岡本太郎といえば、
「芸術は爆発だ!」とテレビで叫んでいた
ちょっとヘンなおじさん、
というイメージがあるかもしれません。
岡本太郎記念館館長である岡本敏子さんに
TAROって、いったいどんな人だったのかを
うかがってみることにしました。
「こんな人だったんだ!」と
びっくりすることが、きっと出てきますよ。

岡本敏子さんプロフィール





第1回 もしもあそこに「こどもの樹」がなかったら?

私はお母さん達とか先生とか、
若い世代を指導する人達に言いたい。
あなた方がこれはやってはいけないことだ、
と思われるようなことこそ、
大ていの場合、
むしろやらなきゃいけないことである。

『芸術と青春』(光文社 知恵の森文庫)より

 
糸井 岡本太郎さんについて、
いっぱいうかがいたいことがあるんですけど、
どこからにしようかな。
敏子 どこからでも、どうぞ。
糸井 万博のあとの世代って、
「テレビに出ていた太郎さん」が、
おもな記憶だと思うんですよ。
それが、最近また売り出されている
著書を読んだりして、
「あれ、ちょっとちがうかな」って印象が、
みんなにあると思うんです。
敏子 そうでしょうね。
糸井 イメージって、勝手にひとり歩きするけど、
太郎さんは、意識的にそこを
覚悟していたところがありますよね。
敏子 誤解される人は美しいって
言っているくらいですからね。
自分が発信したあとのことは、
ほんとにどうでもいいと思っているの。
そこは、自分がどうこうするところじゃない。
それは、受け取るみなさんのものだ、と。
糸井 ぼくがいちばん好きな岡本太郎は、
青山の子どもの城の前にある
「こどもの樹」なんですよ。
あれは、けっこう年を取られてからの
作品ですよね。


東京青山子どもの城にある、「こどもの樹」。
敏子 そうです、あれはずいぶん後ね。
糸井 あれは、いい安定感があるんです。
岡本太郎のもののなかでは、
ひじょうに穏やかな、というか(笑)。
敏子 ええ、そうですね。
だって、あそこは子どもの集まる場所でしょ?
だから、尖ってちゃいけないのよ。
糸井 岡本太郎さんって、親切なんだよね、
そういうところが(笑)。
敏子 そう。優しいのよ。
でね、自分は子どもの代表だと思ってるわけ。
子どもの城は、子どものための施設でしょ?
あそこには、子どもだけじゃなくて、
親や先生や、お役人など、
大人たちもいっぱい来る。
だから、それに対して、
メッセージを突きつけてるの。
糸井 うん、うん。
敏子 あれは、「こどもの樹」っていうくらいだから、
植物であり子どもなの。
子どもの生命力と植物の生命力が
一体になってるんですよ。
八方に、グァーっと、枝をのばして。
糸井 枝の先が、みんな、顔なんですよね。
敏子 それぞれがみんな、色の違う顔。
怒ってるのもいるし、ベソかいてるのもいるし、
ベロ出してんのもいる。
「子どもというのはひとりひとりがみんな、
 こういう独自の、自分の顔を持ってなきゃ
 いけないんだぞ」
って、岡本太郎は伝えたいわけ。
親や先生は、みんな一緒に、
隣の子とおんなじならいい、っていうように、
ひとりひとりの子を抑えちゃうじゃない?
だから、あの「こどもの樹」は、
親や先生やお役人たちに対する、
強烈なメッセージなのよね。
糸井 あれが、あの場所に、
もしもなかったらと考えると、
寒いですよ、あの建物。
敏子 そうね。
糸井 あれ、やさしいんですよ。
ひじょうにやさしい。
敏子 そう。じつは、
あのオブジェは、台が低いの。
それは、親が子どもをちょっと乗っけられる、
ちょうどそのくらいの高さなの(笑)。
糸井 そうだったっけ?
敏子 うん、そうなの。
だから、みんな子どもを乗っけちゃうのよ。
そうすると、子どもが枝にぶら下がってね。
壊しゃしないかと、館長さんたちが
みんな心配して。
糸井 うん、うん。
敏子 「あの低さは困るから、
 もうちょっと高くできませんか?」って、
さんざん言われたのよ。
とにかく届かない高さにしてくれって。
でも、岡本太郎は、
「子どもの城なんだろ? 子どもが見るんだぞ!
 そんな、見えないような高さにして何になる?」
って言ってね。
だから、敢えて、あの高さなの。
糸井 思えばお役所の仕事なんですよね、
あれ自体は。
敏子 そうよ。
糸井 そこのところを、あの彫刻ひとつが、
みんなを。
敏子 こっちに引き寄せちゃうのよ。ねぇ?
糸井 うん。だから、みーんな、好きですよね、あそこ。
そういう力って、すごいんだよ。
アートって、すごいよね!
敏子 おもしろいわねぇ。
糸井 どんなに言葉で説明したって
ダメですね。
敏子 あの彫刻でなければ
伝えられないメッセージがあるのよ。
いくら言葉で説明したって、
それは「言葉」になっちゃうの。
この前、メキシコで、岡本太郎の
35年前の絵が発見されたんだけど。
糸井 みました、ニュースでみましたよ。
敏子 あの絵、ほんとにいいわよ。
やっぱり岡本太郎は、画家なんだなぁ
と思いますよ。
「太陽の塔」を
みなさんよくご存知だと思うんだけど、
やっぱりね、絵でしか伝えられないもの、
そういうメッセージがあるんですよ。
糸井 なるほど。




第2回 「明日の神話」って、TAROが言いたかったのは。

人間の矛盾は、激しく世界を意識し、
他にかかわればかかわるほど、
自分自身は孤独になるのだ。
逆に言えば、孤独であればあるほど、他にかかわる。
『眼 ──美しく怒れ──』(チクマ秀版社)より

 
敏子 メキシコで35年ぶりに見つかった壁画は、
「明日の神話」というタイトルで、
「太陽の塔」と同時期に描かれたものなんです。
メキシコシティの、ホテルの壁に飾られるはずの
絵だったんだけど、
ホテルがオープンしなかったの。
以来、ずーっと行方不明だった。
糸井 テレビでは、
絵がちょっと傷んでるふうに言われていたけども、
全体的にはものすごく無事ですよね。
奇跡みたいに。
敏子 ええ。もっとひどいことに
なってるんじゃないかと思ってたから、
見る前は怖かったの。
グチャグチャになって、
剥落したりしてるんじゃないかなぁ、と。
でも、ちょっと欠けたところもあるんだけど
画面そのものは、絵の具はしっかり付いてるし、
色も変わってないし、とってもいい状態!
壁材に描いてるから、荒れた感じが
フレスコ画みたいになっていて。
糸井 そうすると、ある意味では
原始的に見えるわけですね。
壁材っていうのは、
家の壁と同じような材質なんですか?
敏子 コンクリートの板なんです。
30mの大きさのものを、7枚に切って描いて、
それを運び込んでホテルに飾ったんですよ。
糸井 はめ込んだんですね、壁に。
敏子 うん。その方式は、あの絵の依頼者の哲学だったの。
「建築ってものはどんなに立派に、
 ちゃんとつくっても、いずれは壊されるもの。
 けれど絵画は永遠だから」
糸井 だから、外せるように!!
そのおかげで見つかったんですね。
すっごく大きい絵ですが、
何日間くらいメキシコに行ってたんですか?
敏子 1週間か10日しかとれないでしょう。
絵を仕上げるまでに30回ぐらい、行ったかしら。
当時は、万博のプロデューサーを
引き受けたところだったから、
「太陽の塔」をはじめとする構想を
万博協会に出したりしていた最中だったの。
そういうなかを、
プロデューサーが1週間日本をあけるって、
ほとんど不可能な話ですよ。
でも、岡本太郎は、両方やりたいのね。
ほんとうに、メキシコまで、
何度も何度も往復しました。
糸井 敏子さんは、今回は、
「見つかったぞ」っていうことで
メキシコに行ったんですか?
敏子 そうです。
糸井 これまでも、何度かそういうことは
あったんですか?
敏子 そりゃあ、もう、いろんな人が探しててくれて、
何度も何度も。
テレビでもいろんな番組が、
その「幻の壁画」を探す企画を
組んでくれるんだけど、
「じゃあ行きましょう」って
スケジュールを組んで、行こうとすると、
とたんに絵の所在がうやむやになっちゃうの。
糸井 あんなでかいものが、
そんなに見つかんないって、おかしいよね(笑)。
敏子 そうなの。でも、
こんど見つけてくれた人は、執念のある人でね。
絵の在りかをみつけるのに
8年間をかけたっていうの。
糸井 すごいですね。
敏子 そのホテル、からだだけできて、野ざらしになって、
世界の七不思議って言われていたのよ。
絵の発注者が亡くなったあと、
その息子たちはホテルなんかやる気がないから、
建物をデベロッパーに売っちゃったの。
そこが、また倒産した。
そして、こんどは、銀行管理になった。
銀行管理の差し押さえリストを
ちゃんと調べてもらったんだけど、
そこには岡本太郎の壁画はなかった。
じつは、差し押さえられる前に、
外してどっかへ隠しちゃったらしい。
糸井 はぁぁー。
敏子 そこから、あの絵は
「見せられないもの」になってしまった。
表ざたになるとまずいから。
糸井 記録できないんだ。
美術品は税金対策で隠しておく、
みたいなのと同じだ。
敏子 そうそう。それで、隠してる間に
どっかに売っちゃおうと思ったらしいのね。
日本にも売りに来たらしいんです。
糸井 ほんとに(笑)?
敏子 ええ。それで、
もう20年以上メキシコにいる、
ある日本人の方が
「どうしてもそれを探してやる!」って、
毎日毎日デベロッパーに、
メールを送ったり電話をかけたりして。
1週間にいっぺんは必ずレターを持って
責任者を尋ねて行って(笑)。
しつっこくて、ストーカーみたいなやつだなあって
嫌がられたらしいよ。
それで、そこの資材置場や倉庫が
メキシコ国内中に、
185もあることがわかったんだって。
糸井 隠しちゃってるから、
どこの倉庫にあるかは、わかんないんだ。
敏子 そうなの、そうなの。
それで、その人、もう片っ端から
しらみつぶしに電話をかけたんですって。
こういうの預かってないか?
こういうのがあるはずだけど、って。
糸井 そう訊いたって、ほんとのこと言うかどうか
わかんないですよね。
敏子 うん、わかんないわよ?
あるっていうから行ってみると
見せてくれなかったり、
そうじゃないものだったりね。
何度も何度もそういうことがあって、
8年間かけてようやくつきとめたんだって。
糸井 すごいねー。
その人にそうさせたのって、
岡本太郎の力だよね。
敏子 うん。
見つかってほんとうによかったわ。
それもあなた、いい絵なのよ!
岡本太郎の最高傑作よ。
糸井 敏子さんは、下絵しか
見てなかったんですよね。
敏子 いえいえ! 一緒にメキシコに行って、
岡本太郎が描いてる横に
ずーっとついてたんだから。
糸井 そうか!
敏子 ホテル側が、壁のサイズを
何度も変更してくるのよ。さすが、メキシコ。
だから、あの絵の下絵は、全部で4種類あるの。
最後は10メートルの、3分の1の下絵を描いた。
糸井 下絵っていう大きさじゃないですよね、
それ(笑)。


「明日の神話」下絵を描くTARO。
敏子 それはいま、
川崎市岡本太郎美術館にあるんです。
糸井 絵は、核がモチーフになっているんですよね。
敏子 そうなの。原爆のキノコ雲がにょきにょき。
真ん中に、炎をあげるガイコツが描かれているし、
そのバックには、燃える人間像がシルエットになって、
無限に行列しているの。
端っこにはビキニの水爆実験で被爆した第五福竜丸も
マグロを引っ張っている。


「明日の神話」(下絵・部分)。中央のガイコツ。
糸井 「太陽の塔」と同時期に並行してつくられた大作、
ということだけど、
ずいぶん雰囲気がちがうんですね。
敏子 そこがたぶん、意味があると思うのね。
岡本太郎は、あの「太陽の塔」を
万博の広場につくりながら、
この絵を、メキシコで描いていた。
糸井 しかも、核の絵を
メキシコのホテルの壁に飾ろうとしていたんだね。
敏子 核がモチーフなんて、
重々しく暗い絵だと思うでしょ?
ところが、この絵は明るいの。全体が哄笑している。
だって、タイトルが「明日の神話」なのよ。
第五福竜丸がひょこひょこ踊ってるし
生まれたばかりのちっちゃいキノコ雲は、
かわいい舌を出してる。
そして、真ん中で、人間のつくりだした核を、
哄笑してふきとばしているかのように
燃えているガイコツ。その美しさ。
人間がつくりだした核というものをモチーフにして、
逆に「ひとりの人間」の力のすばらしさを
見せたかったのかもしれない。
それを、岡本太郎は「明日の神話」と名づけたのね。


「明日の神話」(下絵・部分)。キノコ雲から舌が出ています。
糸井 見たいですね。
大きい壁画を、いつか必ず見たくなってきました。
敏子 時間と、自然と、岡本太郎とが
一体になってるかんじがするの。
純粋だし、ほんとにすごいメッセージよ。




第3回 TARO、あだ名はモチロンちゃん。

ぼくは父・一平にも、母・かの子にも、
親子というより人間同士として、
強烈な愛情を抱いていた。
純粋で無条件な一体感だ。
『自分の中に毒を持て』(青春出版社)より



TAROとその母かの子。1919年撮影。
糸井 太郎さんは、岡本一平、岡本かの子夫妻の、
芸術的な一家のひとりっ子ですよね。
敏子 うん、一平さんは漫画家、
かの子さんは歌人であり、小説家。
ほんとは弟と妹がいたのよ。
かの子さんが蹴飛ばして死んじゃったんだ、って
太郎さんは言ってるけどね(笑)。
とにかく、お母さんとしては
不器用な人だったみたい。
糸井 かの子さんって、たいへんな
お嬢様だったらしいですね。
敏子 そうですよ。
太郎さんがまだちっちゃいころの話なんだけど、
昼間はお父さんは仕事でいないわけ。
母親とふたりだけ。
かの子さんは、文学に没頭していて、
机に向かって短冊に字を書いたりして、
ぜんぜん相手をしてくれなかったらしいのよ。
それどころか、太郎さんが肩によじ登って
髪を引っ張ったりなんかするとうるさいもんだから、
柱とか箪笥の環にへこ帯で
太郎さんを縛りつけたらしいの。
帯が伸びる範囲だけしか動けないようにして。
糸井 犬みたい。
敏子 うん、犬ころみたい。
しかも、裸で。
糸井 裸で!
敏子 いくら泣きわめいてもぜんぜん知らん顔して、
振り向いてもくれないんだって。
髪の毛をバサーッと垂らしたまんま、
結いもしないで。
糸井 怖いねー!
敏子 うん。その頃は、かの子さん、
神経質で痩せてたんですって。
青ーい顔して、短冊に、和歌かなんかを、
シューッと書いてる。
それを泣きわめきながら見ててね、
もう体中が熱くなるほど、
好きだったっていうんだから。
糸井 うわぁ‥‥!
敏子 神聖感と共感を感じたんですって。
ほんっとに、心の底から共感したっていうのよ。
そんな子ども、いないでしょ?
糸井 すごいね。
敏子 どんなことでも、自分を貫く強い姿よ。
糸井 でも、共感したかもしんないけど、
そこに、自分の子ども置けっていわれたら、
嫌だよ〜!
敏子 岡本かの子さんっていうのは、
ほんとうに芸術だけで、
あとは一切、ない人なのよ。
だからもう、話といえば芸術の話なの。
小さい太郎さんにも、それは容赦なく、
芸術の話をしていたらしいよ。
太郎さんは、両親の話を聞いて
「モチロン、モチロン」って相づちをうつから、
親戚からは、「モチロンちゃん」って
あだ名をつけられたそうなのよ。
糸井 すごいなあ。


「モチロンちゃん」だったTARO。
敏子 それでね、一平さんに預けられていた
政治家の御曹司が、
当時、岡本家に同居していたんだけど。
糸井 書生さんみたいに?
敏子 書生というよりも、
大事なお坊ちゃんを預かってるってかんじかな。
その人、見るに見かねちゃって、
かの子さんの代わりに、
太郎さんを一生懸命お風呂に入れたり、
ご飯食べさせたりして育てたのよ。
糸井 周りがしないから。
敏子 お台所にザルがぶら下げてあるんだって。
そこに無造作にね、お札や小銭が
ザラザラっと入ってるの。
糸井 それ、八百屋さんみたいじゃないですか(笑)。
敏子 ご用聞きが
「岡本さーん、何とかでーす」って
品物を持って来るとね、
そこから勝手にお金を持っていくんですって。
「こんなことやってたんじゃ‥‥!」って、
まともな人は、思っちゃうらしいのね。
糸井 いくら持ってってもわかんないもんね。
敏子 その彼がね、のちに、ある県の知事になったんです。
知事になってからよく、
東京に出てきて時間があると青山に来て、
いろんな話をしてくれるんですけど
「いやー、あの頃は、
 ほんっとに生き甲斐がありました」
っていうのね。
糸井 へぇーっ(笑)!
知事さんが。
敏子 「あの家は、芸術しか認めない家ですからね、
 僕はこういう凡人だから、
 太郎なんてちっちゃいのに
 僕を馬鹿にしてるんです」って(笑)。
糸井 太郎さんは、ある種の天才教育のなかに、
ずっぽりいた、みたいなことなんですねぇ。
敏子 みんな天才。
へんてこりんな天才なのよ。

(来週の火曜に、つづきます!)




第4回 修練を見せない人。

僕みたいな絵なら、ものの二、三日も
油絵の具の溶き方や線のひき方ぐらいを覚えれば、
すぐに描けるんで、あとはもし、あなたに才能があり、
さらに僕よりも自由な精神をもっているのだったら、
岡本太郎なんかをしのぐことはわけないんです。
『今日の芸術』(光文社 知恵の森文庫)より



慶応幼稚舎。TAROは前列右から3番目にいます。
 
糸井 太郎さんって、たしか、
ピアノも弾きますよね。
敏子 ええ。そういえば、おもしろい話がありますよ。
藤山一郎さんと太郎さんは、
慶応幼稚舎で同級生だったの。
太郎さんは、かの子さんが育てられないから、
寄宿舎に入れられちゃってて。
あるとき、藤山さんが
寄宿舎に遊びに行ったんですって。
そしたら、誰かピアノを弾いてるやつがいる。
それも立派なショパンをね。
「誰だろう、って思って見たら、
 それが太郎で、びっくりした」
って、言ってましたよ。
藤山さんは、太郎が美術学校に行くことを
当時から知っていたんだけど、
「美術学校に行く太郎が
 あんなにピアノを弾くんじゃ、
 うかうかしてはいられないと思って
 それからまじめにお稽古するようになった」
って言ってました。
糸井 ‥‥でも、ピアノって、
突貫的にやるようなものではないですよね?
少なくとも、人の見てないとこで
エチュードの連続がないと(笑)。
敏子 うーん、そうなのよね。
「どうして弾けるようになったんですか?」
って訊いたことはあるんだけどね、
自然に憶えたね、って言ってましたよ。
糸井 岡本太郎という人に
みんなが抱いてるイメージって、
どうしても「爆発だ!」にいっちゃうから、
岡本太郎は、すべてが直感で
なにか天の啓示を受けてんだ、
って思えるんです。
だけど、そんなはずはないんです。
岡本さんって、その「前の段階」を
見せていないですよね。
敏子 そうねぇ。
糸井 ピアノが弾けるなんて話は、
ほんとは意外なんですよ。
弾けたらおかしいですよね?
なんてったって、練習のいるもんですから。
言語を憶えるのと同じで。
敏子 なに弾いてるか憶えてないのよ、いつも。
手だけ動くの。
なんの曲弾いてるんだろう、手が動くよ、
と言って弾いてた。
みんな暗譜で。
糸井 ちっちゃいときに、
自分でたたき込んで、
そうなったんでしょうね。
かなりうまかったんでしょう?

敏子 あのね、第一生命ホールに、
音楽家が集まって
忘年会をやったことがあるの。
そこに呼ばれて、
「先生、ピアノ上手いから、
 舞台で弾いて下さい」
って言われたのよ。
あの人は、なんでも
「よしよし、やってやる」っていう質だから
引き受けちゃった。
舞台に出てきて、普通のスーツ着てるのに
燕尾服の裾をひゅっと
はね上げるようなかっこして、
ピアノの前に座った。
ちょっと指をこう、気どって
こすり合わせたりしてね。
みてるのは、ぜんぶ音楽家なんだよ?
「これから僕が弾く曲は、
 フレデリックっていう友だちとの合作なんだ。
 とってもきれいな、情熱的な女性がいて、
 三角関係だった。
 きれいに弾くところは
 フレデリックのパートで、
 ときどきパッと
 ウルトラモダンになるところは
 僕のパートなんだ」
って、しゃべった。
みんなは、しゃべるだけで
帰っちゃうと思ってたの。
そしたら、ほんとにガーッと弾きだした。
糸井 ハハハ。
敏子 みんな、びっくりしちゃってね。
「あんなにピアノをお弾きになるとは
 思わなかった。
 まるでショパンそのものみたいだった」
って。ところどころ抜かしたり、
とばしたり、また戻ったりして弾いて。
「我々はああいうことはしないけど、
 あんなにすごいタッチで
 ショパン的には弾けない」
って、みんながほんとに言うのよ。
糸井 なん‥‥なんでしょう(笑)?
敏子 酔っぱらうとジャズの即興をやるのよ。
それがいいの、すっごいいいのよ。
糸井 外国語もお話しになるんですよね?
敏子 ええ。
フランス語。
完璧に、きれいに話しますよ。
糸井 そういうのがね、おかしいなあ。
なんだか、太郎さんの幼生の時代に、
秘密があるような気がします。
つまり、「おたまじゃくし」の時代に、
「おたまじゃくしのまま
 一生終わっちゃうんじゃないか」
っていうぐらいに、
エネルギーを結集させてた時代が、
きっとあったんだろうね。
敏子 いいことおっしゃるわね。
そのとおりよ。
糸井 うん。だから、岡本太郎は
大人になるほど自由になっていった人、
っていう気がするんです。
だから、たぶん、ちっちゃいときは、
壊れちゃいそうなやつで。
敏子 神経質な子どもだった。
糸井 きっと「おまえなんか生きてる資格ない」
ってくらい、弱かったのかもしれない。
敏子 それで、けっこう理屈っぽいのよ。
親とはしょっちゅう芸術論をやってたから。
糸井 ほったらかしであり、
天才教育であり。
ふつうに考えたら歪んだ子になりますよね。
敏子 そうですね。
糸井 そんな子どもと遊ぶ、
おんなじような歳の子は、
ちょっと、いないですよね。
敏子 うん、周りにもいないし、ひとりっ子だし。
糸井 そこで曲げるだけ曲げちゃった、
ある栄養がすごく足んない
子どもがいて(笑)。
敏子 うふふ、そうね。
糸井 きっと意地っ張りで、
おとなに負けないように、
ガッリガリにやったんだ。
だから、きっと、
修練は平気だったんでしょうね。
語学やピアノも、全部身に付いたんだね。



第5回 おもしろ主義の、覚悟。

一番目、二番目は相手も気ばかりはやって
まだ調子が出ず、ジャストミートしない。
三番目、そろそろ調子が整ってきて、
四番目が一番強烈だ。
後の方になってくると、
殴るほうもだんだんと腕が疲れてくる。
岡本太郎はその四番目がくるのを待つ。
『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』(小学館)より

敏子 太郎さんが中学生のころのエピソードなんだけど、
太郎さんは本を
階段で足を上にして寝そべって
読むんだって(笑)。
「頭を使って本を読んでるんだから、
 頭に血がくるほうがいい」
と言って。
糸井 ハハハ。
敏子 いつもそうやって本読んでたって、
みんな言います。
実践してるのよ。
自分がそれほど変わってると思ってないのよね。
糸井 その、変種のような人が、
自然さのようなものを獲得してったわけですよね。
いま、時代は、当時以上に、
頭でっかちだらけになっちゃった。
敏子 そうね。
糸井 いまの時代は、みんな、
「若いときの岡本太郎」みたいになってる。
太郎さんは、それが嫌だから出たんだよね。
そして、死んだときがいちばん
「子ども」になってたんじゃないかな(笑)。
敏子 そうよ。
年を取るっていうのは、
だんだん枯れることじゃないんだって。
どんどんどんどん膨らんでいって、
膨らみきったところで、ドッと倒れるのが死なの。
実際、そのとおりでしたよ。
糸井 岡本太郎は、
いわゆる健康ですくすく育ったというのとは
実は違うから、
辛かったんじゃないかな、って想像するんだけど、
そういうかんじがないのが不思議なんですよ。
敏子 ないの。全然ないですね。
糸井 それは何なんですかねぇ。
強いんですかね? やっぱり。
敏子 あの方はなにせ、
留学先のパリから日本へ帰ってきて、
軍隊に入れられたんですから、
それこそ、辛かったと思うわよ。
フランスは自由主義国で、
日本はドイツと組んでるから敵国でしょ?
自由主義って、犯罪人よりもっと悪いのよ。
そんな時代にアバンギャルドなんて言ったら、
それこそ、極悪非道みたいなもんですよ。
糸井 国賊ですね。
敏子 そう、国賊よ。
滝口修造みたいな人でさえ捕まったんですからね。
でも、岡本太郎は、
捕まるよりもっと酷いところに
放り込まれたんだよ、って言ってました。
軍隊より監獄のほうがずっと楽だったよ、と。
おまえなぞ根性をたたき直してやらねばならぬ、
なんて手ぐすね引いてるなかに
放り込まれたんだから、
そりゃもう、ひどかったでしょうね。
糸井 そういう悲鳴みたいなものを
ぜんぜん残さない人ですね。
敏子 うん。あんまり書いてもいませんよ。
ただね、「四番目主義」っていうのを、
ひとつ書いてるだけね。
廊下に並んで上官に順番に殴られるんだけど、
四番目がいちばん痛いんだって。
自分はすすんで四番目に並んでいた
というのを書いてて。
それも、ほんとに悲惨な話なんだけど、
なんかカラッとしてて、
ユーモラスに書いてるのよ。

糸井 やっぱ、根っこがユーモリストというか、
おもしろ主義なところがあります(笑)。
敏子 それはあるのね。
それを読んだ人が
「僕も戦争中のことを思い出しましたよ。
 岡本先生もたいへんな目に
 遭ってらっしゃるんですね。いやー、ケラケラ」
なんて笑っちゃうのよ。
糸井 それって、強さなんですかねぇ。
敏子 違う。負けないぞっていう意志ですね。
糸井 でも、意志って脆いじゃないですか、ふつう。
敏子 でも、この人は覚悟してるの。
いつも確信犯なのよ。
糸井 うん‥‥なんかね、意志と呼ぶには、
しなやかというか。
敏子 そうね、突っ張ってないのよね。

(火曜に、つづきます!)



第6回
いま、デッサンなんてやる必要はぜんぜんない!


考えてもごらんなさい。
ピカソにせよ、マチスにせよ、
彼らが二十世紀芸術のチャンピオンとして、
真に世界にかがやくピカソ、マチスになったのは、
いずれも二十代・三十代の若き日においてです。
年季なんかあるはずはありません。
『今日の芸術』(光文社 知恵の森文庫)より

糸井 岡本太郎って、
技術の部分を見せないですよね。
敏子 うん、もう、ワーッとむちゃくちゃに、
走り回って描いたようにみんな思ってるでしょ?
そうじゃないんだから。
糸井 思わせたんですよ、自分が(笑)。
でも、思わせてる理由っていうのは
わかるんです。
つまり、みんなに
「おまえは岡本太郎だ」って
言いたいから。
敏子 うん、そうそう。
糸井 「こんなにやんないとできないんだよ」
って言ったら、なんにもなんないから(笑)。
敏子 うん。
「デッサンなんか、やんなくっていいんだ!」
糸井 そう言うわけですよね(笑)。
敏子 ピカソのことをみんなが
「あんなすごいデッサン力があるから、
 ああいう絵を描けるんだ」
って、さかんに言ってたときに
「バカなこと言うな、ピカソのあの時代は、
 あれしかやることがなかったから、
 あれをやったんだよ。
 いま、そんなことやる必要は全然ない!」
って言ってた。
もう、思いさえすれば、パッとすぐできるって。
糸井 それはそれで、
ウソじゃ‥‥ないんだよね(笑)。
でも、太郎さんは、自分では
力、持ってるんだよね。
敏子 でも、彼は、
こういうものを描きたいんだ
こういうものを伝えたいんだ、ってことを
自分がはっきりつかめてれば、
技術は自然にそこについてるもんだ!って言うのよ。
糸井 うーん。
敏子 実際に、彼を見てるとそうなのよ。
たとえば焼き物をやるときだって、そう。
焼き物なんてやったことないのに、
いきなり陶板のすっごい大っきいのを扱う。
何メートルもある厚い陶板を置いて、
それにレリーフを彫ってくのよ。
糸井 あの、信楽の話ですね。
周りの人がみんな、
大わらわだったらしいですね。
作業の指示を出すのに、
学校の校舎の上のほうに登って、
拡声器で「もっと右っ!」とかやってた(笑)。
敏子 そう、そうそう。
「そこ削って!」とか。
だって、上から見なきゃわかんないじゃない?
糸井 そこでこき使われた人はみんな
うっれしそうにしてたんだってね。
敏子 そうよ、もうみんな、
生き甲斐を感じて。
糸井 ハハハ。
敏子 そのレリーフができあがると、
今度は切らなきゃいけないの。
切って中をえぐって
壺みたいなかたちにしないと乾かないから。
でも、変なとこを切っちゃうと、
絵のムーブメントがなくなっちゃうでしょ。
試作のときには、
職人さんに切ってもらったんだけど、
変なとこを切られちゃって、
「なんだ、これは!」って怒ってましたけどね。
糸井 「なんだ、これは!」って怒って(笑)。
敏子 本番は、自分が切ると決めてたの。
例えば、あんまりにも細く切っちゃったりすると、
焼いたときにそこが歪んじゃったり、
ひねれちゃったりするんですよ。
だから、切るところを指定するにも
技術がいるんだけど、
彼、ぜんぜん平気よ。
ピューッ、ピューッと、筆で、
切る線を描いていくの。
そのとおりに職人さんが切ってくれる。
そうすると、ぜんぶピターッとうまくいく。
糸井 味方につけちゃうんですよね、
不定形なものを。
敏子 あれは不思議。
どこでそんな技術を身につけたのか。
糸井 それは、岡本先生に言わせれば、
「みんなできるよ」って言うわけよ。
敏子 みんなできる。
やる気になれば、やろうと思えば、って言うわけ。
でも、あの人見てると、ほんとに、
そうみたいに思えちゃいますよ。
糸井 僕はちょうど、
むかーしの頑固でうるさい人と、
「なんにもそういうの、なし」の人たちとの
中間の世代にいる。だから
両方のおもしろさがわかるんです。
敏子 わかる。うん、うん、うん。
糸井 「岡本太郎っていうのはな、おまえな」
って、ちょっとは言いたくなるんです。
じつは、背景にすごく技術を持っていて、
ピアノ弾けちゃうみたいなことがあるんだ。
だからほんとは「パッとできた」ってもんじゃ
ないんだよ、と。
「みんなもできる」って言ってる岡本太郎が、
ピアノが弾けるっていうことは、
やっぱりおまえも、いま、やることはあるだろう、
って言いたくなっちゃう面がある。
それが、ひとつ。
敏子 ふふふ。
それは、言わないほうがいいわよ。
糸井 うん(笑)。
もうひとつは、そういうことを知ってても、
「オッケー、ぜんぶオッケー」って
言っちゃうこと。それも、よくわかる。
だけど、なにかをはじめちゃった人は、
「ピアノを練習する」みたいなことが、
逆にしたくなるんじゃないか?って
思うんだよね。
‥‥あの、横尾忠則さんが
いまごろになって
「技術が欲しい、技術が欲しい」って
言ってるんです。
敏子 そうなの。
糸井 僕、横尾さんって、
技術がある人だと思ってます。
あんなに技術のある人なのに。
敏子 ありますよ。うん。
糸井 その横尾さんが、
自分に足んないのがそこだって、
あんなにも言うって(笑)、
愉快ですよ。
敏子 わかるわ。
彼、もうほんとに渇望してるに違いないわよ。
描きたいものはあるんですもの。
糸井 そこはもう自信があるんですよね、
いくらでも出てくる。
敏子 わかるわかる。
糸井 脳はできてるけど、
手がついていかないっていうか(笑)。
だから、「もう好きなようにやれ」って
言うのと同時に、
そっちの「修練」のほうも、
すごい楽しみがあるんだよ、って
若い人に言ってあげたい気持ちもある。
敏子 糸井さん、親切すぎるよ。
糸井 親切すぎるのか。
敏子 うん(笑)。そんなこと言ったってだめ。
言う必要はないの。
糸井 ‥‥なーるほどなー。そうか。



第7回 TARO、迷ってた。

疑惑と焦慮に錯乱し、
数年間、夢遊病者のような彷徨がつづいた。
当時のことをいま思い出してもゾッとする。
『芸術と青春』(光文社 知恵の森文庫)より

糸井 岡本太郎って、ある年齢までは、
なんなんだ、それは?!って、
青筋たてて生きてきたような気がする。
敏子 そうね、
20歳ぐらいまでは。
糸井 そこの辛さは、
世にあまり伝わっていないところだけど、
岡本太郎は、たぶん、
もうその時点で死んじゃってても
おかしくなかったんじゃないかな。
敏子 うん。‥‥朝、起きて、
顔を洗って鏡を見るとね、
ほんーっとに嫌な顔してたんだ、
って言ってた。
糸井 うわぁ〜!
敏子 みんなには、
「若いみそらで留学させてもらった
 いい気なお坊ちゃんだよな」
なんて思われてたけど、
そのころは、もうほんとに
憂鬱な顔してたんですって。


パリのアトリエで、横光利一(右)と。
糸井 坊ちゃんだって
外国行ったらだめですよね。
それは漱石にしたって鴎外にしたって、
ひでぇ目に遭って
恨んで帰ってきてんだから(笑)。
敏子 あの方は、フランスで
なにもかもをいちど、ワッと掴んじゃったの。
パリではもう、あんまり絵はやらないで
民族学やってたんだから。
糸井 そうか。
レヴィ・ストロースと
同級生みたいなもんですよね。
敏子 ジョルジュ・バタイユなんかのあの一派と、
喧々囂々とやって、秘密結社までつくったのよ。
バタイユから手紙で
「何月何日にどこそこの駅に集合!」
って呼び出されると、
その日は一切、
口をきいてはいけないっていう掟なんだって。
その秘密結社の連中が、無言で
サンジェルマンの森の奥に集まるの。秘儀よ。
そんなことまじめにやってんのよ、
そのすごい人たちが。子どもっぽいよね(笑)。
糸井 プッ(笑)。
その場面だけでも、
歴史そのものみたい。
敏子 自分のもともと抱えているものもあって、
時代の洗礼、前衛芸術の運動もした、
いろんな勉強もした。
その時期に、自分の問いかけで
いっぱいになっちゃってね。
糸井 うん、うん。
敏子 どうしてかわからないけど、結局
「安全な道か危険な道をとるか、どちらかだ」
と思うに至ったんです。
そのときに「危険な道をとる」って
決然と、決めたんですって。
糸井 そこで、ふっ切れたんですね。
太郎さんは、
明るいかんじがしますけど、
明るくしたんですね、自分で。
発電したんだよね。
敏子 ふふふふ。そうね。
糸井 自分の持ってる、
小さいときからの「魔」みたいなものと
ずーっと戦ってきて。
で、なおして、なおして、
なおしてったら、だんだんと
フワーッと気持ちよくなってった(笑)。
僕は晩年の岡本さんしか見てないけども、
赤ん坊みたいですよね。
敏子 そうですよ。
あたくしが知ったころは、もうそうでしたね。
糸井 そうですか。
敏子 彼は、日本に帰ってくるときに、
もうああいうふうに、
「岡本太郎になるんだ。
 自分は、岡本太郎としてやっていくんだ」
ってことを覚悟して帰ってきたの。
糸井 飛び込んだみたいな感じだ。
敏子 あの人ははじめからああいう人なんだ、なんて
とんでもない、そんなことない。
自分で覚悟してそうなったの。
だから動じないのよ。
どんなに、叩かれても突っつかれてもね。
糸井 赤ん坊が、出産で
急に光の中に出てくるみたいな、
そういう生まれ方ですよね、きっと。
それまでは、真っ暗だったんでしょうね。
敏子 でしょうね。
糸井 パリでは、民族学をやってたって。
敏子 ええ、岡本太郎の先生は、
マルセル・モースっていう、
ヨーロッパの民族学の父って
いわれてる人なんだけど、その人が
ほんとにかわいがってた直弟子だったのよ。
糸井 そこで憶えたフランス語が、
後にはものすごい役に立ってる思うな。
太郎さんって、書くものが、
ものすごい正確ですよね。
敏子 そうです。うん。
糸井 あの正確さが岡本太郎の自由を支えてる
って気がするんです。
それは、フランス語に鍛えられたんだろうなって。
敏子 そうでしょうね。
日本語もずいぶん体言止めが多かったり
自由奔放に書いてるみたいだけど、
岡本太郎の書いた日本文を
フランス語に訳す人はね、
こんな訳しやすい日本語はないって言うのよ。
逆に、名文と言われるきれいな日本語は、
困っちゃうんだって。
曖昧で、どうにも訳しようがないって(笑)。
糸井 あの明晰さは、
フランス語に秘密があったんだね。



第8回 どうしてTAROはテレビに出たか。

誤解される人の姿は美しい。
誤解のカタマリのような人間こそ
本当だと思う。
『一平かの子』(チクマ秀版社)より

糸井 太郎さんについて、
ひとつ思ったことがあるんです。
岡本太郎って、平気で
メディアに、
壊れるまでに出た人でしたよね。
敏子 ほんとは、そんなでもないんだけど。
でも平気でしたね。
糸井 相手の言うように演じてあげて、
その上に乗っかって
何かを伝えようとしていた。
だから、ある意味では
バカにされた面がありましたよね。
敏子 うん、そう、そう。
糸井 僕、気づいたんですけれども、
その「バカにされる」ということが
「あとまで残る人」の特徴なような
気がするんですよ。
敏子 ああ、そうなのかしら。
糸井 いまになってもみんな
「岡本太郎はすごい」と言いますけど、
その土台って、
あそこで一回泥まみれになったこと
なんじゃないでしょうか。
あれは、太郎さんが
自分でそうしたようなところがありますよね。
敏子 そうですよ。
出なくったって
いいんですから。
糸井 自分をお笑い化させちゃったおかげで、
いま、こんなに力強く立ち上がってるんです。
例えば、選挙に出た人はたくさんいるけど、
「票を取った、選挙を通過した政治家は強い」
って、言われますよね。
敏子 ああ。
それが人にまみれるってことね。
糸井 あれと同じようなもんで、
ロックスターなんかでも、
バカにされたことのない人って、
あとに残ってないです。
尊敬されたままの人って、ぜんぶ小粒なんです。
敏子 そうね‥‥、それで終わると
たしかに弱いわね。
糸井 岡本太郎については、
うちの子どもも小さいときに、
「ンッ」とやって、ものまねした。
敏子 みんなやったのよ(笑)。
糸井 その材料になってる岡本太郎って、
本人とは別なものなんだろうけど、
小さな子どもに
そこまでされるっていうことが
もう、すごいね。
敏子 でもね、それは
岡本太郎のメッセージなの。
糸井 望むところなんですね(笑)。
敏子 でもじつは、
テレビがあんなに力を持ってるって
知らなかったのよ。
糸井 ああ、そうなんだ(笑)!
敏子 試験放送のときから出てるんだけど、
なんとも思ってなかったのよ。
家にはずっとテレビはなかったし。
糸井 そうなんですか。
敏子 かなりあとになってから、テレビ局の人に
「先生、どのくらいの人が
 テレビをみてると思いますか?」
って、訊かれたことがあるの。
「(当時の)後楽園球場がいっぱいになる
 ぐらいかな?」
って、答えてた。
「とんでもない! そんなもんじゃありませんよ」
って驚かれていたけど、
彼のイメージとしてはそのぐらい。
糸井 そのサイズをイメージして
出ていたんでしょうね。
敏子 まあ、どうであれ、
言われれば何でもやっちゃったし。
糸井 でも、そうなったのは、運ですね。
太郎さんは、やっぱり、
引きが強いかんじがする。
考えてみれば、岡本太郎は
学者であり先生であり、血筋はいいわ、
スポンサーだっていつだって探せる、
そんな状態にいた。
周りから見れば、あらゆることが、
ぜんぶできる人なんですよ。
その人が、一回、
子どものギャグのネタになった。
そのところがなかったら、って思ったら、
嫌です、やっぱ。感じ悪いもん。
敏子 はは、そうね。
そう思ってやったわけでも
ないんでしょうけど。
糸井 だから、それは運なんですよ。
僕が知ってる人でいうと、
矢沢永吉という人が、
いわゆる「バカにされる人」なんですよ。
敏子 あ、そうかしら? バカに?
糸井 みんなが矢沢永吉の真似をして、
おもしろい気分になるわけです。
敏子 そうか。
糸井 だけど、その本人が出てきたら
みんなは息を飲むんです。
バカにしてなかったはずの、
それ以外の誰かさんには到底かなわない
「なにか」が、
その人にはあるんです。
敏子 なるほどね。
糸井 太郎さんも、
一回泥まみれになった時期があったおかげで、
いまの若い人たちが
岡本太郎をおもしろがってるんです。
みんなが話すきっかけだって、
「テレビでバカなことしてたの、知ってるよなぁ」
とかでしょう。
敏子 そうですね。
みんな知ってるんですもの。




第9回 命を質に置いても、来てよかったね。

この広場に来て、すべての人が無条件になり、
あのベラボーな祭りの雰囲気に
同化されてほしい。
『日本万国博 建築・造形』(恒文社)より

糸井 「太陽の塔」も、みんなが知ってますね。
敏子 あんなに、子どもから、
田舎のおじいさんおばあさんまで、
誰でも知ってる作品って、ないでしょ。
糸井 田舎からのバス旅行の人が、
あの塔を見たわけだよ。
かっこいいよね、それって。

敏子 田舎のおじいさんおばあさんが、
「太陽の塔」をみてくれているということを、
彼、すごく喜んでましたよ。
糸井 最高ですよね。
敏子 うん。あとは、子どもが来てくれたこと、
すごく喜んでた。
あの塔をみた
日本中の子どもたちが
「太陽の塔」の絵を描いてくれるの。
その絵がほんっとにいいの!
みんな自画像よ。
糸井 なるほどね。
敏子 ひとりひとりみんな違う絵なの。
大人はしゃちほこ張って、
「これしか描きようがない」って
すぐに思っちゃうけど
子どもは、ぜんぜん違う。
モヤシみたいな太陽の塔だったり、
ビヤ樽みたいな太陽の塔だったり。
糸井 いいですねえ。
敏子 あのね、こういうエピソードがあるの。
「太陽の塔」の前に、
田舎のおじいさんとおばあさんが
よいしょと腰を伸ばして立って、
こう言ったっていうのよ。
「ばあさん、命を質に置いても、
 来てよかったね」
って。
糸井 いいなぁ(笑)。
敏子 彼は
「『命を質に置いても』なんて、
 そんな言い回しは知らないけど、
 いいこと言うよなあ」
って、すごく喜んでましたよ。
糸井 ビンッビンきたんでしょうね(笑)。
ねぇ、もしも、僕らが原始時代に生きてて、
分業がない時代だったら、
田舎のおじいさんもなにも
ないわけですよね。
敏子 そうよ。
糸井 「天照大神が出てきました!」
なんていうときには、
職業もいっさい関係なく、人びとは
ワーッ!てやってたわけでしょ?
太郎さんはそれを再現したいんですよね、
要は。
敏子 そうなの。
岡本太郎は
職能分化に反対なのよ。
糸井 みごとですよね。
僕らはどうしても、
道を急ぐとそれができなくなるんですよ。
敏子 うーん、そうね。
よく、記者の人なんかに
「先生はいろんなことなさってますけど、
 ほんとの職業はなんですか?」
って訊かれてました。
糸井 そんなこと、関係ないんだよね。
敏子 新聞に原稿を書くと、
必ず肩書きを付けなきゃなんないでしょ?
絵描きさんでもないし、彫刻家でもないし
著述家でもないし。
どうやってもはみ出しちゃうから、
どうしたもんでしょって、よく相談を受けるの。
「人間だ、って書いとけ」
って彼は言うんですけどね(笑)。
糸井 あるいは、岡本太郎って
書くしかないよね。
敏子 そうね。
ほんと言えば、
岡本太郎って書くしかないのよ。
糸井 でも、太郎さんは、ほんとは、
「人はぜんぶそうなんだ」って、
言いたいわけですよね。
敏子 そうです、そうです。
糸井 岡本さんのおもしろさってやっぱり、
「みんなが俺だ」ということでしょ?
敏子 ほんっとに、
みんなそうなんだよって、
彼は信じてるからね。
糸井 信じてんですよね!
敏子 うん。
糸井 自分も、「岡本太郎」から
いちばん遠いところから
ここまで獲得したわけですから。
敏子 そうよ。だから
「岡本太郎!」って、
えばってるわけじゃないの。
岡本太郎って名前は、
自分が使える名前だから
しょうがないから使ってやってるだけの話で。
「みんなのかわりにやってるんだ」っていう
つもりですからね。
糸井 うん、うん、そうだ。
敏子 だからぜんぜん、
コンプレックスがないの。
糸井 そりゃあ、気持ちいいよねぇ。

(つづきます!)



第10回 岡本太郎は、生きている。

ぼくはきみの心のなかに生きている。
その心のなかの岡本太郎と
出会いたいときに出会えばいい。
『太郎に訊け2』(青林工藝舎)より

糸井 敏子さんは、
自分が何かを決めるときに、
「太郎が決めてる」って言い方をしますよね。
敏子 うん。
糸井 そう言われたとたん、ほんとに
太郎さんが決めてるんだな、って
思えちゃうんですよ。
敏子 だって、ほんとにそうだもん。
自分ではかりごとを巡らせたことなんて
いっぺんもないのよ。
「将来の計画は?」なんてよく訊かれるけど、
そんなの、なんにもない。
ここにある、やるべきことを、
一生懸命やってるだけなの。
だからぜんぜん怖くないの。
糸井 それって、太郎を
好きとか嫌いとかのレベルでは
ないですよね。
敏子 好きよ。
糸井 それだけじゃない、なんか、
こう‥‥敏子さんは、
本人化してるじゃないですか。
敏子 あははは。そんなことないわよ。
わたくしはほんとに平凡な人間なんだから。
くっついて歩いただけよ。
糸井 敏子さんは、太郎さんを好きだから
手足になってるんですか?
敏子 でもないわねぇ。
糸井 なんなんだよ(笑)!?
だって、ふつうに考えたら
生きてないわけですからね。
敏子 あら、生きてるのよ。
糸井 (笑)生きてんだよね。
これまで敏子さんとは、
何度もこの話をしてるんだよ。
敏子 いっぺんも太郎さんが死んだと
思ったことないもん。
糸井 確信してるんだよね。
僕は、敏子さんにこのツッコミをしては
「生きてる」って言われるのが
うれしいんです。
敏子 ほんとなんですよ。
糸井 そんなにまで人に好かれるって、
どういうことだろう?
僕はね、岡本太郎のいちばんのアートは、
敏子さんに好かれることだったんじゃないか
って思うんです。
敏子 うふふふ。
糸井 絵も彫刻も、すごいと思うものはたくさんあるけど、
ひとりの人間をこれだけ、
「何か」にしちゃったんですよ。
しちゃったんじゃないな、
なっちゃったんだよね?
その力がすごいし、
それだけで尊敬しますよ。
敏子 ほんっとうに、いい男なんだから。
糸井 おぉぉぉ(笑)。
敏子 みんなに見せてあげたいわよ。
みんなに、みんっなに
岡本太郎に触ってもらいたいわ。
糸井 コンピューター系の博士の発言でね、
「問題を解決するには、
 問題そのものになることだ」
っていう、名言があるんですよ。
敏子 うん、うん。
糸井 俺、それに、ジーンときてね。
岡本敏子は岡本太郎なんですよ、
しょっちゅう。
なっちゃってるんですよ、問題そのものに(笑)。
敏子 うん、そうね。
糸井 それが羨ましくてさぁ。
いい男なんだろうな。
敏子 いい男なのよ(笑)!
糸井 かっこいいよ、敏子さん、
それはものすごくね。
そういうこと言われてる人って、
宗教家とかではいるんでしょうけど、
個人と個人の間で、ふつうはないよね。
敏子 あのね、『奇跡』っていう小説を書いたの。
11月26日に本になりますよ。
糸井 それを読めばわかりますか?
岡本太郎さんが、どうして
岡本敏子に好かれたかが。
敏子 うん、わかると思う。
糸井 それだけ人に
好かれてみたいもんですよ。
敏子 糸井さんは、
じゅうぶん好かれてるでしょう?
糸井 先生、それはもう、違います。
敏子 違う?
糸井 違います。
何代か生きて、
8代ぐらい生まれ変わって、
そのうちの1回ぐらいでも
このぐらい好かれてみたいな、と思いますよ。
敏子 あ、そう。


TAROの右にいるのが、敏子さんです。
糸井 この写真、きれいだね。
敏子さん、うれしそうですよね、
いて、うれしそうですよね。
敏子 はい、はい。
糸井 そういう一生送ってみたいよ(笑)。
くそう、
ひ弱な坊ちゃんだったくせしやがって。

(つづきます!)



第11回 死んでなにが悪い!

「ゲストにいろいろな有名人の方が
 やってきてくれましたが、
 岡本太郎さんほど印象的だった方はいません。
 岡本太郎さんは御柱祭の神様です」
『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』(小学館)より

敏子 日本史の教科書のいちばん最初には、
縄文土器の写真が載っているのが
ふつうだと思われているけど、
あれは、岡本太郎以前には、なかったことなのよ。
岡本太郎は戦後、縄文式土器を博物館でみて、
そのすばらしさを世に問うたの。
糸井 縄文の普及をしたんですよね。
敏子 縄文の丸木舟を出土した、
福井県の三方っていうところがあるんです。
そこが丸木舟を復元したときに、
「縄文人といえば代表は岡本太郎さんですから、
 舟長(ふなおさ)になってください」
って言ってきたの。
そしたら喜んじゃって
「よしよし乗る!」って。
糸井 すーぐ乗る。
敏子 向こうの人は
まさか乗ってくれるとは思わなかったらしい。
「縄文」って言ったら、
目の色が変わったんだって(笑)。
でも、湖の丸木舟だから、
カヌーみたいに浅いのよ。
じつは岡本太郎さんってね、
正座ができないの。
あぐらをかいてもひっくり返っちゃう。
糸井 そうなんですか。
敏子 お座敷の宴会では、
座布団を重ねて、ドッカと腰を下ろすの。
みんなに「岡本太郎さんの牢名主スタイル」
って言われてた。
その丸木舟に乗るときも、
「牢名主」じゃなきゃだめだってことを
すっかり忘れていい気になって、
「よしよし」なんて言っちゃった。
舟が浅いから、お尻が船端より高くなっちゃう。
週刊誌やテレビやらが
ひっくり返るところを撮ろうって、
手ぐすね引いて待ちかまえてんのよね(笑)。
糸井 重心が変わりますからね。
敏子 困ったね、こりゃ危ないな、
と思ったんだけども
そこまで来たらもうしょうがない。
だからもう、天に祈りましたよ。
舟にはカヌーの名人が乗ってくれて、
うまく漕ぎだした。ホッとしました。
でもあなた、帰ってこなきゃいけないことに
気がつかなかったのねぇ。
糸井 行くだけ行って(笑)。
僕は舟は好きですから
わかりますけども。
敏子 我々、ぜんぜん思わなかったの。
糸井 帰りが大変なんですよ。
敏子 舟をつけるのが大変でしょ?
絶対にひっくり返ると思ったけど、
なんとか無事に帰りました。
その、カヌーの名人がうまかった。
糸井 太郎さんって、
なんでもやっちゃうんだよね。
諏訪の御柱祭もすごかったって。
敏子 うふふ。そうなのよ。
御柱祭の丸太を山から引っ張ってくるあいだ、
氏子の人たちと一緒になって、
ワイワイとオンベを振り回して喜んでね。
みんながご飯を食べるとこで、
いっしょにお酒飲んでるから、危ないのよ。
木落しっていう
30何度の急斜面にさしかかったとき、
丸太に乗って降りるって言い出したんですよ。
御柱にまたがっちゃってね。
もうすっかりその気なの。
糸井 おもしろいね。
敏子 みんなが
「先生やめてください!
 それだけはやめてください、死にますから!」
って、降ろそうとするの。そしたら、
「死んでなにが悪い? 祭りだろ!」
って、怒ってね。
糸井 主役本人が言うんだからね。
ほんと、おっしゃるとおりなんだけど。
敏子 無理に引きずり下ろされちゃったから
「もう帰る!」って、カリカリに怒ってね。
「みなとや」っていう、
下諏訪のお宿にいつも泊まるんですけど、
そこのおかみさんが、
「あの晩、先生は
 ひと晩中怒ってらっしゃいましたよ」
って、いまでもよく笑ってます。
糸井 その話ね、
死ぬかもしれない本人が
「本人」だと思ってないし、
「誰か」だとも思ってない。
自他の区別がないんですよ、
あの人の発言って、いつも。
敏子 ほんと、そうですね。
糸井 そういう人って、
クールで寂しい人になっちゃうんだと思ったら、
逆に出るからね。
好かれてるし、敏子さんに(笑)。
ほんとに、冷たーい人と紙一重ですね、
この、この自分の「なさ」は。
敏子 ‥‥ほんとに、そうね。突っ放してるし。
「自分だ」なんて気持ちは
これっぽっちも、ないのよ。
糸井 ないですね。
敏子 うん。ない。ほんとに。
でも、あったかい人なのよ。
というより、熱い。
激情だしね。

(つづきます!)


 


第12回 TAROの遺伝子たちへ。

「教祖だって? ふーん。
 だとしたら、信者の一人もいない教祖だね」
『芸術は爆発だ! 岡本太郎痛快語録』(小学館)より

糸井 岡本太郎記念館には、
太郎さんも生きてそこにいるし(笑)、
ほんとにいい場所ですね。
敏子 あのお庭もいいでしょう?
みんな、青山にこんなお庭があるなんて!って
びっくりしますよ。
芭蕉でもヤツデでも、
みんな巨大になる。
糸井 あの場所、なにかがありますよね。
敏子 神秘的な力があるかんじなのよ。
糸井 今後、この「なんだ、これは!」という連載で、
これからの「岡本太郎」や
若い遺伝子が集まってくると
思うんですけど。
敏子 いっぱいいますよ。
みんなそれぞれのやり方でやってますから、
岡本太郎だって喜ぶに違いないわ。
糸井 だれでも自分の心に、岡本太郎。
これは、時代がどうのこうのって
いうんじゃないと思うんです。
要するに、やっと気づいたというか。
大きな意味で、
ほんとに豊かになってきたんですよ。
敏子 そう。でも、まだまだよ。
糸井 まだですね。
敏子さん、休むヒマないね、これから先。
敏子 ないの 。
糸井 とくに、あの、
メキシコの大物拾っちゃったからね。
引っ張ってこなきゃなんないから、太平洋を。
敏子 大丈夫、この細腕は強いから。
糸井 壁画を運ぶとしたら、
タンカーみたいなやつがいいんですか?
敏子 うん、だと思うんだけど。
飛行機に乗せられれば
いちばんいいんですけどね、
あの大きさでは乗らないし。
海ってのは、波があるでしょ?
保護しなくちゃいけなくて、
けっこう難しいらしい。
糸井 日本に持ってくるとして、
30mの絵を、どこに置きましょう?
敏子 岡本太郎は、
広島市現代美術館で展覧会をやっていた、
その途中で亡くなったの。
急遽、その展覧会は
追悼展っていうふうに看板を掛け替えた。
そしたらもう、館長さんが
「事故が起こるかもしれないと、
 生きた心地がありませんでした」
って言うほど、
日本中から人が殺到しちゃったのよ。
そして、その館長さんが
「最後の展覧会をやらせていただいて、
 最初の追悼展をやっていながら、
 1点もオリジナルを持ってないのは
 恥ずかしい」
って言うのね。
何度も口説かれるんだけど、
岡本太郎は絵を売っていないから。
でも、広島現美には、
壁画を飾るような壁がないらしい。
糸井 意味的には、広島に
あの壁画が置かれるべきだよね。
‥‥アメリカに置くって手もあるけどね。
敏子 それもいい手ねぇ。
スミソニアンなんて、どうかしら。
あそこには広い壁があるから。
糸井 メキシコからアメリカに運ぶ。
そこに日本人が見に行くっていう(笑)。
敏子 ああ、それは考えなかったなぁ。
‥‥でも、ほんとは、広島に置きたいわね。
糸井 理想は壁画用の建物が建つことなんですよね。
箱モノって、やたらつくるのに
こういうときにはつくんないもんだね。
敏子 ほんとに、ほうぼうで
「30mの壁、どっかになぁい?」
って言ってるんだけど(笑)。
糸井 そのプロセス、楽しいね。
敏子 若い人でも、
「千円ぐらいならぼくにも協力できますから、
 寄付させて下さい」
なんていう人もいっぱいいるし。
そういうふうに、
みんなのささやかな力、情熱を集めて、
持ってくるのがいちばんいいと思うのよ。
やりたいわ。
これから、全国民運動を巻きおこすからね。
糸井さん、手伝ってね。
糸井 うん、やる。
敏子 今日は、糸井さんとこれだけ
おしゃべりできてよかったわ。
糸井 ありがとうございます。
これからも「なんだ、これは!」は
遺伝子たちによって続きますからね。
敏子 はい、よろしくおねがいします。