毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第八章 尾花と露

四 お釈迦様ならご存じ


李天王の館は雲楼宮と命はれている。
太白金星が門前まで来ると、門番の童子が覚えていて、
すぐ奥へ伝達した。

李天王はあわてて迎えに出てきた。
見ると、孫悟空が太白金星のあとについて入ってきたので、
李天王は思わず眉をひそめた。
「金星老人。
 今日はまた、どういうお使いでございますか?」
「いや、実はこの孫大聖があなたを告訴したのですよ」

金星がそういうと、
李天王はひそめた眉をつりあげて怒り出した。
五百年前、かつて天兵を率いて美猴王を攻めながら、
逆に敗戦の苦杯を飲まされた光景を思い出したのである。
「一体、何をタネに私を告訴しやがったんですか?」
「あなたの身内の者が
 下界へ行って化け物屋を開業していると訴えたのですよ。
 詳細はご自分で読んでみて下さい」
李天王は香を焚いて恭しく聖旨をおしいただくと、
早速、ひらいて見た。
「こん畜生。嘘出鱈目を並べ立てやがって」
「まあ、そう腹を立てないできいて下さい」
と金星がわって入った。
「証拠品として位牌と香炉を
 玉帝のところへ持って行ってるんです」
「しかし、私には男の子が三人と女の子が一人、
 合計四人しか子供はいない。
 一番上が金
 これば如来のところでおつとめをしているし、
 二男の木叉は南海で観音菩薩の秘書をやっている。
 三男のは日常、私の身辺に寝起きしている。
 娘といえば、貞英というのが一人いるっきりだが、
 これはまだ七歳で物の道理もわからないのだから、
 下界へ行って妖精になれるわけがない。
 嘘と思うなら、ここへ抱いてきて見せてもいい。
 大体、この猿は無礼千万で、
 無実の罪で人をおとしいれようとしたら
 自分が罪になるということも知らんのじゃないか」
李天王は手下どもを呼ぶと、
「この猿めをしばりあげろ」
部下の巨霊神や魚肚将や薬叉雄師が
一せいに悟空をとりかこんで、
うしろ手にしばりあげてしまった。
見ていた金星はびっくりして、
「李天王。
 自ら禍いを招くようなことはおやめになって下さい」
「しかし、誣告者を許すという法はありませんよ。
 先ずこいつの首をはねてから、
 あなたと一緒に玉帝のところへ参りましょう」
李天王が硯妖刀を持ち出すのを見た太白金星は
胆をつぶして、
「とんだことになってしまった。
 人を告訴するのは一歩間違えると、
 こんなことになりかねないんだよ。
 ああ。困った。困った」
「なあに。ご心配はいりませんよ。
 この悟空の戦法はいつだって相手に三なぐらせて、
 それからその十倍くらいにして
 おかえしをすることになっているのですから」
悟空が平気な顔していると、李天王は刀をふりあげた。
まさに首をうちおとそうとした瞬間
太子がとび出してきて、
自分の剣の鞘で、李天王の刀を遮った。
「お待ち下さい。父上!」

李天王の顔色がかわった。
「どうした?」
「父上。下界に娘がいないとはいえないのです」
「なにッ? 娘は一人しかいないぞ。
 それともわしがそんなにあちこちに
 妾宅があるとでも思っているのか」
「いいえ。
 父上はお忘れになったのですか。
 もう一人います。
 もともと霊山で如来の宝燭を盗み食いした妖精で、
 本当なら生命のないところを我々が許してやったので、
 恩を感じて、父上を父と仰ぐようになった娘です」
「そうだ。すっかり忘れていた。
 その娘は何という名前だったかな?」
「あの娘は三つ名前を持っています。
 出身からいうと、金鼻白毛老鼠精、
 香花宝燭を盗んでからは、半截観音、
 そして、今、下界へおりてからは、
 地湧夫人と呼ばれているということです」
「なるほど。これはわしの手ぬかりだった」
李天王は刀をおくと、
急いで悟空の縄を解きにかかろうとしたが、
悟空は肩を怒らせて、
「俺はこのまま玉帝のところへ行くんだ。
 そして、誰がこの俺に縄をかけたか見てもらうんだ」

これには李天王も弱りはてて、
太白金星にとりなしを頼むよりほかなくなった。
「だから、はじめから気短かなことは
 およしなさいと言ったでしょう」
と金星は言った。
「たとえ養女にすぎなくても、
 あなたに罪がないと言って逃げ切ることはできませんよ」
「じゃどうすれはいいだろうか?」
「二人が和解をすれば、どうにでもなることだが、
 どうもきり出す口実がなくてね」
「でもあの猿が花果山で化け物業をやっていた時に、
 玉帝にとりなしをして官に封じてやったのは
 あなたではございませんか?」
「そうそう。そんなことがあったっけ。
 そのことを持ち出せば、
 あるいはきいてくれるかも知れん」

金星は悟空のそばへ行くと、
「ね、大聖。
 私の顔に免じて、
 ひとつ縄をほどかせてやっておくんなされ」
「いやいや。
 俺はこのままでも、
 玉帝の前までいざって行くことが出来ますよ」
「何という強情っ張りだろう。
 少しはむかしの恩に感じて、
 私の言うことをきいてくれるかと思ったが……」
「へえ? あなたに恩を受けたって?
 私があなたからどんな恩を受けましたか?」
「もうお忘れかね?
 私がはじめて花果山水簾洞に
 お前さんを訪ねて行った時のことを!
 お前が天界で酒を盗んだ時に
 逆に斉天大聖に任じられるように努力した人のことを」
「わかった、わかった、わかりましたよ。
 あなたの顔に免じて、奴に縄をほどかしてあげましょう」

やっとのことで、
悟空は李天王に縄を解かせて由由の身になった。
「さ。愚図愚図はしていられないぞ。
 今の訴訟ときたら、
 議員の任期が終るまでに
 選挙違反の判決もきまらないくらい
 スローモーなんだから、
 我々がああでもない、
 こうでもないといっているあいだに、
 二人の間に小僧でも生まれおちたら、たいへんだ」
「だから、李天王に今すぐ行ってもらえば」
「しかし、告訴状のとりさげはどうします?」
「李天王が兵を集めて南天門外で待ってくれている間に、
 私と大聖でとりさげてきますよ」
「でも、もし大聖がうっかりしたことを喋ったら、
 私の立場がなくなります」
「そんなバカなことを、この孫悟空がやると思いますか?
 私は、李天王は下界の妖怪が
 自分の名をかたったことを知って
 既に討伐に出かけたあとだったと申しますよ。
 そうすれば万事円満に片づくじゃありませんか?」
「うむ。そうしよう」

打ち合わせた通り、一旦、告訴をとりさげに戻ってから、
悟空は南天門外で李天王の大軍と合流した。

「無底洞の入口はどこですか?」
と李天王がきいた。
「それが周囲はおよそ三百里もあるのですが、
 あちらこちらに道が通じていて、
 どこにかくれているのか
 さっぱり見当がつかないんですよ。
 これ、ここが洞穴の入口です」
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、だね。
 誰が先鋒を受け持つかね」
「私がやりましょう」
と悟空が言うと太子も、
「いや、拙者が行きましょう」
「いやいや。
 一番乗りはこの八戒が引受けましたよ」
と八戒も負けてはいない。
「みんなそう言ってくれるのは有難いが、
 やはり手分けをしよう。
 一番乗りは斉天大聖と太子の二人。
 あとのものは洞門で奴が出てくるのを待って
 両方から挟み打ちにしよう」

李天王の命令で、悟空と太子は洞門の中へ入って行ったが、
洞内をくまなくさがしまわっても、
妖精の姿はおろか、三蔵の姿も見えないのである。
「さ、困った。
 今頃、二人は天国へ行って
 歓喜仏にでもなったのではなかろうか」

悟空が青くなっていると、東南の方向で
ひょいと土の中から頭を出した小妖怪があった。
それが天兵の足にあたったので、
忽ち隠れ家が見つかってしまった。
化け物は万一の場合を慮って
竹薮の中に小さな隠れ家を持ち、
そこへ三蔵を連れ込んでいたのである。

馬も荷物も三蔵も、悟空の手元へ無事かえってきた。
化け物は逃げ場を失い、
観念して太子の前にひれ伏した。
「お前のおかげで、
 俺たちはあやうく売春幇助罪に問われるところだったぞ。
 この色気違いめ!」

化け物はうなだれて、おとなしく縛についた。
「どうです、女に追っかけられる気分は?」
と八戒は三蔵の顔を見ると、いきなりきいた。
「おそろしいもんだね」

まだ恐怖がおさまらないのか、三蔵はしみじみと語った。
「二世はいつ生まれるのですか?
 それとも何とかゼリーをお使いになったのですか?」
「バカをお言いでないよ。
 冗談は冗談でも、
 言い方によってその人間の品性がはかられるってことを
 お前は知らないのかね」
「美男に生まれると、人知れぬ苦労があるものですね。
 お察し致しますよ。
 ワッハハハハ……」
李天王の親子にお礼を述べると、
一行は再び路を西へとった。
当分は三蔵の失敗談がみんなの“酒のサカナ”である。
三蔵はなかった、といい、八戒は信ぜられない、という。
とすれば、真相については多分、
“お釈迦様だけが知っている”のであろう。
ナムアミダブツ……。


(つぎは「ああ世も末の巻」)

2001-04-10-TUE

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