かしわぎ まどか

1974年生まれ。福森家三女。
1996年 大学卒業後、家業である「土楽」にて
     陶芸を開始。
2005年 結婚。益子にて独立。
2010年 家と仕事場、窯をつくるため
     伊賀にもどる。
土楽の公式サイトはこちら。



益子から伊賀に仕事場を移すことを決めて、
いま、ちょうど工房を作っている最中です。
いまは、友人に借りた仕事場でロクロを挽いていますが、
新しい仕事場ができたら、
もう本当に土楽とは違うって感じで、
ちゃんと気合入れてやっていかないと
いけないなあと思っているところです。

伊賀にいることで、京都の俵屋さんに近くなったのが、
私にとっては本当にうれしいことです。
毎月必ず1回、奥様にお会いして、見てもらって、
お仕事をいただく。仕事のサイクルとしては
とてもいい感じで回っているんですね。
奥様もお元気で、
もう本当に毎月1回お会いできるのが
うれしくてうれしくて、
それはこっちに帰ってきて本当によかったことです。
本当に幸せです。



厳しいこと? もちろん言われますよ。
「こんなん全然ダメ!」って。
「これを50個、これを50個、これを100個、
 それから、新しいのも作りなさい」って。
そのおかげで、ロクロに関しては、この1年、
本当に集中してできました。

悩みは──、もちろんあります。
私は自分のことしかしてない、という悩みですね。
日々、忙しくはしているのですけれど、
この一年、わたしに何ができたのかというと、
それは、わからない。
「こんなんでええんかなあ」ってことを
いつも考えながら過ごしています。
なにより道歩をなかなか手伝えてない。
近くにいるくせにね、何もできひんから、申し訳なくて。
この1年はずっとそれを思いながら、
それでも、ロクロはすごく好きなんで、
回しつづけている。そういう感じです。



作るものの変化ですか。
どうでしょうか。
あんまり意識をせずにっていうことを、もっと‥‥
変な言い方ですけどね、
意識をしないということを意識するっていうんですか。
「どうです、柔らかく挽けてるやろう」
というふうには挽きたくない。
自然に自然に自分の気持ちとかがこの左手にうつって
かたちができていくように、
なるべくいつもいい気持ちで
ロクロに向かえるように、していました。
ロクロが一番好きなんやから、
いつもロクロを気持ちよく挽けるように、
というふうにしたら、自然に優しくて、
使ってても気持ちのいいものができるはずや、
っていうことを思いながら作ってました。



今回、土のものを1個入れさせてもうたんですけど、
それは伊賀に帰ってきたからです。
磁器ばっかりじゃなく、やっぱり土も、
もう一回したいなあと。

湯のみの、あの形は、
もうずーっと10年以上作ってるんです。
自分が手がちっちゃいので、
女の人の手で、ちっちょうても、
このお湯呑みなら持てるように、
ちょっとくびれてて、
たなごころが、ホッと、
あったかくなるような湯呑みというのを
いつも考えてて、
それであの形になっているんです。
口が、輪花になってるのも、
ちっちゃい女の人の口でも
どこからでも飲みやすいようにと。



そういうふうに、ずーっと作り続けてるものでも、
次はもっと優しくなるやろうか、
もっと気持ちのええもんができるかな、
もっと品がよくなってるんじゃないか、
そんなふうに思います。
もちろんロクロを挽いてる時には
考えてはいけないんですけど、
挽く前に、例えば料理してる時とか、
明日ロクロ向かうっていう前の時に
そういうのを考えながら。
もう本当に常にロクロのことを考えていて。
仕事のことだけを考えられるという、
こんな幸せなことはないなって思ってます。
本当にええ仕事に就けたなあって、
それは本当に父にも母にも感謝です。


2012-03-12-MON



21歳から31歳まで、10年、
土楽の跡取りとして仕事をしました。

神戸の4年制の大学に通っていて、
最終学年はあまり授業がないので
伊賀から通っていたんですね。
私は史学部で、学芸員の資格を取って
博物館に就職したいなあと思ってたんです。


▲伊賀の「ギャラリーやまほん」にて。

実家は長女が跡を継ぐことになっていましたが、
私が帰ったときは、姉と父が口をきかない状態でした。
長女は土楽の経理をやりながら、
作陶はしませんが、とても器用で、
絵付けをしていたんですね。
そして、その道に進もう、
そのためにもっと上手になりたいから
訓練校に行かしてくれと頼んだら、
父が「家で学べるものを外に出たがる」と言い、
大げんかになったそうなんです。
姉は土楽のことを考えて言ったのに、
もう知らん、となり、
だったら好きな人おるから結婚する、
そして家を出る、と宣言をしたわけです。

そんなことを聞いたものですから、
「いいよ、私がやる」と、思いました。
こっちはたまたまっていうか、
タイミングよく帰ってきたし、
「私がやるから、結婚していいよ」と。



道歩も覚えてるかもしれないけれど、
そのことで家族会議もしました。
そのとき、言ったのは、
私、片耳が聞こえないんですね。
おそらくふつうのOLをするのはたいへんだろう、
お客さんを相手にする仕事もむずかしい、
ここの仕事は自分に向いている。
そんなふうに思っていたのも大きかったです。

長女が今でもしみじみ言うのは、
「職人さんの細工場(さいくば)が
 こわくて、よう入れんかった」と。
私は、職人さんの細工場を見に行くほうが、
電卓とかそろばんより好きやって。
で、姉が「やったらええやん、やりいな」
って言ってくれて、
本格的にそこからやるようになったんです。


▲指先に小さなささくれがあるだけで、
うつわに傷がつくから、
手はだいじにしてるんです、と円さん。


私が土楽に入った頃は、
器も鍋も、とても売れている時期でした。
もうつくっても、つくっても、追いつかない状態。
とにかくつくらないとっていう感じで、
でもやっぱり変なものは出せへんので、
自分で頑張っていまの若い子らみたいに練習して、
どうやろ、1年たたんぐらいから、
れんげの受け皿ぐらいは商品にしてもらいましたね。
ていうか、しないと間に合わなかったです、ほんとうに。

そうして10年、土楽を辞めることになりました。
いろいろあったんですけど、
自分のものの限界っていうか、
なんて言うたらええのやろ、
違和感をちょっと感じるようになって。
自分がつくりたいとか、
こういうものを造ってほしいっていうものと、
父との差がちょっと開いてきて。


▲土楽の定番となった、円さんの「ポトフ鍋」。

わたしは、昔の土楽の職人さんがつくった、
きちっとかちっとしてるけど、
やさしいっていうものが好きやったんやけど、
何かだんだん父の考え方が変わってきて、
工房の作品もその考え方になっていくのと、
以前からのものを残していきたいっていう、
この考え方の差がちょっと開いてきて、
自分はそこで、
自分のほんとうにつくりたいと思ってるものは何なのか、
っていうところから
まず考えるようになってきたんです。
父のろくろもすごいんですけど、
私向きではないということを思い始めて。
おそらく道歩向きやなっていうのは、
考え始めていました。

ほんとうに自分のつくりたいものを、
見つけてみたいと思ったんですね。


▲粘土を練る。
手のひらの跡が菊の花のような形でつくので、
「菊練り」と呼ばれています。


そのタイミングで、
つきあっていた人がいました。
土楽で修業をしていた作り手です。
当時、彼は益子で修行していたので、
私も益子に行く! と決めました。
自分の道をすすみたいと思いました。
それで道歩に相談をして、
家を出ることにしました。

父はもちろん面白くは思わなかったです。
口きいてもらえへんから、手紙だけ渡したんです。
「こういう考えで、ちょっと益子で頑張ってみます」
っていうようなことを書いて。
でもそれを、顔も見ないで受け取って、
車に乗ってどこか行ってしまった。
とうぜん、夫にも会うてくれない。
辞めて初めの1、2年はそんなんでしたね。

それでも、道歩から、手伝ってほしいという声もあり、
父も、私だけ帰ってくることを許してくれたので、
土鍋をつくったり、手が足りないところを補ったり、
そんなふうに手伝うようになりました。


▲お父さんの福森雅武さんの野焼きをサポート。

独立にさいしては、
後押ししてくださったかたがいます。
京都の俵屋さんです。
私が21のときに俵屋のおかみさんに
初めてお会いしてるんですが、
遊びに行っていろいろお話を聞いているうちに、
俵屋さんが、ものをつくらはるのが、
すごく好きなんだと知りました。
いつも、次のパジャマはこうしようとか、
こんなコーヒーカップあったらかわいいね、とか、
ささっと絵を描かはるんです。
その絵を見たときに、「あ、私やります」って。
これがはじまりでした。
そのマグカップはいまでも商品になってるんですけども、
それが23のときのことでした。
それからもココット鍋など、
土楽の土鍋ではなく私の土鍋として、
紹介してくれてはった。
それで「益子へ行きたいと思ってます」
って相談に行ったときも、
「応援するからやってみなさい」
って言うてくれはったんです。


▲今回出品するごはん茶わんを制作中。

けれども、土楽にいたときは、
自分のものをつくりたいとあれほど思っていたのに、
いざ出てみると、何つくっていいか、
まったくわからなくなった。
ろくろをひいても、当たり前なんですけど、
自分がいままでつくってきた土楽の商品になっちゃう。
それで、すごく悩んで、
益子の土を使ったり、いろいろしてやってみるんやけど、
やっぱり変わらない。
で、お金ももうなくなってきたっていうときに、
磁器土に出会ったんです。

それは益子では採れるもんではないんですけど、
その磁器の土でひいて、
ちょっとかわいらしいものを、
そば猪口とか小さいものをつくり、
俵屋さんにお見せしたんです。そしたら、
「こういうのをやりなさい」って。
「あなたの性格にぴったしじゃないの!」
って言うてくれはったんです。
「あなたは、こういうちいちゃい、
 薄い、かわいいものをつくりなさい」って。
それから、磁器の仕事を始めるようになりました。


▲豆皿。

そんなふうにして
俵屋さんに納める商品がどんどん増え、
ほんとうに助かりました。
益子にいながら益子の土は使わない、
益子のお店には卸さない、
もう全然、益子とは無関係の作り手でした。


昨年5月の安曇野の個展で、
飯島奈美さんが購入されたごはん茶わん。


2010年、益子から伊賀に拠点を移しました。
仕事場が欲しかったんです。
益子では借家で、物置を仕事場にしていたので、
仕事できる範囲も決まってますし、
ガス窯も欲しいけど、
ガスは使わないでくれっていう
大家さんの契約であったりとか。

磁器と陶器のろくろも別にしたいし、
土鍋は土鍋だけにつかうろくろが欲しいって思ってましたし、
そして夫は、登り窯が欲しいんです。
あの人は薪の窯を勉強してたんで、
自分で窯を作りたいって。
だから土地付きの仕事場をずっと探してたんです。
2年間ぐらい、岐阜から、栃木の間ぐらいで探そうって
初めは言うてた。
で、岐阜をくまなくずうっと見たりして、
ほんとうに探しまくって探しまくって、
でもなかなかなくて、
あっても高い値段を言われたりとかで。
で、ずうっと悩んだですけど、父が
「そんなもん、そこ使こたらええやないか。
 先祖さんのとこへ、登り窯を」
って言うてくれたんです。

でも、初めは夫はそれは絶対にできないって。
道歩さんもいはるし、
そんなことは絶対に許されへんことやからって言うて、
1年ぐらいずっと断わってたんです。
でも、もういよいよ私の仕事が間に合わなくて、
断わるもののほうが多くなってきたんで、
何とかして仕事できる環境を作りたいって考えて。
そのときに、また父が言ってくれたんですよ。
あそこにしろって。
ちゃんと全部しといてあげるから、
来い、来なさいって。
で、もう夫も折れて、
ありがとうございますと、引っ越しをしました。


▲土楽の囲炉裏端で。

道歩がよく
「おとうさんは出ていった者には優しいんだよね。
 ははははっ」って笑いますけれど、
こんなふうになれたのは
道歩が土楽にいてくれたおかげです。
道歩はすごいです、頑張って。
私は経営とか、そういうのは全然わからなかったし、
新しい人と知り合うたりっていうのは苦手なほうです。
片方の耳が聞こえないんで、
人と会うのがストレスやったりするから、
お客さんを開拓することもできなくて、
でも道歩はそういうのをどんどんどんどんやっていくし。
あと、ほんとうは料理に行きたかったやろうに、
私が出て行くのを許してくれて、
でもいま、料理と両立でうまくやってるし、
ようやってると思います。
ほんまにようやってると思います。
私はどん臭いので、
もうとにかくひたすらやってやって、
自分のものになるまでは
ものすごく時間がかかるんですけど、
道歩はもうすぐつかんでしまうんですよ。
運動神経もいいし、パッと感覚でつかんじゃう。
いちばん父に近い。
料理でも何でも、いちばん似てるよなって思う。

いまは、いちばん上の姉が
土楽の公式サイトを手伝ってくれ、
次女は、作陶はしませんが、
よく顔を出してくれている。
自然とみんなが集まることが多くなりました。
面白いものですね。



自分もやっと、どういうものがつくりたいのかが
つかめてきたような感じです。
土楽を手伝うこともできると帰ってきたんですけど、
いまは自分の仕事ばっかりしてるんで、
すいません、すいませんっていう感じです。

2011-02-21-MON

写真:大江弘之 + ほぼ日刊イトイ新聞 

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