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テレビ逆取材・
クリエイティブってなんだ?

第19回 クリエイティブで生きていくためには、
    社会に寄生する道しか、ないのだろうか?



[今日の内容]
https://www.1101.com/saisin/1_1101.html>
↑こちらに、番組のナビゲーター・糸井重里は、
「クリエイティブの運命」というコラムを書いてます。


「供給人口が増えれば、値段は下がる。
 なんだか切ない逆ユートピアだけど、
 あらゆるソフトが無料になって、
 誰でもが垂れ流しのように
 ソフトをつくっているような、
 虚しいデモクラシーが世界を覆うことも、
 想像できなくはない。
 インターネットのある側面というのは、
 既に、その様相を呈しているともいえる。
 あ、うちは「ほぼ日」はちがうと言いたい。
 (中略)
 あらゆるクリエイティブが、
 食えなくなるんじゃないか。
 そういう逆希望を心に抱きつつ、じたばたしている
 ぼくが、興味を持つことというのは、
 『クリエイティブは食える』という可能性を、
 見せてくれる人々の活躍なのである」


クリエイティブを考えることは、糸井重里にとっては、
興味を持つことの源であるのと同時に、どうも、
インターネットという道具とも関係があるようです。
そのあたりを、クリエイティブ観と絡めて訊ねました。
番組を作る動機とも、間接的に関わる話になります。




(代官山の公園で、撮影中)


----糸井さんにとってのインターネットと
  クリエイティブの関わりは、どういうものですか?


「45歳くらいの頃、ものをつくることへの危機意識を、
 『将来、めしを食えなくなるんじゃないだろうか?』
 と、とてもリアルなかたちで感じるようになりました。
 『今はよくても、このシステムの中では、
  作り手としてだめになるのかもしれない。
  俺が作り手として食えている今のうちに
  変わっていかないと、いろいろなことを
  ちょっとずつ我慢している間に、死んでしまう』
 そう感じたから、そこでぼくは、
 山間のムーミン谷のようなものがあるのなら
 そこにアンテナだけでも立てておいて、まずは
 山と谷を往復してぶらぶらしよう、と思いました。
 そのムーミン谷が、インターネットだったわけです」

----どうして危機感を持ったのですか?

「作る側の人が、力関係の上で
 ぺこぺこしなければいけない状況があったからです。
 40代後半になってくると、得意な仕事を確保して
 いわゆる『偉い人』になってゆくだとか、
 貯金をしてやっていくだとか、そういう方向以外で 
 食っていけている人が、まわりにいないんですよね。
 貧乏で野心的な職人になったりするのか?
 『もうだめだ』と言われて隠居していくのか?
 ・・・それなら、いったんその世界を抜けたいなあと。

 そう思ったのは、ちょうど
 10年ごしの夢がかなった頃で、
 何をしたいのかがわからなくなっていた時期でした。
 『夢がかなった』とは言っても、
 最高にプラスのことをできたのではなくて、
 ものすごいマイナスで負の条件のものを
 『浅い負』にしたというぐらいなんですけど、
 その夢がかなったことで、
 失ってはいけないものと失っていいものの
 プライオリティを、ぼくは、ようやく
 自分で決められるようになりました。
 だけど、そのことで、逆に人生が見えなくなってきた。
 ローンを払い終わった人がぼーっとしてしまうように、
 ぼくも、その具体的な夢がかなったことで、
 『幸せって何だろう?』と考えはじめちゃいました」

----どういう風に、先が見えなくなったのですか?

「例えば、10年後とかに
 どこかの企業の顧問に収まって
 広告の相談役になるとしますよね。
 そうすれば、例えば毎月15万円ずつもらって
 4社も請け負えば、もちろん生活はできるわけだけど、
 そうなってしまうことは、かなり嫌なんです。
 15万円という価値よりもずっといいアイデアを
 いつだって与え続けられる自信は、あるんだけど、
 『顧問と言う役職を、切られたくないなあ』
 と考えるような人には、絶対になりたくないから。
 でも、他にすることがなければ、
 そうなってしまうかもしれないじゃないですか。

 『この地位をなくさないでね』と
 キープしようと考える立場にいると、
 企業の人たちの顔色をうかがっちゃうから
 アイデア上で冒険できなくなってしまうと思います。
 そうなったら、もう、発想する意味がないでしょう?
 アイデアを出す側になるのなら、
 『このお金は、なくてもいいや』
 と思うところでやらないと、無理が出てくる。

 それで、『そうじゃねえなあ』と思って、
 まわりの同年代よりも上の人で
 ものをつくっている人を眺めてみたわけです。
 だけど、そうやって偉くなってしまったり
 どこかの学校で先生になったりしない限り、
 どの人もなぜかやっていけていないわけです。
 じゃあ、クリエイティブで生きていくには、
 社会に寄生しながら暮らすしかないのか・・・?

 だけど、ぼくは、アイデアこそが
 社会のすべてだと言ってもいくらいに考えているから、
 なんでそういうアイデアを出してきた人たちが
 みんな衰退して寄生していかなければならないの?
 と思ったんです。それは何か、嫌な感じがしました。
 ・・・アイデアやクリエイティブこそが
 人間の英知のすべてとすら言えるはずなのに、
 やっぱり『アリとキリギリス』でも
 キリギリスは死んでいくという寓話が残されている。
 キリギリスは、みんなに美しい歌を残したのに。

 引退するか威張るかの道しか残っていないことに、
 何だか、怒りのようなものがわいてきたんです。
 周囲や先輩の誰を見ても、本当に、道がなかった。
 そんな中、『仕事をたくさんしないと食えない』と
 見定めてやってきたのが、吉本隆明さんですよね?
 『いっぱい仕事をして、頼んできた仕事に対して
  それ以上を返すというやり方でしかしのげない』
 と吉本さんは言っていて、ほんとにその通りだから、
 それしかないのかなあ、と思っていましたよね。

 その頃ちょうど、ぼくが一度なりとも
 クリエイティブだと感じたことのある作家の人が、
 昔の、さほどよくなかった作品の印税を前借りして
 何とか食いつないでいるのを目の当たりにしたんです。
 ・・・ものすごくさびしいものを感じました。
 『人が守りたいのは、お金か、
  ステータスか、それともプライドなのか?』
 そういうことについて考えざるを得なくて、
 ぼくにとって、純文学的に痛かったんですよ。
 そうなっていたのも、その作家のクリエイティブに
 支払われていたものが少なかったからで。

 だったら、ときどき例もありますけれど、
 勤め人でありながらクリエイティブなことを
 するほうが、いいのかなあ?とも感じました。
 パートタイムの作家のほうが、
 少ない作品に力を入れてものを書けるでしょ。
 当たらなくてもいいと思えるところでやらないと、
 お金をもうけないといけない気になってしまう。
 もともと、森鴎外でも、夏目漱石でも、
 職のある人が、小説というソフトを「もうひとつの手」で
 書いていたわけですよね。クリエイティブで食えない時代には。
 いまだって、時間の融通のきく職業についている作家は、
 かえって増えているような気がする。

 例えば、農家の事業化でいうと
 あらかじめ収穫に対して予約を入れて、
 商品化するために田んぼを農薬だらけにして、
 予約しておいた部分を確実に実らせようとすると、
 数年で土地が死んでいってしまうでしょう?
 だから、ぼくがそうやって
 作ることを事業にしてしまうとしたら、
 かなりまずいことだろうなあ、と思いました。
 今いる世界で、確実に仕事を得るためだけに、
 あらかじめの予約に対して農薬をまきまくっていると、
 もともとの土地が、本当にだめになってしまいそうで。

 クリエイティブにとっては、開拓がいいんですよ。
 ふらふらした状態を楽しむのが、一番、生き生きする。
 ・・・ぼくにとってのインターネットというものは、
 今言ったみたいにいろいろと考えていたことを、
 すべて突破するものに見えました。
 雇ってくれる人の顔色を見ないで全力を出せるし、
 何よりも、自分でメディアを持てるし、それに、
 『走れば走るほど暗くなって、先はどうなるんだ?』
 と、ぼくと同じような思いを抱えている気持ちを
 集めることができる道具かもしれないと思いました」

----インターネットへの気持ちはどのようなものですか?

「『インターネット的である』ことに可能性を感じます。
 ・・・人とつながれる、循環的につながる、
 ソフトと距離を無限に圧縮できる、
 考えたことを熟成させずに出せる、
 虚偽か本当かを確認していないような
 生煮えの情報のやりとりでさえそのまま出せる、
 そのやりとりを保存しておくこともできる、
 情報が無限に豊かに繁茂していく、
 時間と空間を超越できて、
 あっというまに広がるシステムになっている・・・。
 今の情報に対面するぼくたちの身体は、
 どんどん、このような
 インターネット的なものになっていると思います。

 例えば、ポジティブな要素ではないけど、
 元オウム心理教の信者の子供が差別されたり、
 そういうようなことも含めて、
 情報が一瞬にして広がっていますよね。
 ぼくたちの考え方や感じ方に、インターネットが
 とても合っているんだと思うんです。
 事実のあとを結晶が追うんだと考えてみると、
 ぼくたちの考え方という事実のあとを、
 インターネットという結晶が追ったのかもしれません。

 インターネット的であるということには、
 今『インターネットとは?』と
 語られている以上の何かがあるとぼくは思うんです。
 いまインターネットをいろいろな人が説明する時には、
 インターネットという結晶を、よりブリリアントに
 カットしたほうがもてはやされるから、
 『ソリューション』だとか『デジタル』といった
 言葉を使って上手に説明をしようとするけど・・・。
 そんなにうまい言葉できれいにカットしようとすると、
 全部が見えなくなってしまうかもしれないんじゃない?
 ぶれていってしまうものがあると思います。
 だから『インターネット的である』ことを
 ひとことで言いきってしまうと、
 本当のところが見えなくなっちゃうような気がします。
 真実はひとことでは言えないと思う。

 ネットを囲む環境ごと見つめていかないと、
 『ソリューション』というような言葉に
 人間が取り残されてしまって、
 概念だけにとらわれていくような・・・。
 今インターネットについて語られているのは、
 財務だけの会社みたいなもので、魅力がないんですよ。
 そもそも、源になるのは、人の考えることだし、
 考えを導くものといえば、人の思いだと感じます。
 『思い』のなくなったシステムが動いていく社会は
 SF作家たちが古来から危惧してきた未来なのですが、
 だからといってそうなるとは限らないと思う。
 もちろん、その可能性はいつも満ちているけど・・・。

 インターネットそのものが偉いわけじゃなくて
 インターネットは人をつなげるだけですから、
 豊かになっていくかどうかは、それを使う人が
 何をどう思っているかによるのだと思います」

----インターネット的であるという状態は、
  糸井さんにとって、どういうものですか?


「いま『ほぼ日刊イトイ新聞』に書いてくれている人で
 最もインターネット的と言えるのが、邱永漢さんです。
 世界中のあらゆるところから
 FAXで原稿を届けてくれています。
 でも、邱さん本人は、コンピュータをさわらないの。
 そこが、ぼくはすごいと思うんですよ。
 コンピュータにさわらなくても、
 コンピュータでしか読めない文章を書こうとするし、
 FAXした文章を他人がタイピングすることも含めて、
 ウェブの世界を、自由に利用しているんですから。
 邱さんは、パソコンの技術のオペレーションを
 習得しようとなんて最初からまったくしないで、
 この道具で何をしようかと考えている。
 このつながりかたが、インターネット的ですよね?

 飛行機がどうやって飛ぶかを知らなくても、
 それに乗ってどこかに行くことはできる。
 どこに行って何をするのかが問題なわけで、
 だからこれからは、『知っている』ということが
 かなり優先順位の低いものになっていくと思います。
 『オペレーションはよくわかってるよ。
  技術だけは知ってるから、俺はすごいんだぜ』
 という態度には、価値がなくなってくると感じます」


★「クリエイティブで生きていくためには、
  社会に寄生する道しか、ないのだろうか?」
 と考えた時にdarlingが出会ったのが、
 『インターネット的である』という状態のようです。
 クリエイティブとインターネットの関わりは、
 今後も脱線をしながら訊いてゆくことになります。


(つづく)

この番組への激励や感想などを、
postman@1101.comに送ろう。


2000-08-15-TUE

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