TV
テレビ逆取材・
クリエイティブってなんだ?

第15回 『勝ちか負けか』という価値観だけだと、
    わけのわからないことを思う機会がないんです



[今回の内容]
クリエイティブであるとは、どういう状態だろう?
・・・例えば、ギタリストのカルロス・サンタナが
高音域の旋律を自在に弾いている時の姿や、
信頼できるアーティストと抱きあっている映像を見ると、
それはとてもクリエイティブなもののように思います。

「彼と俺らが組めば、こわいものはないよ」
「私が彼と共演するのは、
 『人間にはこんなこともできる』と実証するためです」
「会えてよかった。ここに参加できて本当によかった」
「病気の療養中、僕のアルバムを聴いたカルロスが
 電話をかけてきてくれた。だからこの曲を作った」 

ソロでも充分に人の心をつかむアーティストたちに
このように言われているサンタナ本人は、
ライブでもそんなに歌わず、あまり喋りもせず、
その時々のボーカルをひきたてるために、
気持ちよさそうにギターを抱いているだけです。
ステージの上でのありかたが、とても格好いい。

音楽を作っている人の、ステージで
スポットライトを浴びて立っている姿には、
他分野の表現者の多くが嫉妬を覚えるといいます。
何かを表現している人は、ある意味では、
ライトの当たっていない観客席のようなものに、
届くかわからないものを伝えようとしているけど、
ライブを演るのは、もっと『じか』だから。

だけども、人は様々な表現を通して、
どうして舞台のようなものに上がるのだろう?
光を浴びてやりたいように歌ったり書いたりすることは、
逆に言えば、「何を与えてくれるの?」という
待っているだけの視線にさらされるわけでもあるので、
そんなに気持ちのよいだけのものではないでしょう?

いつでも雑誌を投げつけたり帰ったりできるような
わがままなお客さんの前で、ギターを持てますか?
そもそも、そこでギターを手にするということに、
人はどのような可能性を見つけたいのでしょうか?

今回からの数回は、
そんなあたりについて、まわり道をしながら、
番組ナビゲーターの糸井重里に話をしてもらいます。
「表現をしている側であるというありかたは、
 それを受けている立場とどう違うのか」を訊ねました。
一見、芸術系にしか関係のないように見える話題だけど、
例えば誰かを説得する機会を持つような人になら、
かなり関係のあることをしゃべっていると思います。




(渋谷の本屋で、見城徹さんと)


「ぼくは、本来、表現をしないままでいながら、
 『産んで、耕して、育てる』だけで死んでゆくのが、
 人間として、一番上品な生き方ではないかと感じます。
 ・・・だけど、ぼく個人としては、それをできない。
 産んで耕して育てるだけでは満足ができないぐらいの
 傷を抱えてしまったり欲が深くなってしまったような、
 そういう障害を抱えた人たちが、
 表現というものを選んでしまうのだと思います」

----表現者と観客の違いは、あると思いますか?

「・・・う〜ん。
 例えばスポーツでも小説でも、自分がとても好きで
 興味を持っている対象をずっと見つめていると、
 その世界の姿なり動きなりがわかってきて、
 『いっそ、受け取る側じゃなくて、
  送る側になれるのではないだろうか?』
 と考えるようになるのかもしれません。
 だけどそういう中でも、ほとんどの人は、
 ただの『すごく突っこむ受け手』になると思います。

 そういう受け手のことを、ぼくは
 ここでは仮に『超読者』だと言います。
 アラ探しをするところから、
 『読者』という枠は超えていまして、例えば
 テレビのドラマの中におしゃれな店が出てきたら
 『あのお店に行きたいなあ』と読者が思うとすると、
 『・・・何で今ごろ、あの店を選ぶんだよ!』
 と、そういう風に考えるのが超読者なわけです。
 だけど、そのままだと超読者で終わっちゃいます。
 つまり、最高の評論家のままですから。

 自分の知っているリアリティを
 ないがしろにしてドラマが進むと
 許せなくなるわけだから、超読者は、
 時計の目もりで言うとストップウオッチのような
 そういう細かい目もりでテレビを見て、
 具体的なシーンに『そんなん、あるかよ!』と言う。
 ・・・でも、何でテレビに対してそう思うんだろう?
 ふだんの生活で細かい突っこみをいちいち入れると
 かなり『嫌な人』になるから、やらないじゃない?
 だけどテレビに対しては、いろんな人が、それをする。
 これは、構造的にそうなっているのだと思います。

 もともと、テレビは尊敬の対象だったよね?
 昔はかなり高い所に置いてあったし、
 汚れないための緞帳という
 房のようなのがついていて・・・。
 あの時のテレビは、ある意味で仏壇だったんです。
 ふだんは拝むためにあるものだから、
 簡単に観てはいけない、そういうものでした。
 でも、だんだん家でテレビを置く位置が下がって、
 最終的にフローリングに直に置くようになった時に、
 テレビは視聴者に負けたというか、
 視聴者はテレビを見下げる存在になっていました。
 
 だから、テレビの中にいるのが
 くだらない人であるという必要が出て来るのです。
 『テレビの中にいる人が私より進んでいて、
  いいことを言ってくれるといいなあ』ではなくて、
 『私のレベルよりも低いことを言っている
  テレビの中の人の言葉を聞いて、私は安心する』、
 という状態の中にテレビがある時に、例えば
 ぼくたちが今ドラマに何を求めるのかというと、
 『どれだけいいものをたくさん知るか?』ではなくて、
 『ドラマの内容がどのくらい下らないことかを
  チェックすること』になっていったのです。
 そのことはいいとも悪いとも言えないけど、
 表現をする人にとっては、大変な状態なわけです。

 どうして大変なのかというと、
 一番よく触れているメディアのテレビが
 『下らないもの』と見なされているからです。
 そうなると、価値が低いと思われているものが、
 ほとんどの人のしょっちゅう観ているものなわけで。
 下らないと自分で思っているものと、毎日
 一緒に暮らしているようなものになるんですよ。

 『人生とは何か』とか考えている時に、
 テレビの中の人が『なぁ、あそこ行こう!』と叫ぶと、
 気を取られて『どこに行くんだ』と思うでしょう?
 実生活よりもテレビのほうがアクションが具体的で、
 つまり、観念的なことだとか理念だとかを
 考える暇をなくさせるのがテレビになっています。

 最近の事件で言うと、子供に薬を飲ませて
 殺そうとした母親のニュースがありましたよね?
 あれを考えていたら、ほんとは10日でも20日でも、
 何でそうなんだ?といろいろ考えられるのですが、
 でも、『鬼のような母』と言ってしまえば、
 それでその話題は終わらせることができてしまう。 
 『自分とはまったく違うそういう奴がいたんだ』と、
 そういう人を『いる』ではなくて『いた』に変えながら
 具体的なニュースを絶えず追いかけていくという
 テレビの今の状態を考えると、
 大勢の人にとって、日常生活の中で
 つながっていて答えのない問題について考えることが
 だんだんと、なくなる傾向にあるように思います。

 ぼくの娘を見ているとわかるのですが、
 メディアから受けられなくなっていることを、
 今の若い人たちは何から受けとめているのかというと、
 もう、そういうものは、なくなっちゃったんですね。
 学校の先生は、まるで会社で事業計画を遂行するように
 規則を守らせるとか受験で成功するというような 
 ある目的を設定して生徒をチェックしています。
 管理しやすいし達成度がわかりやすいから
 学校はどうしてもそうなるのだろうけども・・・。
 だけど、そうなると、
 わけのわからないことを考える時がないんですよね。
 そういうことを話したり考えたりする時間がない。
 で、そこがどうなっているのかというと、
 若い子たちが揺り戻し的にやっているのは、
 結局、『長居』というものでしょう?

 女の子たちが、ファーストフードで
 長居をするじゃないですか。
 あれは、観念を育てるための自衛手段だと思います。
 『テストどうする?』からはじまって、
 『あの子さぁ、こないだ、
  合唱コンクールの練習に来なかったじゃん』
 『いや、でも、わけがあるらしいよ』
 とか、そんな話を長く続けていうと、
 どこかで彼女らなりの哲学が出てくる。
 単語としてはニーチェもキルケゴールも
 出てこないかもしれないけれど、
 どこかのところで『生きる』ということに関わる
 何かが出てくるということで、観念につながる。
 だから、今、一番悲しいのはともだちのいない子です。
 今は、長居や携帯なりで相手につながって、
 自分たちの言葉で、長くしゃべれるテーマを、
 みんなで探しあっているような時代だと思います。

 テレビをはじめとするメディアが
 どんどんいろいろなものを具体的に垂れ流して、
 問いにもすぐに答えを出す。
 そういうところではないもののために、若い人たちが
 体をつかって防衛しているような雰囲気を感じます。
 だけど、獲得目標があって、それに対して
 一番いい答えを出せば『勝ち』になっているから、
 テレビを作る側は、そんなことを、考えてもいない。

 何で、観念の部分が削ぎ落とされたのかというと、
 今の世の中の価値観を決めているのが、
 『勝ちか負けか』だけになっているからだと思います。
 『何のかんの言っても、勝った人が強い。
  どんな手段を使っても、勝った人がすごい。
  負けた人は何を言っても聞いてもらえない。
  勝ったからこそ、俺の意見を聞いてもらえている』
 ・・・そういう価値観に、ほとんどの人が
 無意識のうちに流れていってしまっていて、
 『勝ちか負けか』だけの基準で
 今の世の中が動いているように、ぼくには見えます。

 それはそうなっているのだから、
 しょうがないことなのかもしれないけど、
 歴史的に見て、価値観ってそんなものだったのか?
 と考えてみると、そうじゃなかったんじゃないかなあ。
 ぼくは、信頼しているともだちに、
 『糸井さん、時代をさかのぼらせたいんでしょう?』
 と言われたことがあって・・・実はそうなんだよね。
 『価値観は、そんなものではないような』
 と、言いたいような気がしているんです。
 今は『勝ちか負けか』というひとつの価値観だけが、
 一番大事なルールになってしまっているから」




★話が途中ですので、次回につづきます。

 作り手が何をしたいのかという話に移るために、
 まずは広角カメラで捉えてみたようなものです。

 ・・・作ったものを載せる場所の価値観が、
 今は『勝ち負け』になっているみたいなのだが、
 どうも、darlingはそれを違うと感じているようです。
 『若い人たちにも、そうじゃなくしたい、
  という反応が出てると思う』と言ってるけど・・・。

 『勝ち負け』の価値観でできている土壌で
 作り手になるとは、どういうことなのでしょうか?
 『勝ち負け』の土壌の上で受け手であるというのは、
 受け手にとって、どんな状態を生んでいくのだろう?
 そのあたりを、次回に聞いてゆきます。


(つづく)

2000-08-11-FRI

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