ほぼ日刊イトイ新聞 フィンランドのおじさんになる方法。

第43回 国を変えたデザイン。 武井義明

フィンランドを旅して、
いくつかのお宅におじゃまして、思ったことがあります。
多くの人がマリメッコの服を着ているということ。
そして、家を飾る鮮やかなデザインのカーテンや
テーブルクロス、紙ナプキンなども、
マリメッコのものが多いということ。

そして台所や食卓には、
イッタラ、アラビアの製品が多いこと。
台所のほうろう製品はフィネルであること。
そして、いずれも、
「ヴィンテージ」なんて呼ばれる、
古いものであること自体が価値を持ちそうな
「むかしの製品」を、大事に使いつづけていることです。
「サルパネヴァのキャセロール」だとか
「ヌルメスニエミのコーヒーポット」
「カイ・フランクのピッチャー」など、
いまやデザイナーの名前こみで
話題にされるようなものを、
ふつうに、使っていたりする。
こうしたヴィンテージの食器や生活用品は、
引っ越しや遺品処分などで要らなくなっても、
捨てないで(すこしくらい欠けていても)、
別の用途にしたり
(いなかでは「エステリ・トムラが絵付けしたほうろう鍋
 (欠けちゃって、使えないもの)」を
こどもが、泥遊びに使ってたりしてました)、
誰かに使ってもらうべく、譲ったり、
フリーマーケットで安く売ったりするのだそうです。

上の写真は、キヒニオ村でBBをいとなんでいる
アンニッキさんのコレクション。
カイ・フランクの有名なデザインです。

これはヌルメスニエミのコーヒーポット。
中は、パーコレーターになってます。

テーブルクロスはマリメッコですね。

アンニッキさんの着ているのもマリメッコ。

そして遊びに来ていた女の子も、マリメッコ。

こちらはイッタラの「マリボウル」。

そして同じキヒニオ村で、
きこりのレオさんの家を訪れると、
また、おどろいちゃうんです。

そこにはとても古くから使われているやかんがあり、
揃いのティーセットがあり、
にぎやかなデザインのカーテンがかかっているのですが、
そこには、やっぱり、
フィンランドに共通するデザインの、
モダンなヴィンテージの雰囲気がある。

レオさんはべつに
「フィンランドのモダンデザインが好き」
ということを声高に言ったりはしない人です。
べつにそれが好きだと思っているわけでもなさそう。
いちど買ったものを大切に使う、ごくごくふつうの人。
こういういい方はなんですけれど、
いわゆる「おしゃれ」とは無縁。
流行なんて気にしていないようです。
壊れる、破れる、使えなくなる、
ということでもなければ、食器も服も
買い替えることはしなさそう。
そんなレオさんの家にも、
ちゃんとフィンランド的な、
デザイン性の高い、
明るくはなやかなファブリックや食器があるわけです。

なぜなんだろうなぁ、と、疑問に思いました。
都会の人だけじゃなくて、いなかの暮らしのすみずみに、
同じデザインが広がっているのはなぜなんだろうと。

仮説はこうです。
当時(戦後くらい?)、
「村のよろず屋」で売っていた布や食器は
「マリメッコ」や「アラビア」がほとんどだった。
そのデザインは、共通して、すばらしいものだった。

‥‥ちがうかなあ。
それしか売ってなかった、
かどうかはわからないのですね。
でも、庶民に買える値段の製品に、
最高のデザインのものがあった、
ということになるのではないかなぁ、と。

そのあたりをちょっと調べてみたところ、
いろいろとわかってきました。

マリメッコの創業は1951年。
創始者の女性、アルミ・ラティアが
友人のデザイナーであるマイヤ・イソラに
(別の会社の仕事で)デザインを依頼したところ、
色彩ゆたかで、大胆で斬新なものが仕上がった。
これは! と思ったラティアは、それを世に出すために
マリメッコを興した、ということです。

「1951年」がどういう年かというと、
「戦後、まもなく」ということになります。
フィンランドは、第2次世界大戦で、
ソ連と対抗するために枢軸国側について戦い、
1944年にソ連と休戦をするものの、
敗戦国として終戦を迎えることになります。
そして、当時の金額で3億ドルという多額の戦争賠償を
ソ連に対して払うことになる。

フィンランドと、ソ連(現在のロシア)という
大きな隣国との因縁は、
日本人のぼくらには想像しがたいほどの
深いものがあるようです。
たとえばフィンランド人にとっての
「文化のふるさと」とよばれるカレリア地方。
ここは現在もロシアの領土となったままです。
この地方の民間説話をまとめた「カレワラ」は、
フィンランドはたいへん重要な国民的叙事詩で、
20世紀に国として独立するさいに、
たいせつな文化的バックボーンのひとつとなりました。
最近でも、マリメッコが
「カレワラ・コレクション」という
デザインを発表、とても人気を博しています。

また、もうひとつの隣国スウェーデンには、
ロシアに対するものとは
またちがう複雑な思いがあります。
それはコンプレックスに近いものだと聞きました。
12世紀から19世紀のあたままで支配を受け、
そもそもフィンランドという国名もスウェーデン語。
(自国ではフィン語の「スオミ」という呼び方が一般的)
公用語もフィンランド語とスウェーデン語です。

そんな「スウェーデンとロシアの間で揺れ続けた国」が、
独立したのは、20世紀の初頭(1917年)。
そして、独立国となったフィンランドが経験したのが、
第2次世界大戦を敗戦国として迎えるという
出来事だったのでした。

戦後当時のフィンランドの人々は、貧しく、
なにをすれば国を経済的に発展させることができるのか
わからないまま、とても不器用にすごしたといいます。
重ねて、自然環境も厳しい。
冬はマイナス20度以下になるのも、珍しくありません。
身分の差や貧富の差以前に、
生きることがせいいっぱい。
それが彼らの「戦後」でした。

マリメッコが「明るく大胆なデザイン」で創業したのは、
そんな、暗い時代だったのでした。

さらに、アラビア社をみてみますと、
こちらは1874年に、スウェーデンの老舗陶磁器メーカー
ロールストランド社の子会社として創業。
ロシア市場を中心にして
1890年代になるとぐんぐん販路を拡大し、
1900年のパリ万博で金賞を射止めたことから
北米などの市場でも高く評価されるようになります。
しかしロシアの関税が高くなったことや、
北米の代理店が倒産するなどの憂き目に遭い、
アラビアは方針を転換します。
海外だけでなく、フィンランドの市場をみつめて、
より、フィンランドの人々の生活に合うものを、
つくるようになっていくのでした。

そのためには「デザイン」が必要でした。
アラビア社は1932年に「アート部門」を創設、
才能ある芸術家たちを日常のデザインへと引き込みます。
「生産が規格化するほど、
 芸術表現は自由でなくてはならない」
という信条のもと、デザイナーが制約なしで
作品を作ることができる個人アトリエ方式を採用、
すぐれたデザインの、丈夫な製品をつくりました。
そこに1945年、入社したのが、
陶芸家のカイ・フランク。
のちにアート・ディレクターに就任した彼の活躍で、
いまや名作と呼ばれるプロダクトが生まれ、
世界的な「デザインにすぐれた陶器メーカー」として
アラビア社が知られていくことになるのです。

アラビア社は、マリメッコと同じように、
戦後の、貧しく悲しいフィンランドを、
暮らしに最高のデザインを入れていくことで
明るく、前向きにささえていきたいと
ねがっていたようです。
そしてカイ・フランクの哲学は、きわめてシンプル。
美しさは実用のなかにあり、
日常に使われるものには、デザイナーの名前は要らない、
ということでした。つまり「無名性」です。
また、カイ・フランクがつくる作品は、
金銭的に厳しい生活を余儀なくされている人たちの
生活空間や生活スタイルが熟慮されています。
食器が重ねられるというのは、
収納スペースをそれほど
必要としないということを意味します。
組み合わせが簡単であるというのは、
いろいろ使いまわしながら、同じお皿でも
組み合わせひとつで食卓の表情をかえられることに。
丈夫であることは、長く使えることにつながります。

誰でも買えるものに、最高のデザインを。
そんな時代につくられたものが、
いまも、フィンランドの各地で、
大切に使われているのでした。

ぼくは、この時代のアラビア社の器を
ヘルシンキのフリーマーケットでいくつか買いました。
そして、使ってみているんですけれど、
これがおどろくほどに使いやすいんです。
デザインが生活をじゃましない。
日本の暮らしとなんら違和感がない。
なにより、とても丈夫。
そのままオーブンに入れられる丈夫さの器が、
食卓を彩るデザイン性も持っている。
「ほぼ日」でいうと「うちの土鍋シリーズ」を、
調理器具としてだけでなく、
食卓に置いたときに、食器としてすぐれていることを
たいせつにつくりましたが、
そんな気分と、通じるところがあります。

マリメッコも同じ。
派手かな、と思うのですが、
それは嫌な派手さではなくって、
「花を飾る」ような感覚に近いのです。
マリメッコのある場所が、
ぱぁっと明るくなって、花が咲いたようになる。

ぼくは戦後の暗いフィンランドを想像しました。
寒くて暗くて、心も冷えてお金もなくって、
でも一所懸命生きていかなくちゃいけなくて。
そんなときに、生活必需品のデザインが
明るく楽しく丈夫であることって、
すばらしいことだったと思うのです。

そういえば、マリメッコは、
できあがった服やかばんを売るだけでなく、
「生地」をメーターいくらで売っています。
同じデザインでも、服飾用の生地もあれば、
撥水加工がしてある、テーブル用のものもあって、
どんなものも作れるし、
どんなふうにも使うことができる。
だからカーテンやベッドカバー、
あるいはドレスやシャツも、
じぶんで、安く、つくることができた。

ちなみにこちらは、マイヤ・イソラのデザインした
マリメッコの古い布を使ったベッドカバーです。

そんなふうにして、「デザイン」が国じゅうに広まり、
やがて輸出されることで外貨を獲得し、
国を、中からも外からも明るくしていったのですね。

それにしても、今回解決しなかった大きな疑問。
「なぜ、フィンランドの食器や家具は
 日本の暮らしに、こんなに合うんだろう」
ということ。
だってたとえばこのティーポット、
すごく日本的だと思いませんか?!
ウッラ・プロコッペという女性デザイナーが
1950年代にデザインしたものなんです。
このあたりのこと、
またいずれ、探ってみたいと思っています。

2009-06-25-THU
takei

とじる

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