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テレビ逆取材・
クリエイティブってなんだ?

第16回  今の世の中で、一番人気のあるものは
     『憂さ晴らし』になってしまっているけど



[今回の内容]
「表現をしている側であるというありかたは、
 それを受けている立場とどう違うのか」について、
番組ナビゲーター・糸井重里のコメントをお送りします。

作ったものを掲載する場所の価値観が、
どうも『勝ち負け』になっているようだ、
というのが、前回の問題提起でした。
『勝ち負け』の価値観でできている土壌で
作り手になる意味は、どういうことになるのだろう?
そのような話を、ひきつづき迂回しながら展開します。




(陽水さんとの対談場所に置いてあった、石像)


「例えば、野球でも、目的は『勝つこと』ですよね?
 決して『よくやること』でも『楽しむこと』でもない。
 スポーツの目的は、すべて勝つことにあって、
 その意味では、今の社会は、ぜんぶスポーティです。
 ・・・なおかつ、勝つということは、お金です。
 例えば視聴率を30%を取ると『勝ち』とされて、
 3%だと普通は『負け』と言われるわけですが、
 一見、客観的な『勝ち・負け』に見えて、実は
 基準は、どれだけの人がスイッチを入れたか?です。
 何をどうやって『勝った』のかは、問題にならない。

 なぜそれが『勝つこと』の基準になるのかというと、
 営業に行って『数字が取れますよ』と出すからです。
 『30%取ったディレクターなんですけど・・・』
 と『勝ち』をプレゼンテーションする場所があって、
 その実績を採用する人がいるという仕組みがある。
 『勝ち』は、お金というかたちで表されるわけで、
 どれだけお金をたくさん持っているのかが、
 どれだけ勝っているかの目もりになるんですよね。

 もちろん『私はお金の価値観では動かない』という
 部分はみんなが持っているのでしょうけど、
 大勢にとっての『勝つこと』を作る時のベースは、
 やっぱりそういうことなんです。
 価値観のベースは勝ち負けにあって、
 勝ち負けは、金額によって表される」

----そういう時代に表現することを選ぶというのは、
  どういうことだと思いますか?


「表現という仕事を選びたいと考える人には、
 『どうしてそうしたいのか?』と考える機会が、
 ひとりではたくさんあると思うんですけど、
 そうやって考えていたものを、他の人たちと
 おたがいに引き出しあう場所なんて、ないですよね。
 時間がなくて、勝ったり、負けたり、に忙しいから、
 『やりたい動機』が、みんなでは考えられていない。
 つまり、何でやりたかったのか?が、今はないんです。

 次の時代というイメージを考える時に
 一番重要なのは、
 『今の時代の価値観が、ほんとうは
  みんなを不自由にしているのではないか?』
 というところだと、ぼくは思います。
 『息苦しい、追い詰められている、未来が見えない』
 だとかを、あまり感じていない人は、
 今、ほとんどいないわけです。

 『そうは感じない』という人は、
 どこかで自分をごまかしているか、
 短いスポーツをやっているかだと思います。
 例えば『明日はテニスの世界大会に出る』という人が
 時代の閉塞感について語るわけがないでしょう?
 そういう意味では、今好きな人がいて、
 明日、彼からのデートの返事を待っている、とか
 目の前にニンジンが下がっている人は、
 長いレンジの未来を考えなくても大丈夫ですけど。

 でも、そういう短期目標が毎日あるとは限らないので、
 目の前にニンジンがない人は、
 今の価値観のもとで生きている自分の状態を、
 何となく拘束衣を着ているように
 とても不自由に感じているのではないでしょうか。
 思いっきり走ってもいいとわかったら走れるんだけど
 まだ走れない環境があるような気がするというようで。
 走れない理由が自分の中にあるのか、
 外の環境の中にあるのか、あるいは、
 自分と環境をつなぐ両方に通底する価値観にあるのか、
 それがわからない、と思っている人がいるでしょう?
 
 で、そう思ったらその人はどうするかと言うと、
 そんなことを考えていると
 ポテンシャルが下がりますから、
 『元気の出ること』をしたくなる。
 それで憂さ晴らしをすることになります。
 今、世の中で一番人気のあるものが憂さ晴らしです。
 商品にもなりやすいでしょう?
 テレビの番組でも、一番いい憂さ晴らしになるものが
 出た時に、視聴率の『勝ち』につながって稼いでる。

 『何をしたらいいかわからない、
  →疲れるから憂さ晴らしをする、
  →憂さ晴らしを提供する人が勝ちを収めて稼ぐ』

 この循環がある限りは、表現する側が、何かを
 一生懸命学んだりすることがありえないと思います。
 というのは、どうなりたいのかの希望がなくて、
 どういう方向で走っていけばいいのかがわからなくて、
 それでも技術だけを身につけて何でもできる、
 なんてことは、ありえないわけです。
 例えば、シナリオ作家になりたいという人が
 とてつもなく上手に書ける魔法をかけられたとしても、
 それって、いったい何だろう?と思います。

 原稿用紙の使い方はこうですよ、とか、
 いろいろな規則を教えてもらったとしても、
 罫線をひかないかたちの台本だってシナリオですし、
 もしかしたら、台詞さえなくてもいいかもしれない。
 かたちだけシナリオになっていて、
 <ト書きの書き方>みたいなのだけがいくらできても、
 『そこでいったい何を書きたいのか』
 『自分はいったい何をしたかったのか』
 『どんなところに自分の価値観を投影させるのか』
 そういうものがなかった場合には、
 どんなに形式の上でわかっていても、
 シナリオではないんですよ。
 
 今、シナリオの例を取りましたけど、
 その分野だけじゃなくて、ぼくの仕事で言うと
 広告のコピーを書くにしても
 商品計画を立てるにしても、
 具体的に言えなくてもいいんだけど、
 『どうなることが、いいのだろうか?』
 ということに対して、きちんと
 方向性を出せるものしか価値を生まないんだ、と、
 ぼくなんかは、この歳になってはじめてわかりました。

 もう少し若い時には、『幸せってさぁ』なんて
 しゃべっている人たちへの反発があったから、
 『何もわからなくていいし、人生観なんて
  そんなもん、何もなくても生きていけるよ』
 と主張していたのですが、どうも全体が
 『何もない』ということになってきていて、
 価値観が『勝ちか負けか』になって、しかも
 その勝ち負けの目もりがお金だけということで・・・。
 ぼくは、自分の一番やりたいことを
 やっている状態を『幸せ』だと感じているんだけど」

----お金が価値観の目もりになっていることについて、
  詳しく説明をしてもらえますか?


「みんな、お金よりも心、なんて言いますけど、
 例えば、女の人は、お金をいくらもらえば、
 目の前の知らない男に電話番号を教えるかというと、
 当然みんな最初は『お金じゃない』と言うだろうけど、
 ・・・・たぶん、100億円なら教えますよね。
 電話番号を教えるのは、お金で解決できるんです。
 だから、お金の力はほんとにすごいわけで。
 別に『お金に負けないぞ』と思う必要はなくて、
 お金には、どんどん負けていいと思いますけど。

 最初に『お金では買えないものがある』と感じた時には
 そういう自分の心の価値観を、実は知らないわけです。
 自分の心は、ほんとは天然の自然みたいなもので、
 路地の奥のような場所やら、
 化け物の住んでいるような場所やら、
 まだ踏みこんだことのない場所だらけですよ。
 今のところ見えている景色とざっとした地図だけで
 みんなは自分の心を知ったふりをしているけど、
 例えばいじめられた時や誰かに振られた時とかに、
 全然知らなかった自分の感情に気づいたりする。
 『あいつは、何を考えているかわからない』
 と、よく言いますけど、逆に、
 自分のほうこそ、何を考えているかわからないんです。
 普段、そこまで問い詰める必要もないし、
 問い詰めたこともないから、
 自分が何かをわかっているつもりになっているけど、
 ほんとは、みんな、自分の心なんて全然わからない。

 お金と自分の関係だってわからないし、
 自分が何を幸せだと思うのかだってわからない。
 『どう生きるのか』『何が欲しいのか』にしても、
 友達と会った時にしゃべる幸せ観と、
 こっそり悪巧みしている時に語る幸せ観と、
 自分に子供ができた時に話すものと、
 上司に訊かれた時に語るものとは、
 たぶん全部、使いわけていますよね。

 そんなように、自分にもわからないし
 言葉にもしようもないし、方向にしても
 見えないし、もうわけのわからないのだけど、
 でも、『これがないと死んでしまう』というのを
 持っているのかいないのかについてを、ぼくは
 クリエイティブという言葉を通して、問いかけたい。

 正直言って、ぼくにも、自分の幸せはわからない。
 菅原文太が死んでも親分を守る、という映画を見て、
 親分がだめな奴なだけに、
 そんな奴のために命を犠牲に・・・と、こちらに
 何か美しいものを与えてくれる、と感動させてくれる。
 だけど、そこでは感動しているのですが、
 観客として見ている時には、
 菅原文太のような人生を選択するかどうかの
 問いかけはし、ないままでいいんですよ。
 だけど、心を揺さぶる側に立った時には、そこが要る。
 その問いかけは、テクニックでは解決できないのです。
 『自分は、何が欲しいか』
 『本当に自分が生きていられるか』
 『自分の気持ちの転ばないものは、どこにあるか』
 『一番大事にしているものは、何なのか』
 『命をかけられるかもしれないものは、何なのか』
 そういうことを、表現する側は、
 順番に考えることになりますよね。

 西洋には、神様という便利な価値基準があって、
 そこに自分を照らして納得できるけど、
 『価値はお金ではないような気がしているけど、
  実際上は、お金になっているし、自分も
  その価値観の世界で動いているような気がする』
 ・・・日本人はこういう中で考えざるをえない。
 神様がいないから、納得できない。

 今、五木寛之さんが支持されているのは、
 『世の中、いろいろなことがあるでしょうけど、
  きっとどうにもならないのです、それでいい。
  生まれて悩んで悪行を尽くして死んでいくという
  その全体は、あんたのせいじゃあ、ないぜ』
 というメッセージが表現されているからだと思います。
 そんな五木さんがたくさんの人に読まれているのは、
 逆に言えば、日本ではキリスト教の世界観とは違い、
 神様のような判断基準に照らして生きている人が、
 あんまりいなくて、迷っているからなのでしょう」



★勝ち負けに忙しいから
 解決のできないような問題を考える暇がなくて、
 とりあえず「憂さ晴らし」をするだけになるけど、
 そこから離れてみたい、というのが
 表現する上のdarlingの考えのようです。 
 「ところが、お金の力は、本当に大きいわけで、
、 だからこそ、心を揺さぶる側に立った時には、
  その価値観に代わる何らかの問いかけが要り、
  その問いかけは、テクニックでは解決できない」
 というように言っている中で、さらに次回は、
 作り手側の「問いかけ」について、話がつづきます。


(つづく)

2000-08-12-SAT

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