毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第六章 鐘は錆びたり

一 誠心と悪心


「何だと? もう一度言って見ろ」
と国王は思わず怒鳴った。
「ハイっ申しあげます。
 昨夜の冷風で鵞鳥の籠に飼っておいた子供たちが
 一人残らず消えてしまいました」
と兵馬官はくりかえした。

それをきくと、国王は国丈の方をふりかえって、
「ああ。これで私もいよいよ寿命がつきたらしい。
 折角、あなたの処方のおかげで、
 今日にも生き肝を使う段取りになっていたのに、
 えりにえらんでその直前に
 子供たちが消え失せてしまうとは!」
「ハッハハハハ……。
 心配なさるには及びませんよ。
 子供たちが運び去られたのは、
 天が陛下にもっともっと長い寿命を
 おさずけになる兆しです」
と国丈は答えた。
「それはまたどういうわけです?
 あなたの処方が台無しになるような事態が
 起っているというのに」
「いやいや。
 さっきここへ入ってきた時に、
 私はたった一個の生き肝で
 一千一百一十一個の子供の生き肝にも相当する
 素晴しいのを見つけました。
 子供の生き肝では陛下の寿命をお伸ばししても
 せいぜい千年ですが、これだと万年は保ちます」
「それで陛下万歳というわけですか。
 あいつはおめでたい奴だと腹の中で笑いながら、
 私をかついでいるんじゃないでしょうね?」

国王がしつっこく食いさがるので、
国丈もこれ以上もったいぶるわけにも行かず、
「ほかでもありませんが、
 さっきここへ入ってきた時にあった東土の坊さんです。
 あの坊主は容貌端正、器宇清浄、子供の時から出家して
 どうやらまだ女のからだにふれてはいない様子。
 もし奴の生き肝を煎じて私の仙薬と一緒に服用したら、 
 きっと万年の寿命を得られます」
「どうしてそれを早く言ってくれなかったのです?
 そうとわかっていたら、ここからかえさなかったのに」
「なあに。
 どうせ奴はまだ金亭館の中でうろうろしているでしょう。
 兵隊をやって包囲すれば簡単に生け捕りにできますよ。
 ここへ連れてきて、わけを話して、
 向うが承服すれば死んだあとに
 祠を立てて祭ってやればいいし、いやだといえば、
 力に物を言わせるまでのことですよ」

暗君はそれをきくと、
直ちに命令を下して城郭の各門をとざさせ、
羽林衛の軍隊を派遣して駅馬館を包囲させた。

だが、このニュースをいち早く耳にした悟空は
一足先に館に飛んでかえると、もとの姿にかえって、
「お師匠さま。大へんだ、大へんだ」

あんまり“大へんだ”を言ったことのない悟空の口から
その言葉をきいたので、三蔵は顔面蒼白になって
その場にひっくりかえってしまった。
驚いた沙悟浄は、
「お師匠さま。
 しっかりして下さい。気を落ち着けて下さい」
「何が大へんなのか知らんが、
 兄貴ももう少しゆっくり話してさしあげれはいいのに」
と八戒も不平顔である。
「いやいや。本当に大へんなことになったのだ。
 いまにこの金亭館は全館包囲されて我々は袋
 の鼠になってしまうぜ」

悟空がこれまでの経過を話すと、八戒は得たりとばかりに、
「だから言わんこっちゃない。
 子供に恵みを垂れるのは結構毛だらけだけれど、
 もとを言えば自分から招いた禍いだぜ」

三蔵は地べたから這いおきると、
悟空の身体にしがみついて、
「悟空や。本当にどうすればいいだろう。
 何かいい考えはないだろうか?」
「いい方法は一つしかありません。
 それは大事を小事にしてしまうことですよ」
と悟空は言った。
「大事を小事にするって、どういうことですか?」
と沙悟浄がききかえした。
「それは、お師匠さまと弟子と入れかわりになることさ」

それをきくと、三蔵は、
「もし生命が助かるものなら、お前を師匠にして、
 私は弟子にでも孫弟子にでも喜んでなりますよ」
「それならば、一刻も早く細工にかからなきゃ。
 おい、八戒。早く泥をもって来い。
 お師匠さまの顔形をかえてしまうから」

八戒は熊手をとり出して早速、土を掘りかえしはじめた。
しかし、泥をこねる水がすぐ近くにない。
外へ出て行くだけの勇気もないし、時間もないし、
とっさの思いつきでうしろを向くと、
ジャーと小便を垂らして、
それで泥の団子をこねて悟空へハイといってさし出した。

急場のこととて、悟空も文句をつけているひまがない。
大あわてにあわてて
三蔵の顔を自分に似せてつくりなおすと、
息を吹きかけて「変れ!」と叫んだ。
それから三蔵と衣服をとりかえ、
自分は揺身一変、三蔵になりすました。
「ウム。これじゃ俺たちでもちょっと区別がつかないぜ」

八戒と沙悟浄がしきりに感心していると、
そこへ銅鑼や太鼓の音もかしましく
羽林衛の長官が三千人の手下を率いて駅馬館へやってきた。
中から一人の錦衣官が進み出て、
「東土唐朝の長老はおいでになりますか?」

迎えに出た駅丞はすっかりおろおろして、
「ハイ。下の客間においでの筈でございます」

駅丞に案内されて、客間へやってくると、
「唐の長老さま。我が王がお召しでございます」
八戒と沙悟浄は偽者の悟空のそばに立ち、
偽者の三蔵だけが門のそばへ出て行くと、
「陛下が私めをお召しとは、
 どういうご用事でございましょうか?」
「さあ、
 きっと何か重要なご相談があるのでございましょう。
 どうぞ今すぐ私と一緒に御殿へきて下さい」
錦衣官はいきなり手を出して、
偽三蔵の衣をグッとつかまえた。
ひきたてられるままに悟空の偽三蔵は宮殿へ入ってきた。
国王が姿を現わすと、文武百官はその場にひれ伏したが、
ひとり偽三蔵だけは階段の下に直立したまま、
「陛下。私にいかなる用事でございましょうか?」
「ほかでもないが、お前に一つ頼み事がある」
と国王は笑いながら、
「私は長の患いでどうにもこうにも困っていたところ、
 ここにおられる国丈さまが
 天下の名処方をして下さった。
 しかし、せっかくのこの薬をのむにあたって、
 一つだけ足りないものがある。
 もしお前がそれを提供して下されば、
 お前のために祠を立てて
 国の続く限りお祭りを絶やさないように
 してさしあげたいと思うがどうであろうか?」
「ごらんの通り、私は一介の出家で、
 持っているものといえば、
 この身体よりほかにございません。
 陛下のお役に立つようなものは
 持ち合わせておらないと存じますが……」
「いやいや。私のほしがっているのはお前の心肝だ」
「待って下さい。
 心肝といえば、心臓と肝臓、
 両方併せて肝心というくらい
 どちらもなくてはならないものですが、
 陛下の欲しいのはどちらでございますか?」
「どちらが肝心なんですか?」
と国王は国丈の方をむいてきいた。
「どちらも入用だが、
 まず心臓の方から先にいただこうじゃありませんか」
と国丈が言った。
「そいつはおやすい御用です」
と偽三蔵は気安くうけあった。
「ですが、どんな心臓がご入用なんですか。
 私の持ちあわせは幾通りもございますが……」
「こちらの欲しいのは、お前の悪心さ」
と国丈は叫んだ。
「さあ、そういう心施を持ち合わせているかどうか
 わかりませんが、ご入用とあらば、
 ほかならぬ陛下のおんため、
 喜んで腹かききって中をさがして進呈致しましょう。
 どうぞ刀を一本かして下さい」

偽三蔵は牛刀を一本手にとると、
服を脱ぎ左手で腹の皮を撫でながら、
右手に持った刀で、えいッ、とばかりにかききった。
それから手を中に入れて力任せにひっぱると、
ゾロゾロと中から数珠つなぎになった心臓が現われた。
居並ぷ文官は色を失い、武官は鳥肌を立てた。
「何という多心な坊主だろう」

国丈が驚いていると、坊主は血だらけになった心臓を
一つ一つ高々とかざしながら、
「ハイ。これは赤心、ハイ、これは功名心、
 ハイ、これは嫉妬心、ハイ、これは愛国心、
 ハイ、これは恐怖心、ハイ、これは多情仏心……」
と一つ一つ註釈をつけている。
何十個という心臓を、
大道商人よろしくくりひろげて人々に見せたが、
どこにも悪心という心臓は見当らないのである。

国王は驚きのあまり口も満足にきけないでいたが、
やっとの思いで、
「わかったわかった。早く片づけてしまえ」

偽三蔵は地べたから立ちあがると、本性を現わして、
「陛下。あなたのように人を見る目のない国王には
 あったことがございません。
 私たちは誠心誠意あなたのためを思っているのに、
 あなたは私たちに悪心があると
 お考えになっていられます。
 悪心は本当はあの国丈の身体の中にあるのです。
 嘘と思うなら、私が代りに奴の身体の中から
 とり出してごらんにいれましょうか」

そう言って悟空はグッと、国丈の方を睨みつけた。

2001-03-30-FRI

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