毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第七章 因果はめぐる

一 慈善家の門


官殿をあとにした三蔵の一行は、
それから約半月、無事平穏な旅を続けた。
もう張るも終って、ようやく夏も始まろうとしている。

或る日、一行の行く手に、町らしい眺めが見えてきた。
「あれはどこたろうか?」
と三蔵が遠くを指さしてきいた。
「さあ、どこでしょうね」

悟空か曖昧な受け答えをすると、
八戒は意味ありげな笑いをつくりながら、
「ここは兄貴のかよいなれた道じゃないか。
 それを知らない存じないというのは、
 何か下心あってのことじゃないだろうか?」
「バカだな、お前は!」
と悟空はあきれ顔で、
「なるほど雷音寺には何度かやってきたことがあるが、
 いつも空の旅だよ。
 お寺参りにかこつけて、
 近くに隠し女でもいるならまた話は別だが、
 用もない町をいちいち覚えているわけがないじゃないか」

言っているうちに、一行は町に着いてしまった。
三蔵は馬を下り、吊橋を渡って中へ入った。
見ると、細長い道の騎楼の下で、
老人が二人、何やらしきりに喋っている。
「私がきいてくるから、お前らはここで待っていておくれ」

三蔵は弟子たちをその場に残すと、
二人のそばヘ近づいて行った。
「ちょっとお尋ね致しますが……」

老人たちは、天下興亡の歴史を論じあって、
昔のような大人物がいなくなってしまったといって、
しきりに長大息をしているところであった。
「私は遠方から雷音寺詣でに参る者ですが、
 ここは何というところでしょうか?」

三蔵がきくと、
話を遮られた老人たちはびっくりして顔をあげた。
「ここは鋼台府というところで、
 すぐうしろが地霊県ですよ」

相手が坊主であることを認めると、
「托鉢をなさりたいのなら、一軒一軒まわらないでも、
 寇員外のお邸へおいでなさい。
 ここを真直ぐ行くと、南北街に出ます。
 その通りの西側に東向きに、
 虎坐門があって
 “万僧不阻” の看板が出ておりますよ。
 そこが寇員外のお邸です」
「どうも有難うございました。
 ですが、寇員外とはどんなお方でございますか?」

三蔵がなおもきこうとすると、
「そんなことは我々と関係がない。
 寇員外といえば、員数からはみ出した官職で、
 お金を持っている人にあたえられるものですからね。
 金のあることは保証するが、
 どんな人物かはご自分で判断して下さい」
「と申しますと、
 地元であまり評判のよくないお方なんですか?」
「金持で評判のよい人間なんてあるものですか?
 評判がよけれは、だいいち金持にはなれないだろうし、
 金持になれは、自分のことを悪く言わない人々と
 つきあうようになるのが今の世の中ですよ。
 それに比べると、むかしは……。
 そうそう。
 もう少しで話の筋道を忘れてしまうところだった。
 とにかく、旅の坊さんを親切に扱ってくれるのは、
 あの家ですから、あの家へいらっしゃれば
 万事オーケーですよ」

話の邪魔をされるのがいかにも迷惑そうであったから、
三蔵は鄭重にお礼を述べると、
弟子たちのところへ戻って行った。
「どうでした? お師匠さま」
と悟空がきいた。
「ここは鋼台府地霊県というところだそうだよ。
 托鉢に行く家を教えてくれたが、
 どうも土地の人にはあまり評判のよくない金持らしい」

三蔵が答えると、八戒は、
「貧乏人根性というのは、どこへ行っても同じですな。
 人の貧乏をわらう癖に、人が金持になると、
 あれこれ蔭口をききますからね。
 しかし、知らない旅の僧を歓迎してくれるだけでも、
 それすら惜しむ金持より気前がいいではありませんか?」
「実は、私もそう思っているのだよ。
 過去においてどんなことをしたか、私にはわからないが、
 少なくともそれを気に病んでいる証拠にはなるからね」

世人が南北街へ出ると、
にたして東向きに虎坐門のある大邸宅が見えてきた。
なるほど門のそばの壁に
“万僧不阻”という大きな看板が出ている。
「さすがは西方仏地だね。
 利口者とバカ者の区別はあっても、
 嘘つきはいないらしい」

三蔵はすっかり感心して、
どうやら遠路遥々やってきた甲斐があったと
喜色を取り戻した様子である。
八戒はすぐにも門をくぐって中へ入ろうとした。
悟空はその袖をひきとめて、
「待て待て。
 奥から人が出て乗るのを待って、
 様子をきいてからの方がいいぞ」
「それがいいな。
 金持なんて勿体ぶったのが多いからな」

と沙悟浄も悟空の肩を持った。
そこで、馬を門前にとめ、肩の荷をおろして休んでいると、
奥から下男が天秤棒を担いで出てきた。
下男は四人を見ると、すぐ奥へ引きかえして、
「旦那さま。
 毛色の変った坊さんが四人、門前に来ておりますよ」
「そうか、そうか」

員外は話をきくと、とるものもとりあえず外へ出て来た。
そして、奇怪な一行の風体に怖れも見せず、
「さあ、どうぞ。どうぞこちらへ」

案内されて、門をくぐり、とある一棟の建物の中へ入った。
「この上手に、
 お客様たちのための仏堂、斎堂がこざいます。
 私どもの住居は下手に見えるあの建物でございます」

三蔵は仏堂を見ると、早速、袈裟をとり出して身につけた。
金にあかして建てた豪華な仏堂の中は、
仏像そのものが純金で出来ているばかりでなく、
香炉、花瓶、燭台、机など
いずれもこりにこったものばかりで、
これが個人の家の仏堂とはとても思われない。

手を浄め、香をつまんで香炉の中におとし、拝礼を終って、
三蔵がこの家の主に向って挨拶をしようとすると、
寇員外は、
「まあまあ、挨拶はあとにして、経堂の方を見て下さい」

なるほど見せたがるだけあって、
経堂の中へ入ると、無数の経文が山と積みあげられている。
「大したものですね。
 どういう種類の経文を
 お蒐めになっていられるのですか?」
「およそ経文と名づけられるもので、
 市販されているものなら皆蒐めておりますよ」
「じゃ大蔵経もお持ちになっておられますか?」
「ええ、もちろんですとも」

言われて、三蔵と弟子たちは思わず顔を見合わせた。
どうしてかというと、
それこそは彼らが十万八千里の山河を遠しとせずして
大旅行をやってきた目的にほかならぬからである。
「どれが大蔵経ですか?」
と緊張して三蔵がきいた。
「一口に大蔵経と申しましても、たくさんございますよ。
 涅槃経四百巻もそうですし、
 菩薩経三百六十巻もそうですし、
 未曽有経五百五十巻もそうですし、
 それから、
 ここにおいてある起信論経五十巻にしてもそうです。
 もちろん、いずれも複写本ですがね」
「と申しますと、
 原本が雷音寺にあるということでございますか?」
「ええ、原本も、もちろん、そうですが、
 複写本を雷音寺で売っているわけですよ。
 もっともこの頃は、
 不信心な者が日増しに多くなりまして、
 経文なんか読む人がいなくなりましたから、
 新版がありますものかどうか」
「でも、私は大唐国王のご命令で、
 大蔵経をいただきにあがる者でございます。
 観音菩薩さまが東土にお現われになって、
 ご指示になられたことでもございますし……」
「へえ、さようでございますか。
 奇蹟ということがあるとはきいておりましたが、
 仏さまの奇蹟がそんな遠くで行われているとは
 夢にも知りませんでした。
 何しろ、
 この近辺では仏ホットケが時代の風潮になりまして、
 慈愛とか善行を
 素直に受け入れる人がいなくなりましてね。
 いやいや。
 それにしても本当に珍しい方々の顔を
 拝ませていただきました。
 これもひとえに仏縁によるものと有難く思っております」

員外は三蔵に袈裟を脱いで寛ぐようにすすめると、
家中の者を動員して、もてなしの用意にかからせた。
「実は私は寇洪と申す者で、
 四十歳になった時に思うところがあって、
 一万人の僧をもてなそうと決心致しました。
 ところが、あれから二十四年、
 本来ならば、一万人くらい直ぐだと思うのに、
 雷音寺に行き来する僧の数が年と共に少なくなって、
 ことしまでにやっと
 九千九百九十六人の名簿が出来あがり、
 あと四人で願が叶うというところまでこきつけました。
 そこへ天から降って湧いたように
 あなた方四人がおいでになったのです。
 ここから霊山までは僅か八百里ですから、
 私の願が叶いましたら、
 轎や馬を出してお送り致したいと思います」

思いもかけない好意に、
三蔵が大喜びしたことは言うまでもない。

2001-05-05-SAT

BACK
戻る