毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第一章 女たちとそのヒモ

二 春の痴漢


さて、一方、悟空と八戒と沙悟浄の三人は、
道の傍らで三蔵の出てくるのを待っていた。
八戒と沙悟浄は肩の荷をおろして、
馬に草をやったりしていたが、
悟空はそばに聳えた樹を見つけると、
スルスルと上へ登って行った。
と、突然ピカリと白昼に稲妻が光った。
「いけねえ。お師匠さまにまた災難がふりかかったぞ」

あわてて樹からとびおりた悟空は家の方を指さしながら、
「見ろよ、あの荘院を!」

八戒と沙悟浄が目をあげると、荘院の姿は消えて、
雪のようなキラキラと光るものがその上を覆っている。
「畜生。また妖精に一杯食わされてしまった。
 早く助けに行って来なくちゃ」

八戒が勇み立つと、
「待て待て。
 そんなに騒がなくとも俺が行って様子を見てくる」

悟空は如意棒を片手に握ると、あたりに注意を払いながら、
そばへ近づいて行った。
見ると、
糸とも縄ともまがう白い層が幾百千もかさなりあっていて、
さわってみると柔らかで手に粘りついてくる。
「こりゃ一体何だ。
 こんな気の抜けたようなものは
 千層が万層でもただの一打ちじゃないか」

そういいながら如意棒をふりあげては見たものの、
「待てよ。
 硬いものならものの一撃で真っ二つだが、
 こんなに柔らかいものではぺしゃんこになるだけだ。
 万が一、相手の目をさますだけのことに終ったら、
 却って始末が悪いかもしれないぞ。
 よしよし、俺に考えがある!」

悟空はその場に立って呪文をとなえた。
すると、
この土地の土地神が土地廟の中で七転八倒をはじめた。
驚いたのは土地公よりも婆さんの方である。
「まあ、あなた、蹴蹴の発作でもおこしたの?」
「そうじゃないんだ、そうじゃないんだ。
 斉天大聖というのがこの土地へやってきたのに、
 儂が迎えに出なかったものだから、
 怒って儂をつかまえにきたんだ」
「あらかじめ公文書がきたわけじゃあるまいし、
 こちらは知らなかったんだから、出て行って、
 そう言えばいいじゃありませんか」
「でもあの男の棍棒は手ごわいよ。
 何しろ目茶苦茶な男なんだから」
「あなたがこんなおじいさんだと知ったら、
 まさか手荒いことはやりませんよ」
「でも飲み食いの銭がなかったら、年寄りだろうが、
 女子供だろうが、
 見境なく、いじめる親不孝があるだろう。
 あんな男だよ、儂のきいたところでは」

二人はああでもない、こうでもない、と言いあっていたが、
ほかに智慧も浮かばないので、
「仕方がない。とにかく出て行って見よう」

土地公がおそるおそる外へ出て行って、
「大聖、私めがここの土地公でございます」
とその場に膝まずくと、
「いや、ちょっとききたいことがあって、
 お前さんを呼んだだけだ。
 ここは一体、何というところだね?」
「大聖はどちらからお見えになったのでございますか?」
と土地神がききかえした。
「東の方から西へ向ってやってきたところだ」
「じゃ、あの山の上を通りましたか?」
「通ってきたとも。
 現にあの山のところに、
 我々の荷物や馬が見えているじゃないか」
「あすこが盤糸嶺と申しまして、
 山の下に盤糸洞という洞窟がございます。
 洞窟の中には七人の妖精が住んでおります」
「化け物は男か、それとも女か?」
「女の化け物でございます」
「その化け物は、どの程度の実力を持っているのか?」
「さあ、私はこの通りの老人で、
 向うと張り合うだけの威力もございませんので、
 相手がどの程度の実力を持っているのかよく存じません。
 ただここから南へ三里ほど行ったところに
 濯垢泉と呼ばれている天然の温泉がございます。
 もともとはこの七仙姑の湯浴みの場所だったのですが、
 そこへまた別の妖怪がやってきて占領してしまいました。
 七仙姑が争わずに
 おとなしくこっちへ居を移したところを見ますと、
 濯垢泉にきた妖怪の方が
 ずっと手ごわいに違いないと思います」
「温泉を占領した妖怪は何を企んでいるのか?
 近頃はレジャー・ブームで、人里離れた山の中でも、
 お城のような観光旅館を建てれば、
 バカな奴らがわんさと押しかけてくる。
 何か青写真のようなものでも
 ひろげているのを見なかったか?」
「いくら観光ブームでも、
 まさかこんなさびしいところに
 ホテルを建てたりはしますまい」
「いや、それはわからんよ。
 何しろ今の資本家は
 金に任せてどんな大冒険でもやるからね。
 それをあてこんで、一足先にやってきて、
 大資本から補償金やら権利金をまきあげる
 山師商売もあるんだからね」
「なるほど、そんなものですか。
 それじゃきっと山師の方の化け物ですよ。
 見ていると、毎日、三度、温泉に入るだけで、
 今の時間などは家の中で
 ゴロゴロと昼寝をしているだけのようですから」

委細をきくと悟空は、
「いや、どうもご苦労だった。
 またあとで頼むことがあるかも知れないが、
 きょうは一先ずお帰り下さい」
土地神が安堵の胸を撫でおろして廟へ引きあげて行くと、
悟空は一匹の蒼蝿に化けて草叢で様子を窺った。
やがてバリバリと
蚕が桑の葉を食べるような音がしたかと思うと、
さっきまで層をなしていた雪のような山が消え、
もとの家邸がその中から現われた。
「ギーイ」

音を立てたのは木の扉で、
笑い声と共に中から女たちが一人また一人ととび出てきた。
悟空が眼を細めて見ていると、
どれもこれも玉のような美人揃いである。
「道理でお師匠さまがふだんに似合わず
 自分から托鉢に行くといい出してきかなかったわけだよ。
 これだけの美人を一人一人満足させてやろうとすれば、
 一日や二日では間に合わないだろうし、
 みんなで無理矢理、お師匠さまをいじめたら、
 いくら元気な男でも頓死しかねないだろう。
 だが、待てよ。
 こいつらが何を喋るかきいてみよう」

悟空の化けた蒼蝿はブーンと一声、
草叢からとびあがると、
一番前を歩いている女の髷の上に翅をおろした。
「お姐さん。
 一風呂浴びたら、あの坊主を料理しましょうよ」
とうしろからきた女が話しかけた。
「そうね。どんな料理にしたらいいかしら?」
「蒸して食ペた方がいいと思わない?」
「ハハハハ……」
ときいていた悟空は思わず笑い出した。
「こいつら、しゃれた口をききやがる。
 煮た方が薪の節約になるのに、
 蒸して食べようなんて田舎者には珍しく
 口が奢っているじゃないか」

女たちは野辺の草花を摘んだり、
笑いこけたりしながら、歩きつづけたが、
やがて垣根にかこまれた立派な門のところまで来た。

女の一人が扉をあけると、
中に広さ五丈あまり長さ十丈あまりもあろうかと思われる
天然の温泉が湧いている。
水は底まで澄んでいて、
池の上にはあずま屋が三カ所立っている。
あずま屋の壁に近いところに脱衣籠がおいてあった。

まさか覗かれているとは知らないから、
女たちは一せいに服を脱ぎはじめた。
帯をとくと、白い肌が現われる。
胸のふくらみが静かにゆれる。
ドブンと水しぷきの音がすると、
「ああ」
と思わず悟空は声を立てた。
「俺がこの如意棒で池の中を力任せにかきまぜたら、
 煮湯をネズミにひっかけるようなものだろう。
 しかし、むかしから男子は女と争わず、
 と言われているから、
 いい男がマゲを結った女を殺したとあっては、
 悟空のこの名がすたる!
 そうだ。奴らが動きのとれないように
 ここに釘づけにしてやるとしよう」

悟空は口に呪文をとなえ、
揺身一変すると忽ち一羽の老鷹に化けた。
鷹はクルリと翅をかえすと、空からとびおりてきて、
そのへんにかけてあった女たちの衣服を
一枚のこらずさらって空高く舞いあがって行ったのである。

2001-03-14-WED

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