・『滝を見にいく』という映画は、
なんだかとても予感に満ちていた。
ばらばらに観光バスに乗ってきたおばちゃんたちが、
山のなかの滝を見にいくコースのなかで、
迷子になってしまうというだけの物語だ。
それほどドラマチックではない。
あの人が出演しているから観るというようなあの人は、
おそらくひとりも出ていない。
多いに泣けるかというと、そういうものではない。
しみじみ胸にしみる、と言ってもやや無理がある。
もちろん、かっこよいということではない。
だけど、この映画を観客席でじっと観ていると、
この世界のなかにいることって、
ださいし、ありきたりに思えるけれど、
あんがいわるくないんじゃないの、という気持ちになる。
ずっと、おばちゃんばかりを観ているだけなのだ。
格別に風光明媚とも言えない景色のなかにいて、
ちょっとずつこの映画の世界を受けいれはじめて、
やがて、こんなことに気づいてしまう。
「おばちゃんと少女は、実は同じものだ」
なにかのちがいがあるにしても、
あえてちがいを探すのでなければ、
おばちゃんと、少女は、ほんとに同じなのだ。
いったん、そう思ってしまうと、
なんだか、いろんなものが、同じに見えてきてしまう。
これは、沖田監督による映画のマジックなのだろうか。
それとも、ほんとになんでも同じなのか‥‥。
少しなにかに暖まった感じで、試写室を出たのだけれど、
そのあとも、ずっと「おばちゃん」について考えている。
日本のおばちゃんの活躍がなければ、
おそらく世界中の手でつくる伝統工芸は滅んでしまう。
おばちゃんたちが集うランチや女子会がなければ、
あらゆるレストランは閉店になってしまうのではないか。
生産も消費も技術も趣味も、実は、おばちゃんが、
支えているのを、ほんとうはみんな知っている。
だけど、おばちゃんという呼称は本人が認めてないので、
ずっとカウントされてないだけなのだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
はっきり言える。とっくにおばちゃんの時代になってるの。
─── 糸井重里 2014年9月6日の「今日のダーリン」より |