くところは一見たくさんあるんだけど、
 よく考えると、遊びと呼ぶには
 あまりにも貧しい『パック旅行』ですよね?
 つまり、遊ぶということについての概念すらも、
 ぼくたち日本の農耕民族たちは、
 自分で手に入れたことがなかったんです。
 未だに、畑を耕している。
 『ちょっとでも耕せばコメが実るからよう』と、
 何をするにも生産のほうに転化しちゃっている。
 消費が、さびついてしまっているんです。

 何を考えるにも生産から見てしまうことは
 作り手と呼ばれている俺らの血の中に入ってるから、 
 これから、血の入れかえをしないといけないと思う。
 『それだけ生産して、どうなったの?』と言われた時、
 もしも、消費者のプラットフォームに
 並ばないようなソフトを作っただけなら、
 その努力は、無になるのかもしれないですよね。
 だったら、遊んでいたほうがよかったかもしれない。
 消費者として大活躍していたほうがよかったのか?
 
 作り手には、生産だけをしようという態度が
 しみついてきちゃったけど、
 かと言って、いまの若い人たちが
 ほんとに楽しく遊んでいるのかというと、
 作りもしないし遊びすらもないというような中で、
 『・・・とにかく、何か見せてよ』
 とだけ言って消費をしているような気がします。
 クリエイティブなソフトを楽しんでいるわけでもない。

 こういうようことをぼくが思ったのには
 いろいろきっかけがあるんだけど、そのひとつは、
 『グッドモーニング・バビロン』という映画です。
 イタリア人の移民の兄弟についての話なんですけど。
 草創期のハリウッドの田舎にどんどん撮影所を入れて
 女優さんたちをたくさん呼んで、労働力を入れて、
 映画を売る時に、その移民の兄弟が就職してきた。
 イタリアでは左官屋さんだった兄弟が、
 ハンチングかぶって、荷物ひとつでアメリカに。

 そこで、兄弟のうちの弟が、女優さんをやってる
 女の子に恋をして、ふられちゃったんですね。
 で『あ、弟がいなくなった』って探すと、ある間隔で、
 どこかから『ジャーン!』とシンバルの音がするの。
 その音がする方に行ったら弟がいて、
 シンバルを持って、そこに立っていた。
 失恋の痛手を癒すために、その左官屋の労働者が
 自分の好きなオペラを頭の中で鳴らしていて、
 シンバルの鳴るところで音を入れてたんです。
 俺、そのシーンを見て、涙が出たんだけど、
 つまり庶民の教養のレベルが、そこにはある。

 イタリアオペラは、インテリには
 すごく通俗的だと馬鹿にされるけど、少なくとも
 日本で言えば、歌舞伎のようなものですよね。
 移民してきた左官屋の男の子が、
 そのオペラを思い出すために、
 シンバルだけを持っていったっていうのが、
 まず、もう既にいいんだけど、そのあとに
 全曲を頭の中で鳴らして、最後にシンバルを
 『ジャーン!』と入れたというところに、
 なんか、豊かさがあるじゃないですか。
 ・・・で、その豊かさを観たあとに、
 さて、と振りかえってみると、
 そういう豊かさは、自分の中にはない。

 モノポリーの世界大会に行った時にも、
 似たようなことを思いました。
 大会の時にはモノポリーの下手だったフランス人が、
 パーティーで急にジャズピアノをうまく弾いていて、
 そっちのほうが、かっこいいんだよ。
 金の奪い合いのゲームが妙に上手なだけの人たちは、
 人として、豊かじゃないんですよね・・・。
 そのフランス人のほうが
 消費をする側としてクリエイティブというか。

 いま、社長になっている人って、
 だいたいが理科系の頭の人だと思います。
 そういう人たちがやっているから、
 『どうでもいい文化』の価値が
 どんどん下げられていくようになってきていますよね。
 『スピーディー』『より進んだもの』
 というような方向にしか、発想を持っていないから」





★話が途中ですので、つづきます。
 「何をするにも生産のほうに転化してしまうから、
  今は、消費がさびついている」いう問題意識に、
 苦しくてもできる動機があるの?という問いが重なり、
 次回は更に、生産と社会についての話に移ります。


(つづく)

この番組への激励や感想などを、
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2000-08-18-FRI

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