CHABUDAI

父親になるということ。
重松清さんと、
ややこしくたのしい話をした。

第3回 父親的な組織







 この短期連載宛てのメールを、ご紹介しますね。

 「『父親になるということ』興味津々でした。
  私には、お父さんがいないせいか、
  最近父親がいたら、どんなだったのだろう?
  なんて思う事、時々あるんですよね。
  もう、物心付く前に亡くなっているので、
  父親の存在っていうのは、未知の世界なんです。
  お父さんが恋しいなんて思う事が出来ないくらいに、
  お父さんっていうものを知らないので、
  想像上の人物っていう感じだったのですよね。
  昔、ちょっと切ない思いをしたことはありますが、
  あまりあるくらいに
  おばあちゃんがカバーしてくれたので‥‥。
  私の好きになる人は、
  かなり年上の人が多いというのも、
  無意識の内に、お父さんがいないっていう事が
  影響していて、そういう面影を求めてしまうのかな?
  そんな気持ちで、読ませていただきました」

 「A」さん、素直なおたよりを、
 どうもありがとうございました!

 ‥‥さて今日は、はやくも、
 ふたりの対談のクライマックスかもしれませんよ。
 
 父親的な組織と、母親的な組織、という分けかたで、
 「会社や、チームのありかた」
 について話してゆくと同時に、
 「理想の父親像ってなんだろう?」
 ということを探る回にも、なってゆきます‥‥。
 
 じゃ、さっそく、おたのしみくださいませー!!!





  重松さんのプロフィールはこちら。
   重松さんの本などはこちら。
 





重松 父親的なことがキライだった糸井さんが、
「仕事のチームの中では、
 父親的な役割も引き受けようとしている」
というのは、どういうことなんですか?
糸井 ぼくのチームって、
今までずっと、母親的な組織だったんですよ。
母親の愛情って「生みっぱなし」みたいな
ところがあるじゃないですか。

「わたしの生んだ子だから!」
と言い切れる自信がありますから、
女の人の子どもへの愛情のかけ方には、
過剰な表現は、ないですよね。

どこかに行っても放っておくし、
子どもが家に帰ってきたら、その都度迎える。
それが母親的な組織なんですけれども、
ぼくの会社にしても、社員たちは
ほんとうの子どもではないですから、
母親的にふるまうのは、つらかったりするんです。
時々、お父さん的な要素を入れたくて
しょうがなくなるんですよ‥‥。

自分が組織の中で母親のようにふるまっていると、
そのチームが、どんどん
戦闘能力のない組織になってゆくことに、
背筋が寒くなります。


父親的な組織のロジックというのは、
さっきチラッと言ったように、
「政治的なつながりがあって、
 組織の決まりを守らなければ罰がある」
ということです。

たとえばそれは、免許証を提示してくださいという
レンタルビデオ屋への登録をはじめとして、
戸籍があるから逃げられませんという状態にして、
「守らなかったら、追いかけますよ」
という部分を徹底的にやっておく‥‥。
そうしないと、社会組織ではなくなるんですね。
まるっきり自由な国になってしまいますから。

あんまり母親的な成分が強すぎると、
仕事をする組織としては、逆に、社員に対する
負荷がかかりすぎてしまうところもあります。
つまり、組織の中で、
「ぜんぶ自由にやっていきましょう」となると、
本来、フリーランスとしてもやっていけるチカラを
持っている人以外は、
あんまり仕事をできなくなっちゃうんです。


ほんとうの自由って、えらい大変ですから。

フリーなのに朝早く起きることができて、
仕事の〆切を守りながら暮らしていくというのは、
その営みがリズムになるまで
鍛えぬいた人だけですよね‥‥。

フリーになりたての時っていうのは、誰でも
絶対にポカをしますし、〆切も守れないものでして。
ギャランティーの管理もできなければ、
何にもできないところからのスタートでしょう。
それがだんだんと怖くなっていくから、
いろいろ自分で覚えて、
ようやく、社会になじんでいくじゃないですか。

そういった仕事への姿勢や、
生活の組み立てを、「会社員」という、
まだ月給というカタチで雇われている人に
ぜんぶおまかせしてしまうというのは、
却って仕事の能率があがらないでしょうね。

「個人のやり方に任せますけど、
 暫定的に朝何時に来ましょうね」
と言ったって、プロ意識のない社員だったら、
いつまで経っても、遅刻しつづけることでしょう。


いま、ぼくのチームでも、
ちょうど、そういう問題に直面していますね。
ですから、今度、会社に総務を入れるんですよ。
その方が、フリーになるチカラのない人も含めて、
円滑に仕事をできると思いますから。
重松 なるほどね。
糸井 ところで、重松さんのお子さんはどんな?
重松 娘ふたりです。
糸井 あぁ、じゃ、わかりますよね?
「娘でよかった」って気持ち。
重松 ええ!
糸井 父親って、いつでも
いちばん大きな幻想に過ぎないのかもしれない。
重松 幻想だからこそ、同性である息子に直面すると、
その幻想が、暴かれてしまう。

娘とは、一種の疑似恋愛だったら、
幻想をキープできるみたいなところが、
あるじゃないですか。
昔のアメックスのコマーシャルで、
「職業・エディター、恋人・娘」っていう
バブル時代のものがありましたけれども、
息子を持ってしまうと、そこらへんには
リアルに直面せざるをえないでしょうね。
糸井 息子を持ってしまった男の人は、
どこか、まわりから、
息子を持っている人のデータを取るでしょうね。
「しょうがないなぁ」にせよ、
「そうだその通りだ」にせよ、集めたデータから
何かをマネて、父親になっていくと思うんで‥‥。

息子だけを持っている父親と、
娘だけを持っている父親とでは、
明らかに人生が変わると思いますよ。
重松 ええ、わかります。
いちばん最初に糸井さんがおっしゃった
「息子は親に似ちゃいけないんだ」
「息子は親父に似たくないと思っている」
ということは、確かにありますけれども、
親父は、どこか似させたいわけじゃないですか。
それは宿命的に相容れなくて‥‥

ただ、親父の方でも、
みんな、自分が子ども時代だった時に
「あいつに似たくないな」と思っていたことを
知っているだけに、すごくツライ話なんですよねぇ。

おそらく娘を持つお父さんは、
いちばん極端な例でも、
「娘が恋人を連れてくる場面のガンコ親父」だとか、
非常に戯画化して、今まであるお笑いのパターンで
物語として成立しちゃいますからね。
「心配するお父さん」に
役柄としてハマっちゃえばいいわけでして。

父親と息子との関係って、
いまだに星一徹と星飛雄馬から
先に進んでいないような気がするんです。
糸井 梶原一騎も、その人自体の父親像が
非常に見えにくい人ですよねぇ。
ぼくらが、父親像を
暫定的にどこに求めるかと言った時には、
過剰なスポーツ一家だとか、
矢沢永吉だとかに求めることになっていますよね。
永ちゃんも、ひな形がなかったからこそ、
ああやって過剰に父親的な人になったわけで。
重松 「矢沢ファミリー」と
言ってしまえるぐらいですから。
糸井 そうですね‥‥。
父親像ということに関して、さまざまな表現者たちは、
いろいろな追いかけかたをしてきていますよね。
たとえば、小津安二郎の捉え方は、
生活の基盤の中で、
小さい責任を取り続けていく人であるとか。

それこそ、笠置衆とか佐分利信だとかみたいな‥‥。
「その描き方があったか!」とか、
こちらとしては思うわけですけれども、
そもそも、アートだとか表現をやる人の中で、
父親をやれた人なんてそうそういないわけですから、
父親像の模索というのは、もう、
一生をかけてやる仕事になっちゃったりしますよね。
重松 糸井さん、今、
25年前と同じことをおっしゃったんですよ。
25年前の子どもについてのインタビューで、
糸井さんは、次のように言っているんです。
「ぼくはね、オフクロがいなくって、
 ぼくの親父は父親がなかったんですね。
 自分が思春期を迎えたころに、
 親父はますます、父親として
 どうふるまったらいいのか
 わからなくなっちゃったようなところがある。
 新しい育て方みたいなものがあるとすれば、
 それはステレオタイプを見てこなかった人に、
 可能性があるんじゃないか」と。
糸井 すごいところ、探してきましたね‥‥。
ぼく、根っこのところは、
あんまり、変わっていないんですかねぇ。


(月曜日に続きます。お楽しみに!)

2002-12-07-FRI

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