第7回 TARO、迷ってた。

疑惑と焦慮に錯乱し、
数年間、夢遊病者のような彷徨がつづいた。
当時のことをいま思い出してもゾッとする。
『芸術と青春』(光文社 知恵の森文庫)より

糸井 岡本太郎って、ある年齢までは、
なんなんだ、それは?!って、
青筋たてて生きてきたような気がする。
敏子 そうね、
20歳ぐらいまでは。
糸井 そこの辛さは、
世にあまり伝わっていないところだけど、
岡本太郎は、たぶん、
もうその時点で死んじゃってても
おかしくなかったんじゃないかな。
敏子 うん。‥‥朝、起きて、
顔を洗って鏡を見るとね、
ほんーっとに嫌な顔してたんだ、
って言ってた。
糸井 うわぁ〜!
敏子 みんなには、
「若いみそらで留学させてもらった
 いい気なお坊ちゃんだよな」
なんて思われてたけど、
そのころは、もうほんとに
憂鬱な顔してたんですって。


パリのアトリエで、横光利一(右)と。
糸井 坊ちゃんだって
外国行ったらだめですよね。
それは漱石にしたって鴎外にしたって、
ひでぇ目に遭って
恨んで帰ってきてんだから(笑)。
敏子 あの方は、フランスで
なにもかもをいちど、ワッと掴んじゃったの。
パリではもう、あんまり絵はやらないで
民族学やってたんだから。
糸井 そうか。
レヴィ・ストロースと
同級生みたいなもんですよね。
敏子 ジョルジュ・バタイユなんかのあの一派と、
喧々囂々とやって、秘密結社までつくったのよ。
バタイユから手紙で
「何月何日にどこそこの駅に集合!」
って呼び出されると、
その日は一切、
口をきいてはいけないっていう掟なんだって。
その秘密結社の連中が、無言で
サンジェルマンの森の奥に集まるの。秘儀よ。
そんなことまじめにやってんのよ、
そのすごい人たちが。子どもっぽいよね(笑)。
糸井 プッ(笑)。
その場面だけでも、
歴史そのものみたい。
敏子 自分のもともと抱えているものもあって、
時代の洗礼、前衛芸術の運動もした、
いろんな勉強もした。
その時期に、自分の問いかけで
いっぱいになっちゃってね。
糸井 うん、うん。
敏子 どうしてかわからないけど、結局
「安全な道か危険な道をとるか、どちらかだ」
と思うに至ったんです。
そのときに「危険な道をとる」って
決然と、決めたんですって。
糸井 そこで、ふっ切れたんですね。
太郎さんは、
明るいかんじがしますけど、
明るくしたんですね、自分で。
発電したんだよね。
敏子 ふふふふ。そうね。
糸井 自分の持ってる、
小さいときからの「魔」みたいなものと
ずーっと戦ってきて。
で、なおして、なおして、
なおしてったら、だんだんと
フワーッと気持ちよくなってった(笑)。
僕は晩年の岡本さんしか見てないけども、
赤ん坊みたいですよね。
敏子 そうですよ。
あたくしが知ったころは、もうそうでしたね。
糸井 そうですか。
敏子 彼は、日本に帰ってくるときに、
もうああいうふうに、
「岡本太郎になるんだ。
 自分は、岡本太郎としてやっていくんだ」
ってことを覚悟して帰ってきたの。
糸井 飛び込んだみたいな感じだ。
敏子 あの人ははじめからああいう人なんだ、なんて
とんでもない、そんなことない。
自分で覚悟してそうなったの。
だから動じないのよ。
どんなに、叩かれても突っつかれてもね。
糸井 赤ん坊が、出産で
急に光の中に出てくるみたいな、
そういう生まれ方ですよね、きっと。
それまでは、真っ暗だったんでしょうね。
敏子 でしょうね。
糸井 パリでは、民族学をやってたって。
敏子 ええ、岡本太郎の先生は、
マルセル・モースっていう、
ヨーロッパの民族学の父って
いわれてる人なんだけど、その人が
ほんとにかわいがってた直弟子だったのよ。
糸井 そこで憶えたフランス語が、
後にはものすごい役に立ってる思うな。
太郎さんって、書くものが、
ものすごい正確ですよね。
敏子 そうです。うん。
糸井 あの正確さが岡本太郎の自由を支えてる
って気がするんです。
それは、フランス語に鍛えられたんだろうなって。
敏子 そうでしょうね。
日本語もずいぶん体言止めが多かったり
自由奔放に書いてるみたいだけど、
岡本太郎の書いた日本文を
フランス語に訳す人はね、
こんな訳しやすい日本語はないって言うのよ。
逆に、名文と言われるきれいな日本語は、
困っちゃうんだって。
曖昧で、どうにも訳しようがないって(笑)。
糸井 あの明晰さは、
フランス語に秘密があったんだね。

(火曜に、つづきます!)

2003-11-14-FRI

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