毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第二章 天竺にもう一歩

一 食い気一すじ


三蔵法師が滅法国に信教の自由をもたらしたのか、
それとも信教の自由がもともと熟する期に及んで、
三蔵がそこへ行きあわせたのか──それは誰にも分らない。

しかし、とにかく滅法国王が信教の自由を宣布するのを
この目で確かめた上で、
再び馬上の人となった三蔵は内心いささか得意だった。
「悟空や。今度こそ本当にいいことをしたな」

三蔵が上機嫌になっていうと、そばできいていた沙悟浄が、
「それにしても、悟空兄貴。
 よく一晩であれだけたくさんの床屋さんを
 動員できたものですね。
 国王やお后を坊主頭にしたことよりも、
 全国の床屋さんを動員した政治力に敬服しますよ」
「うむ。何しろ俺が
 全国理髪美容業組合の理事長を口説いたからな。
 アッハッハハハハ……」

悟空もいい加減なことを言って
皆に調子を合わせたこというまでもない。
ところが、皆の冗談がまだ終らないうちに、
早くも前方に嶮しい山が見えてきた。
「あれ。あの山の形をごらん。
 あれはただの山ではなさそうだよ」
とまっ先こ三蔵が叫んだ。
「大丈夫ですよ、お師匠さま。
 何なら生命保険をかけてさしあげてもいいですよ」
と悟空は笑った。
「しかし、お前。
 私も数多く山を見てきたから、
 少しは目がきくようになったつもりだよ。
 あのキリリと空へ立った蜂、雲を勢いよく吐き出す姿、
 見ていると何となくゾクゾクしてくるのは
 只事じゃないと思わないかね」
「ハッハハハ……。
 お師匠さまは烏巣禅師の多心経を
 覚えておいでにならないと見えますね?」
「そんなことはないよ。あれは全部諳んじている」
「諳んじていても、お忘れになっている四行がございます」
「どの四行だね?」
「ほれ、
 仏在霊山莫遠求(れいざんをとおくにもとむるなかれ)、
 霊山只在汝心頭(れいざんはこころのなかにあり)、
 人人有個霊山塔(ひとみなこころにれいざんあり)、
 好向霊山塔下修(いざれいざんのもとにしゅぎょうせん)
 ……というのがあるじゃありませんか」
「そんな文句を忘れる筈かないよ。
 千万のお経より心の修行……というんだろう?」
「しかし、お師匠さま。
 もう雷音寺はそんなに遠くないんですよ。
 その目と鼻の先までやってきて、
 なお戦々兢々としているのでは、
 雷音寺からいよいよ遠ざかるようなものですよ。
 まあ、心配をしないで
 黙って私のあとからついてきて下さい」

言われるままに、一行四人は山道を分けて入って行ったが、
折しも一陣の狂風が捲き起こった。
「あれッ。風だよ」
と三蔵が悲鳴をあげた。
「春は和風、夏は薫風、秋は金風、冬は朔風。
 風のない季節とてないのですから、
 何も驚くには当りませんよ」
と悟空は落着いて言った。
「でも今の風は天然自然の風じゃないよ」
「風は地より起り、雲は山より出ずる、
 とむかしか言うじゃありませんか。
 どうして天然自然の風じゃないとおっしゃるのですか?」

悟空がそういっているうちに、
今度は一陣の霧が立ちこめてきた。
「ほらほら。
 風もまだやまないのに、
 今度は霧がかかってきたじゃたいか」
「お師匠さま。
 心配しないで、一先ず馬からおりて休んでいて下さい。
 私が様子を見てきますから」

悟空は腰をかがめて一足跳びに中空へとびあがった。
手で両肩を押し上げて遥か下を見おろすと、
なるほど向うの崖のそばで、
一人の化け物が三、四人の小妖怪どもを相手に、
噴風曖霧の術を教えているではないか。
「見様見真似というが、
 お師匠さまも少しは先見性を発揮するようになったな。
 なるほどこれは天然自然の風ではなくて、
 化け物の人工旋風だ」

悟空は笑いながら、
しばらく相手のやることを観察していたが、
「奴をタダの一打ちであの世に送り出すのはやさしいが、
 それではこの悟空の男がすたる。
 そうだ。
 やっぱり八戒を先頭こ立てて、
 先ず八戒にやらせて見よう。
 もし八戒がうまく料理してくれればそれでよし、
 万一、うまく行かなかったら、
 それからこの俺が顔を出しても遅くはない」

悟空は雲をおりて三蔵のところへ戻ってくると、
「お師匠さま。
 上へあがって見ましたが、
 よく晴れて風も霧もありませんでしたよ」
「いむ。霧も晴れてしまったようだね」
「お師匠さま。
 実は私も風や霧のうしろに
 化け物がいるかもしれんと思っていたのですが、
 どうやら今度は私の黒星のようですよ」
「というと?」
「少し行ったところに村が一つあって、
 そこでご飯やそばを蒸しています。
 霧と思ったのはどうやらその煙らしゅうございます」

それをきくと、八戒は悟空の袖をひっぱった。
「兄貴。
 兄貴は一足先にご馳走になってきたんじゃないかい?」
「ああ。
 しかし、そんなにたくさん食べなかったよ。
 何しろおかずがやたらに塩っ辛いもんたからな」
「チェッ。
 塩っ辛いくらい俺なら我慢するよ。
 あとでうんとこさ水を飲めばいいんだから」
「そんなに食い意地が張っているのかい?」
「そうだよ。
 この通り俺は腹が減ってさっきからグーグー鳴っている。
 今から俺も行ってきたいと思うが、どうだろうか?」
「俺にきいても仕様がない。
 お師匠さまがいいと言えばいいだろう」
「じゃ兄貴は見て見ぬフリをしていてくれ。
 そうすれば俺は行って来るよ」

どうするのだろうかと思っていたら、
八戒は三蔵のところへ走って行って、
「お師匠さま。
 悟空兄貴の話によると、
 この先の村で坊さんを歓待してくれるそうです。
 村へ入ってご馳走になった上に、
 馬草の心配までさせては気の毒ですから、
 霧の晴れているうちに
 その辺で草を刈ってきたいと思いますが、
 いかがなものでしょうか?」
「いいともいいとも。
 それにしても今日のお前はバカこ精が出るな」
「極楽が近づけば、
 私だって少しは気構えが違ってきますよ。
 アッハハハハ……」

八戒は笑いながら走り出したが、
悟空はその袖をつかまえると、
「あんまり不恰好なナリをして行くともてないぜ」
「わかっているよ。
 俺ももう少し気のきいた姿に化けて行くつもりだ」

誰にも見えないところまで来ると、
八戒は揺身一変、背の低い痩せぎすの和尚に姿をかえて、
手に木魚を叩きながら、先へ進んで行った。

食い気一すじとは、
さしずめ八戒の今の心境を言うのであろう。
何しろ食べることたけしか考えていないので、
行く手に化け物の一団が待ちかまえていて、
わッとばかりに取り囲んできても、
まだそれと気づかない。
「おいおい。そんなに俺をひっぱるな。
 いくら食い気旺盛でも、
 口は一つしか持っていないのだから、
 一軒一軒片づけて行く」
「坊主。何を寝言を並べ立てているんだ?」
「ここじゃ坊主に
 大盤振舞いをしているそうじゃありませんか?
 ご馳走になりにきたんですよ」

平然として八戒は言った。
小妖怪どもはあきれかえって、
「ご馳走になりこきたんだって?
 ここをどこだと思っている?
 我々は山中で坊主を生捕りにして食べるのが
 専門なんだぜ」
「えッ? 何だって?」

やっと八戒は夢からさめた。
「畜生め。
 馬丁の奴め、よくも俺こ一杯食わせやがったな。
 もうこうなったら、破れかぶれだ」

八戒ははもとの姿に戻ると、腰から熊手を抜き出して、
近づく者を相手かまわずたぎ倒しはじめた。

驚いた小妖怪どもは妖怪のところへとんで行って、
「大王、大へんです」
「何が大へんだ?」
と妖怪はききかえした。
「山の向うから坊主が一人現われたので、
 生捕りにして連れてかえろうとしたら、
 意外と手ごわい奴で、化ける力まで持っています」
「どんな化け方をする奴だ?」
「きた時は小ぎれいな坊主だったのに、
 皆でとりおさえようとしたら、
 途端に人間離れをした形相にかわり、
 手に熊手を握りしめて大暴れをはじめました」
「その程度なら大したことはない。
 どれ、俺が行って見てみよう」

妖怪は手に一本の鉄杵を持ちあげると、
八戒のそばへやってきた。
なるほど見ると、口を長く垂れ、耳は扇のように大きく、
おまけに首すじのあたりに
ゴワゴワの黒い毛まで生えている。
「やい。貴様はどこからやってきた?
 早々に名乗らないと、生命はないぞ」
「アッハハハハ……」
と八戒は笑いながら、
「坊やはこのご先祖様をご存じないと見えますな。
 天の河の八万の水師の総司令官、
 天界にこの人ありと言われた天蓬元帥とは
 この俺のことだ。
 故あって今は唐三蔵のお供をして天竺へ行く途中だが、
 おとなしく道をひらくなら、
 まあ、生命を助けてやらんでもないが、
 嫌のイの字ても言ってみろ、タダじゃおかんぞ」
「すると、お前は唐三蔵の弟子の一人か」
と化け物も負けずに言いかえした。
「かねてから唐三蔵の来るのを待っていたが、
 今日はちょうどよいところへ来てくれた。
 さあ、そこを逃げるな。
 俺のこの杵の味を思い知れ」
「なにを。この染物工が!」
「俺が染物工だって?」
「そうじゃないか。
 染物工でなくて、どうしてそんな棒を持っている?」
「お前のその土百姓の熊手より少しは気がきいているさ。
 それッ。者ども、かかれ」

化け物は子分たちをそそのかして、
一せいに八戒を取りまいてきたが、
八戒は少しも落着きを失わず、
適当に相手をあしらっている。

2001-04-15-SUN

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