-和田さんによる解説-

勉強し直してまいります
(べんきょうしなおしてまいります)

1971年8月31日、国立劇場小劇場で開催されている
落語会「落語研究会」に出勤した桂文楽は「大仏餅」を口演のなかば、
登場人物のひとり神谷幸右衛門の名前を失念し絶句。
しばしの空白ののち「勉強し直してまいります」と詫びを言い、
そのまま高座を降りた。そして、二度と高座に戻らぬまま、
同年の師走に、この名人は世を去ることになる。
落語家の「退場」を語るにさいして、いまでもこの逸話が引用されるのは、
落語家で「引退」を宣言する人がほぼいないこと、
つまり、「落語」は語り手の「人生」と不可分の形をとっていること、
そのぶん「晩年」のあり方が誰にとっても
難しいことを証左しているだろう。
このとき、文楽の付き人として会場に同行していたのが
弟子の柳家小満ん。
彼の回想録『べけんや 我が師、桂文楽』には、
その夜の文楽の顔がスケッチされている。
「落語研究会」はTBS主催の落語会で、
当日、中継車の中に入っていたのがディレクターの川戸貞吉。
彼は絶句する文楽をモニターで見て仰天したが、
制作者が中継車を離れるわけにいかない。
しばらくして、なんとかキッカケをつかみ、
楽屋へ廻ると、文楽はとっくに会場を後にしていた。
文楽のあとに高座にあがったのが立川談志。
偶然だが、歴史の変わり目として、象徴的な配役ではないか。

1971年8月31日、国立劇場小劇場で開催されている
落語会「落語研究会」に出勤した
桂文楽は「大仏餅」を口演のなかば、
登場人物のひとり神谷幸右衛門の名前を失念し絶句。
しばしの空白ののち「勉強し直してまいります」と
詫びを言い、そのまま高座を降りた。
そして、二度と高座に戻らぬまま、
同年の師走に、この名人は世を去ることになる。
落語家の「退場」を語るにさいして、
いまでもこの逸話が引用されるのは、
落語家で「引退」を宣言する人がほぼいないこと、
つまり、「落語」は語り手の「人生」と
不可分の形をとっていること、
そのぶん「晩年」のあり方が誰にとっても
難しいことを証左しているだろう。
このとき、文楽の付き人として 会場に同行していたのが弟子の柳家小満ん。
彼の回想録『べけんや 我が師、桂文楽』には、
その夜の文楽の顔がスケッチされている。
「落語研究会」はTBS主催の落語会で、
当日、中継車の中に入っていたのが
ディレクターの川戸貞吉。
彼は絶句する文楽をモニターで見て仰天したが、
制作者が中継車を離れるわけにいかない。
しばらくして、なんとかキッカケをつかみ、
楽屋へ廻ると、文楽はとっくに会場を後にしていた。
文楽のあとに高座にあがったのが立川談志。
偶然だが、歴史の変わり目として、
象徴的な配役ではないか。