SOFTWARE
シェアウェアは
ひょっとすると
デジタルユートピア
かもしれない。

シェアウエアのはじまり(3)

さて、いよいよ、ONCE UPON A TIMEな話も、大詰めです。
「システム」が出来上がった後、Jimさんは、
どうなっちゃったのか?

では。いってみましょう。

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1983年5月
Doug Clappという名前のライターが、PC-world マガジンに、
PC-Fileについての素晴らしい記事を書いてくれた。
その雑誌が発売になったときに、私は家族と共に、
ハワイで休暇中だった。

そして、何がおこったのか?
その間、留守番を頼んでいた人は、毎日郵便局から、
スーパーの袋いっぱいに郵便物を
受け取ってこなくてはならない羽目になってしまった。
私達が、帰ってくるまでには、
地下室の自分の仕事部屋に下りるためには、
その袋をまたいだり、よけたりしながらでないと
行けなくなってしまっているほどだった。

そして、私の息子のJohnは、その夏のほとんどを、
郵便物の仕分けについやさなければならなくなって
しまったのだ!

そのときに、もう私達は、元の生活にはもどることが
できなくなってしまっていた。

私はずっと、サイドビジネスでの収入が、
IBMの収入の2倍をこえない限り、
会社を辞めることはないといつもいっていた。
しかし、すぐにそんなのは間違いだということが
わかってしまった。
1984年の夏までに、シェアウエアのビジネスは、
IBMの収入の10倍を稼ぎ出してくれていた。

体の方は、もう止めてくれと叫んでいたのだが、
まだ私はIBMにいた。
私は、IBMで8時間働き、
家にかえってセカンドジョブで4時間働くということに
うんざりしていた。
土日はもちろん、シェアウエアビジネスによって
つぶれてしまっていた。
なんだか、恐竜に向かって投げ縄を投げているような
気分だった。

1984年8月
私はこのとんでもない状況を自分に問いただしてみた。
「セカンドジョブとして、シェアウエアビジネスを
ここまでうまくやってきたんだから、
本腰をいれてやったら、
さぞや素晴らしい結果がえられるのではないか?」と。
この考えは、自分の体が求めている行動
(つまり、思い切ってIBMをやめるということ)を起こすのに
ずいぶん力を与えてくれたものだ。

そして、IBMを辞めたのだ。

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1987年

いつか、だれかがのこりの話を書いてくれるだろうと思う。
この時点で、私の会社は10個の製品ラインと18人の従業員が
いた。シェアウエアは、素晴らしいマーケティングの
手法だと思った。

私の小さな、趣味のデータベースプログラムは
100万人のユーザーを獲得したのだった。

ちなみに;ピークは数年後にやってきた。
     その年、会社は35人の従業員と、
     450万ドルの利益をあげたのだった。

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1995年の余談。
みなさんは、Jim Button (私のペンネーム)が、
「シェアウエアの父」だとおもいましたか?
そうです、それが、私なのです。

この話は、私の友人である、Peter Nortonが
1985年に書いてくれたものです。

ここに書かれている「シェアウエア」という言葉は
比較的新しいもので、当初、私とAndrewは
「フリーウエア」という言葉をつかっていました。
いまは、「フリーウエア」がちがう意味に
なってしまったので、「シェアウエア」としました。

そして、私は、1992年、49歳の年に、
心臓マヒを起こしました。
ソフトウエアビジネスがあまりにも多くのストレスを
生み出すことがわかったので、引退を決めました。

今は、パシフィック・ノースウエストのどこかで、
孫を肩車したり、フライフィッシングをしながら、
静かに生活しています。

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さあ、昔話は、ココまで。
Jimさんが、あれよあれよと、シェアウエアを
つくってしまった経緯が、すごく面白いとかんじたのです。
そして、すごくもうかってしまったことについても。

次回は、補足しつつ、シェアウエアについて、
もういちど、考えてみようと思う。

1998-09-30-WED

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