おおすぎ・やすのぶ

1977年 神戸に生まれる。
1996年 岡山県備前陶芸センター入所
1997年 備前焼作家・正宗悟氏に師事
1999年 伊賀土楽・福森雅武氏に師事
2006年 丹波市山南町に登り窯を築く
2007年 初窯



生まれは1977年、神戸です。
父はコックで、僕も小学校とか中学校の時とかは
料理人とか、パティシエっていうんですか、
ケーキ屋さんになりたいなと思ってました。



地元で商業高校に行ってたんですけど、
3年生になって就職のことを考えはじめたとき、
会社に勤めるよりも何か物を作るいうか、
手仕事でする物作りというのを
やりたいなあと思いました。
「物を作る」といっても、木工とか鉄工とか
いろいろあるんですけど、
一番僕がその時に身近に感じたのがうつわでした。
普段の生活で接するのは、うつわが一番多いなと思って。
ご飯食べる時もそうやし、
体験教室みたいなんで中学校の時にふれた時、
「ああ、楽しいな」と思ったのを覚えていて。
だから自分でうつわをデザインするとか、
自分で作ってみたいな、というのが始まりです。

それで、高校卒業後に行ける学校を探しました。
けれども僕の身内には陶芸の関係の人もいいひんし、
どこでそういうの行ったらええかわからなくて。
ツテがなくて、とりあえず進路相談の先生のとこ行ったら、
「ちょっとわからへん」とか言われて(笑)、
美術の先生に言ったら、
「前の生徒のお父さんがそういう学校、
 訓練所みたいなとこを出たって聞いたよ」
と言うてくれて、で、また進路の先生のとこ行って、
「訓練所があるらしいんで調べてください」って。
けれども地元の兵庫県になくて、大阪にもなくて、
「京都の職安に聞いたら見つかったわ。
 そこ見学しに行ってき」みたいな感じで、
京都の東山のとこにある訓練所に行ったんです。



で、行ったら、30人ぐらいで作ってはって、
ここいいわあ、入ろう、と思いました。
けれども事務のおばちゃんに話聞いたら、
けっこうその当時、やきもの、すごい人気があったんで、
30人の定員のところに
120人ぐらいとか受けに来るらしいとわかった。
「ここだけに絞っとったら、あんた、無理やで。
 通らへんで!」
とか、そういうこと言われて(笑)。
「信楽とか瀬戸にもそういう学校があるから」
って教えてもらいました。
で、全然わけわからんので、とりあえず本屋行って、
やきものの入門書を買ってきて、
一番後ろのページに陶器祭りの案内の
スケジュールが載ってたんです。
それの問い合わせ先が観光協会やら
ナントカ組合とかいう陶器組合とかあったので、
そこにもう片っ端から電話して、
そういう訓練所ありますかって聞いて、
「あります」と言ったらそこの学校の電話番号聞いて、
願書取り寄せて──。
益子とか笠間とか唐津とか、県外の人は無理なんですよ。
それで県外からでも受けれるところを全部調べたら、
7校ぐらいあったので、そこ全部受けに行きました。



で「岡山県備前陶芸センター」だけ通ったんです。
それで備前行ったのが最初です。
1996年のことでした。
ほかのところ、なんで受からなかったんかというと、
どこも試験科目にデッサンがあるんです。
入ってやったことは粘土ですが、
入る時はデッサンがあった。
で、そんなデッサンの勉強してないわけです。
それで慌てて高校の美術部に居候に行って
「教えてください」って。
7か月ぐらい毎日通っとったんですけど、
そんなん全然ダメで(笑)。
そんななか信楽と備前は試験科目にデッサンがなくて、
そのうちのひとつにやっと合格したというわけです。



訓練所の期間は1年です。
1年やったからって全然できないんですけどね、
でもまあ、なんとなく慣れるところまでは行く。
生徒の年齢もけっこうバラバラなんです。
仕事を辞めた脱サラ組とか、大学出ての子とか、
備前は16人やったんですけど、
高校出てすぐというのは僕ともう1人、
窯元の娘の女の子だけで。

学校、土曜と日曜が休みなんですね。
で、土曜日は、学校入るのに紹介してくれた先生とかに
手伝いに行く子がけっこうおったんです。
勉強しに行くみたいな感じで。
タダ働きなんやけど、先生とこ行って、
何か手伝いして覚える。
そんななか自分だけ土曜日曜休んでるのも
ナンやなと思って、
誰かいないかなというのを研修所の人に聞いたら、
備前焼の作家の正宗悟(まさむね・さとる)先生を
紹介してもらいました。
さっそく遊びに行って
「手伝わせてください。お金要らないんで」と。
ほなら向こうも、タダ働きやし、
「あ、いいよ、いいよ」と受け入れてくれて、
毎週土曜日手伝いに行くことになりました。
正宗先生はストイックで、のめり込むタイプで、
人付き合いがあまりなくて、
周りからは変わった人だといわれるような人でした。



学校とやっぱ全然違うんですね。
備前の土使って備前の窯で焚いたら備前焼なんですが、
それで生活しとる人らは、
それにプラス、味付けの部分を、
やっぱいろいろしてるんです。
プロはやっぱ違うなあというのを実感できるし、
商品として売っていくのと、
学校で作っとるもののちがいを感じたんで、
自分も訓練所を出る時に、
その先生のとこ、弟子に入りたいなと思って、
お願いをしました。
けれども「もう兄弟子がひとりおるから無理やわ」
と断られてしまったんですね。

卒業後の進路は、窯元の子は家に戻り、
あと作家さんの弟子に行く人、
それから窯元の職人として勤めるという
3パターンに分かれます。
ぼくも弟子の道が無理やったら、窯元、
いわゆる職人さんとか従業員何人も雇って作る、
っていうところに行こうって思ってたんで、
学校の先生に窯元を紹介してもらったところ、
面接の前に手伝いに行った時に、
「来うへんか」と言ってもらった。

ところが正宗先生のところで空きが出たというんです。
ちょうど兄弟子が辞めることになり、1人欠員が出ると。
それで正宗先生からも「来うへんか」。
その土日かなり考えて、もう何か、これは、
チャンスかもしれへんと思って、
正宗先生のところに行くことにしました。



で──、実際入ると全然違うんですうよ。
土曜日のお手伝いは、やっぱ、僕は客だったんですね。
あくまでも。
けれども入ったら弟子やから、
ずーっと1対1やし、けっこうしんどかったですわ。
休みもあんまりなかったんです。
はじめは「毎週火曜日、休みにしよなあ」
とか言ってたんですけど、
先生が火曜日仕事がしたくなれば
「大杉君、来てくれるか?」と。
もちろん「あ、いいですよ」ってなったら、
その休みが1回飛ぶんですね。
そんなんずっと繰り返していくと、
休みがもうほとんどなくて。

自分の時間は夕方の6時からです。
先生が終わって、「お疲れ」と言って
自宅のほうに上がっていったら片付けして、
先生のろくろの隣にある弟子用のろくろで
夜9時か10時ぐらいまで練習をしてました。
先生からは、教わる、というよりも、
見るのが勉強でした。
作り始めの何個かは、見とってもOKみたいな
暗黙の了解があったんです。
で、2、3個見て、仕事に移って、
終わってからノートに思ったことを
バーッと書いてました。
自分がする時は、それが参考書です。



先生が古備前好きで、その影響で
僕もごっつい古備前好きになりました(笑)。
正宗先生は古備前に近づけるため、
いろんなことを試したりとかしてて。
例えば作ったものを、棚板の上ではなく、
昔ながらに藁の上に置いてみたり、
土を発酵さすのに普通で3年とか、
自分が掘った土は孫が使うっていうくらいに、
長く寝かせて発酵させて粘りを出すんですが、
それを早めようとビール酵母を入れてみたり。
それがえろう臭うて(笑)、
それにしては焼き上がったものが
そんなに変わらへん! とか。
あと「足で踏んだ土はやっぱりええよ、大杉君。
もう、今日から土練機使わんと足で練ってや」
とかいうて。それでもう2か月ぐらい、
足でこう昔ながらに踏んで、手で練ったり。
そういうのって、作っとる時は、
なんかええような気するんですね。
けど、焼き上がったやつが変わらへん。
「‥‥大杉くん、やめようや」って(笑)。
そういう、正宗先生の試みてる姿というのは、
見てて面白かったです。

正宗先生のところには2年いました。
だいたい弟子というのはそんなもんです。
次の子がまた来たいとかいう都合とかありますし。
けれども、自分の技術はまだまだです。
ろくろを6時から夜まで毎日しとっても、
全然うまくなったような気がしないんです。
勝手に自分でするだけなんで、
やっぱ職人さんというか、
窯元で1日ろくろで作っていうのを、
あらためてしたいなと思った。



それで先生のところを離れて、
行くことになった窯元があったんですが、
聞いてみたら、そこちょっと変わっとったんです。
その窯元の中だけで付き合いをしろよ、みたいな。
ほかの研修所の同期生とか前の先生とか、
この窯元以外の人らとチャラチャラ付き合いするのは
許さへんみたいな感じのとこやったんです。
「うちの窯元にも若い子とか職人さん何人もおるから、
 付き合いはそれだけで十分やろ」って。
僕、それはちょっと違うなと思って、
正宗先生のところにもちょくちょく行きたかったんし、
断ることにしました。
で、自分が行きたいなと思う窯元、
備前の中でも何でもする、
職人さんが作って窯焚きまでするという
少人数でやる窯元が何軒かあったんで、
お願いしに行ったんですけど、
なかなかやっぱ入れない。欠員がない。
そうか情熱が足りひんのやと、
三顧の礼じゃないですけど、
5回行ってみたりしたんですが、だめでした。
根性買ってくれるんかなと思ったけど、
ほんとに欠員がないと。
それで、あらためて訓練所の若い先生に相談したら、
伊賀の丸柱の試験場の人と仲がよくて、
それで土楽さんを紹介してもうて、
福森雅武さんと、円さんに会いに行きました。

福森雅武さんは豪快な人やなと思いましたよ。
僕は土楽の弟子の中やったら
ちょっと異例かもしれないですけど、
あんまり、土楽とか知らなかったんです。
ちょうどテレビの『やきもの探訪』で
福森さんが紹介されてるのを見たくらいで。
番組では弟子の人らと仲良くワイワイやってて。
囲炉裏の周りでご飯食べたりして、
あとでそれはテレビ用だとわかるんですが(笑)、
すごい楽しく雰囲気のいいとこやなあと思って。

備前を出るのはどうなんかなって思ったんですけど、
でも、ほかのとこ行って、
外からまた備前見て帰ってきたら、
また違うもんがあるかなと思って。
その時はやっぱり備前に戻ろうと思ってたんですね。



土楽には7年いました。
先輩には岸野寛(きしの・かん)さんが、
僕の3か月あとには細川護光(ほそかわ・もりみつ)さんがいました。
若い子もたくさんいはりました。
これからの土楽は若い人たちで
なんとかしなきゃいけないって時代です。
入ってすぐの時は福森さんが比叡山に行ってる頃で、
その窯焚きを手伝ったりもしました。
ああいう野焼きというのも僕知らなかった。
夏場でものすごい暑くて、
終わってからお風呂入らせてもらって体重計に乗ったら、
55キロの体重が47キロになってたりもしました。

土鍋もひきました。
当時、鳥羽さんという職人さんがいらして、
まず教えてくれるんです。
けど、僕が午前中作ったやつ、
午後来たらつぶされてる(笑)。
スパルタです。ビックリです。
はじめちょっとパニックみたいになるんです。
「え、なんでなんでなんで?!」みたいな。
すると鳥羽さんが来て、
「これ形、見本とちゃうやないか」とかなんかいうて、
まあ、いろいろ言ってくれるんです。
で、1回で済むんかなと思ったら、
それがずっと続くんです(笑)。
そして「どこが悪いか教えてください」って
聞きに行っても「自分で考えろ」と。
じゃあ今度、聞きに行かんとこうって思ったら、
鳥羽さん来て、「おまえ、何で来ないんや。
つぶされたのに悔しないんか!」とか言うて(笑)。
どっちやねんと思って(笑)。
福森さんもあたらしいことをやってると
「これをもっとこうしたほうがいい」と指導くださって、
そんなふうにして技術を身に付けさせてもらいました。



よかったです、本当、土楽行って。
7年おると仕事にも慣れてきて、
周りも友達もできてきて、
居心地がよくなってきていた。
そこで辞める決意をしました。
護光さんも岸野さんも辞めるみたいな雰囲気やったし、
僕もここで動いとかんと、
居心地ええし、ずっとおりそうな気がしたんで、
思いきって、20代最後やし、辞めようかなと。
で、福森さんに、「今年1年で辞めたいんです」
と言ったら、「お、そうか。かまへん」って。
来る者拒まず、去る者追わず。
そこから1人になる準備を始めました。
2006年のことでした。

土楽に来る前は、備前に戻ろうと思っていたので、
実は土も買ってたんです。
備前出る時に有り金をはたいて。
それを保管してもうとった。
けれども7年のあいだに
「備前じゃなくてもこれ全然ええわ」と思った。
全然変わりましたね。
こだわる必要ないなあと。
で、うちの父の里がここ(丹波)なんです。
盆正月とかはここ来てたし、父は住んでないですけど、
おじさんが住んでるんで、
「このへんでどうにかできませんか」
みたいな相談したら、
「じゃ、協力したげるわ。ここ、使ってもいいよ」と。



実家には戻ろうとは思いませんでした。
というのは、うちの両親、僕が高校卒業した時に
離婚してるんです。
僕は備前に行って、双子の弟も自立、
いまは伊豆で盆栽しとりますが、
そやから高校卒業したときに
4人がみな別のとこ行ったみたいな感じだったんです。
両親とも再婚はしてるんですけど、
あんまりそっちの家って行きにくいでしょう(笑)。
ですからここ丹波が実家みたいな感じなんです。

工房は知り合いのかたに建ててもらいました。
いたるところに廃材が使ってあるんです。
その窓ガラスとかも、神戸の震災の
仮設住宅の窓なんです。
あのろくろの上の電気とかも、病院の電気。
とりあえず使えるものはみんな使わせてもらってます。
そうして初窯が2007年。
いま、5年目ということになります。



いろんなもん、つくってます。
お茶碗、お皿、おちょこ、ぐいのみ。
焼き方も、土楽出身だなと思うものもあれば、
まったく違うものもあります。
やっぱ備前におった影響が残っとんか、
焼き締めもあります。
別にこれだけというのを絞らんでも、
いろんなことをやってみたい。
今回の「ほぷらす」は赤土がメインなんですけど、
磁器土、白土も使っています。

いまも伊賀の陶器祭に出品するんですよ。
土楽に混ぜてもらって。
そうすると道歩さんからも、
「あんたの飯碗、評判ええで」
と言ってもらえて。
「大杉君の茶碗は、本当に柔らかくて軽くて
 使いやすい」と。
それで今回、道歩さんから声をかけていただきました。

飯碗自体、僕、作るの一番好きなんです。
ろくろをしない期間が1週間とか続いた時とかは、
はじめ、ろくろするのが億劫になるんですけど、
その時に飯碗からして勢いつけるみたいな。
作っとって楽しいんです。
飯碗は、ずーっとろくろしてても苦にならないですね。



今はおじさん夫婦のとこ居候してるんで、
ごはんは作ってもらってますが、
うつわは、B品とかちょっと欠けたやつとか
傷があるやつを持ってって、使ってます。
汚れ方とか強度とか盛ったときの美しさだとか、
試してみたいなと思った時はかならず使ってます。
おじさんもガンガン意見を言うてくれます。
僕がイマイチやのにと思っても、
「これおまえ、ええやないか」ということもある。



窯の名前は「閑心窯(かんしんがま)」といいます。
最初は「大杉康伸」だけで
いこうかなと思ったんですけど、
窯の名前があったほうがやきもの屋さんっぽいなあって、
すぐそこの石龕寺(せきがんじ)の
いまは亡くなった先代の住職さんにつけてもらいました。
静かな気持ちで本物を作るみたいな意味なんです。



2012-03-06-TUE
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