親鸞に会いにいく。  平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた 親鸞(しんらん)。 肉食妻帯し子どもをもつなど、 お坊さんの戒律で禁じられていたことを次々に破り、 “いいことをしようなんて思っていたら天国には行けないよ” 750年前にそんなことを言った人でした。 吉本隆明さんは言います。 「坊さんとしては変わり種ですが、 問題にならないくらい偉い人だと思います」 親鸞は、流罪を解かれてもすぐに都へ戻らず、 自然を相手に糧を得て命をつなぐ人びとが住む土地で 何十年も布教を行いました。 吉本隆明さんの語る親鸞を手に、 各地で親鸞が遺したものを追いかけてみようと思います。


004 信仰と理屈。

稲田禅房西念寺のすぐ横、
いまは田園地帯となっている場所に
「見返り橋」があります。


稲田禅房西念寺につとめる
お坊さんはこう教えてくださいました。

「親鸞聖人が京都へ帰るお別れのときは、
 たいへんだったのでしょう。
 まずそうとうの数の門弟が
 この地に残りましたから、その方たちが
 ずらっと並んでおられたかもしれません。
 そして、かなりの数の一般の人たちが
 お念仏をとなえながら、
 たくさん集まったのではないでしょうか。

 京都に帰るとなれば、それは永久の別れです。

 昔、ここは吹雪谷と呼ばれていました。
 川にかかる橋の上で、
 親鸞聖人は振り返りながら
 何度もたたずんで、この歌を詠まれたとも
 伝えられています。

 別れじを さのみなげくな法の友
 また会う国の ありと思えば

 ここでお別れするけども、嘆くことはないよ、
 また阿弥陀さまの国で会うことができるから、
 悲しむな、という歌です。

 奥さまの恵信尼(えしんに)さまとも、
 ここでお別れです。
 もう、永久に会うことはありません」

60歳になって、妻や数多くの信徒を置いて
親鸞はなぜ京都に戻ることにしたのでしょうか。

「親鸞聖人は90歳で亡くなられました。
 だけど、人生50年の時代です、
 ご自分も90まで生きるなんて
 考えなかったでしょう。
 60歳をすぎたところで、そろそろ人生のお終いを
 考えられたのだと思います。

 これまで親鸞聖人は
 たいへんな思いをしてきたわけです。
 だけど、関東に来て20年、かなりの門弟ができました。
 優秀な門弟もいましたので、任せて大丈夫だと
 思われたこともあったのでしょう。
 ですから、残された時間は執筆に費やそう、
 ということだったのではないでしょうか。

 そのとおり、京都に戻られてからは
 ほとんど水面下の生活で、
 表立った活動はなかったと思います。

 立派なお寺を建立することもありませんでしたし、
 弟子がいても親鸞聖人は弟子とはいいません。
 どの人に対しても、
 阿弥陀仏の本願の教えをいただいて
 いっしょに念仏していく同門の人たち、
 という考えでした。
 寺持たず、弟子持たず、という主義です」


そういうところでそういうふうにおしゃべりをしながら、親鸞自身は、当時の浄土教の思想でいえば世界的な『教行信証』を書いていました。
そういうことは村の人は誰も知らない。偉い坊さんだって言うけれど、叡山の大僧都だとか大寺院の主のように偉いわけではない。坊さんなのか坊さんでないのかわからないし、奥さんもいるし、子どももいるし、肉も食うし、魚も食うし、どうってことない人がそこら辺でしゃべっているというだけのことです。
あれだけの思想家ですから、そんなふうにしてたって、強烈な感化力をもっていたでしょう。けれども、ごくふつうのようにしていた地方的な存在だったと思います。
そのなかでとても大きな思想が宿ってそれが実を結んで、誰もその実の全体を捉えられない。死んでからはじめて捉えられる、そういう存在だったと思います。

『吉本隆明が語る親鸞』p157より

稲田禅房西念寺のお坊さんは、見返り橋で
我々と別れ際、こんなエピソードを
話してくださいました。

「そうだ、弟子といえば、
 山伏の弁円の話を聞いたことがありますか?

 ここ稲田から、鹿島神宮に行く街道に
 板敷山という小高い山がありました。
 そこで弁円という山伏が、
 加持祈祷してお布施をいただく活動をしていたのです。
 山伏ですから法螺貝吹いたり、薙刀持ったり、
 いかめしい人でした。
 
 ところがここに親鸞聖人が腰を落ち着けた。
 親鸞聖人は心の問題を扱ったわけですから、
 加持祈祷して病気を治そうとすることとは違います。
 
 自分の信者だった人が
 親鸞聖人の話に納得していく。
 そのさまを見て、弁円さんは怒りました。
 得体の知れない坊主に自分の領土を荒らされた、
 たまったもんじゃない、ということで、
 やっつけることにしました。
 親鸞聖人を殺そうとして、
 ここまで押しかけてきたのです。

 ところが、親鸞聖人はびくともしない人でした。
 話をしているうちに、弁円さんは
 自分の慢心に気づくことになります。
 ただ謝って、親鸞聖人の弟子にしてほしいと頼みました。
 そして、親鸞聖人は弁円さんに『明法房』という
 法名をつけてあげたんです。

 弁円さんは、親鸞聖人が京都に帰ったあとも、
 このあたりを荒らされないように、
 生涯、守ったそうです。
 親鸞聖人の念仏の仏法がひろまった世界を
 守ったのです」


信仰と理屈というのは違うんだという問題なのかもしれません。
親鸞という人は生きている時には、自分が世界的な浄土教の集大成者であり、そういう著書を持っていることをおくびにも出しませんでした。
しかしぼくの考え方からいいますと、理屈をたどって微細に、その問題にどこまでも近づけるという道のつけ方を親鸞自身はしています。
だから逆に、ぼくらみたいな者にとっては、それが誘惑となります。理屈のほうからいって親鸞が最後に到達したその点にいけるに違いないと思って、何度も試みるわけです。そして、すぐそばまでいっているつもりなんだけど、どうしても面白くないということになってしまいます。あほらしいことを言っている気がしてしょうがないという気にいつもさせられるんです。

『吉本隆明が語る親鸞』p154より


そのことに人間が関心を持ち始めた時には、すでに向こうからこちらをちゃんと包み込んでいるということを親鸞は言っています。それが、第十八願はどうしたら信じられるのかという問いに対する、親鸞の解答だと思います。
しかしそれは、解答をしているようだけど本当はなにも解答していないのと同じではないかと言えます。

『吉本隆明が語る親鸞』p155より

親鸞は人びとにわかってもらうやり方で
布教をすすめていきました。

もう一か所、
親鸞が人びとの生活にまじり込むようにしていった
旧跡があります。
月曜はその、田植えの旧跡に向かいます。

(つづきます)


前へ 最新のページへ 次へ

2012-01-13-FRI

イラスト 信濃八太郎