親鸞に会いにいく。  平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた 親鸞(しんらん)。 肉食妻帯し子どもをもつなど、 お坊さんの戒律で禁じられていたことを次々に破り、 “いいことをしようなんて思っていたら天国には行けないよ” 750年前にそんなことを言った人でした。 吉本隆明さんは言います。 「坊さんとしては変わり種ですが、 問題にならないくらい偉い人だと思います」 親鸞は、流罪を解かれてもすぐに都へ戻らず、 自然を相手に糧を得て命をつなぐ人びとが住む土地で 何十年も布教を行いました。 吉本隆明さんの語る親鸞を手に、 各地で親鸞が遺したものを追いかけてみようと思います。


001 歩く親鸞。001 歩く親鸞。 親鸞は、京都で生まれ、京都で亡くなりました。


仏教の浄土真宗の開祖として高名ですが、
(浄土真宗の信徒は現在1千万人を超え、
 日本でもっとも多いといわれる)
生きているあいだに歴史の表舞台に立つことは
ほとんどなかったといわれています。
『教行信証』という大思想書を著しましたが、
それを世に知らしめるようとすることもなく、
無名の念仏者としての一生を送ろうとつとめたようです。
「親鸞は弟子一人持たずさふらう」
そんなことを言い、晩年は定まった住居を持たず、
縁者の坊を転々としました。
もちろん一歩も
京都から出なかったのではありません。
京都の町にいたのは、
比叡山の修行に入るまでの9年間と、
師となる法然(ほうねん)の門下に入った6年間、
そして、62歳頃から90歳までの老年期です。
(当時は「人生50年」と言われた時代でした)
そのほかの期間、どこにいたのかというと、
おもに越後国(新潟)、常陸国(茨城周辺)。
地図で見ると、こんな感じです。


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親鸞の足取りを追ってみると
ゆかりの寺院には、必ずといっていいほど、
笠をかぶり(あるいは肩にかけ)、杖をつき、
遠くを見つめる親鸞像が迎えてくれます。
京都、鳴滝の了徳寺。


親鸞が100日間参籠したという
京都、六角堂。


親鸞が流罪になった、
新潟の居多ヶ浜近くにある居多神社。


新潟、国府別院。


新潟、五智国分寺。


茨城、無量寿寺。


『教行信証』を書きはじめた地といわれる
茨城、稲田禅房西念寺。


親鸞が亡くなった場所とされる
京都山ノ内、角坊。


これはおそらく土地土地を歩いている
親鸞の姿なのでしょう。


親鸞が生まれたのは、
仏の教えが廃れて世の中が乱れる
「末法の世」とされた時代でした。
親鸞が8歳のときには源平の戦がはじまり、
日本は全国規模の内乱状態となりました。
その翌年に養和の大飢饉が起こり、
京都だけで4万人以上の死者が出たといいます。
そして、生きているあいだに、
マグニチュード7クラスの地震が3回起こりました。
親鸞が若いときに修行していた
比叡山を去ったのは、
このように過酷な時代背景が
遠因になっているといわれています。
つまり、それまで学問や仏教とは
関係ないような生活をしていた民衆が
「こういう状態で一生を送っていいんだろうか」
という疑問をもつようになったのです。
親鸞は、仏教がこの問いにどう答えていくのかを
考えるようになったと、吉本隆明さんは語っています。


戦乱は絶え間なくある、疫病は流行る、飢饉も起こる、そういう時代です。なにかあるとすぐ武士に殺され、あるいは病気にかかったり、ものを食べることができないで死んでいく人がたくさんいる──そういうなかで、学問があるとか仏教の知識がある人ではない、ごくふつうの人たちが「こういう状態で一生を送っていいんだろうか」ということを考えるようになったということです。
ごくふつうの人たちのそういう悩みといいましょうか、生きていることに対する疑いといいましょうか、そういうことに仏教はどう答えたらいいかという問題に、法然や親鸞はなんとかして答えようとしていたと思います。

『吉本隆明が語る親鸞』p140より




ごくふつうの人たちが、生きがたい現世に生きているということにどんな意味があるかに悩み始めた。それを自分の考え方のなかに直接入れていって、自分の仏教に対する考え方を開いていくということは、解脱上人も明恵上人もしなかったと思います。

『吉本隆明が語る親鸞』p140より

では、親鸞はその疑問に
どのように答えていこうとしたのでしょうか。
我々「ほぼ日」はまず、親鸞が
3年にわたって布教の拠点とした
茨城県鉾田市の無量寿寺を訪れました。





お寺の方にお会いして、
境内でこんなお話をうかがいました。
「親鸞聖人は、越後に5年いたあとに
 関東に20年ほどおいでになって、
 そのうちの約3年間、このお寺を拠点にされました。
 当時ここは廃寺同然の状態だったそうですよ。
 なにせ、女の幽霊が出るという噂がたって、
 荒寺になっていたのですから」
そこを、親鸞が再興したのには
こんないきさつがあったそうです。



「親鸞聖人がおいでになった頃、
 この地で難産のすえに亡くなった
 女の方がいらっしゃいました。
 この世に未練があるだろうと
 皆が考えたのでしょう、
 無住(住職のいなかった)だったこの寺に
 その女の方が幽霊となって出るという話が広まり
 誰も近寄らなくなってしまったのです。
 当時はいまと違って、
 男女が平等ではありません。
 女の人は成仏などできないというのが
 仏教の考えでした。
 そこを、親鸞聖人は、
 阿弥陀仏の前においては
 男女、お金のあるなし、身分の高低、
 一切関係ない、とおっしゃったのです。
 当時の民衆は、それはもう驚いたことでしょう。
 そして、親鸞聖人は
 小石にお経を書いたものを
 その女性のお墓に埋めて
 お経をあげられました。


 
 そうしたら、このあたりに住んでいた人たちが
 いっせいにおんなじ夢を見たそうです。
 女の人が、観音さまのすがたになって
 のぼっていった、という夢です」





当時の仏教の「救済」といえば

・お坊さんになって、
 厳しい修行をして悟りを開き→救われる

・修行できない貴族が、
 お寺に寄進して→救われる

このふたとおりの道しかありませんでした。
「つまり、それまでの仏教の考えでは、
 そのどちらの道も
 一般の人びとには無理なことだったのです。
 親鸞聖人は、ご自身では
 ひとりも弟子を作らなかったと
 おっしゃっていましたが、
 浄土真宗の教えがこれほどに広まった理由は
 一般の人を救う教えであったということが
 大きいと思います」



鎌倉時代、まだ「江戸」のない関東では、
鹿島神宮のあった鹿島が栄えていました。
鹿島神宮に奉納されていた大蔵経などの
お経の勉強をしながら
鉾田を経由し稲田地方と行き来をする
各々40kmほどの道のりを、
親鸞は歩いて移動していたのではないか、と
無量寿寺の方は教えてくださいました。
また、親鸞はこの地で「親鸞堤」と呼ばれる
堤防の建設もしたと言われています。



親鸞滞在後、
豊穣な地である常陸国では
たくさんの門徒が生まれました。
そして、後年京都に戻った
頼るもののない親鸞を
いろんな面でバックアップしたそうです。



当時としては斬新だった、
すべての人を救うという考えをもったことと
「いいことをしようなんて思っていたら
 天国には行けないよ」
という言葉が
かんたんには一致しないようにも思えます。
そのふたつを結ぶものは
いったい何なのでしょうか。
次は、流罪で渡った越後に移ります。
(つづきます)


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2012-01-10-TUE

イラスト 信濃八太郎