毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第一章 妻と妾と友と

三 越すに越されぬ火


さて斗雲にのった悟空は得意満面で、
三蔵一行のいる村へ戻ってきた。
「お師匠さま。兄貴がかえってきましたよ」

八戒の声で、三蔵や村の老人たちが門前へ出て見ると、
なるほど悟空は芭蕉扇を肩にかついでいる。
「ご老人。芭蕉扇とはこの扇のことですか?」
「そうです。そうです」
「ご苦労だったな。ずいぶん骨が折れただろう」
と三蔵も大喜びであった。
「骨が折れるなんて程度じゃありませんよ。
 鉄扇公主って誰だったと思います?
 牛魔王の女房で、紅孩児の母親だったのですよ」

悟空が五万里も吹きとばされた話をすると、
老人たちは増増そのものよりも
話の大きいことにぶったまげたが、
とにかく芭蕪扇が手に入ったのだから、
無下に笑いとばすこともできない。
「じゃ早速、山をわたることにしましょう」

一行は族装を整えると、
山目指して物の四十里ほども進んだ。
「熱い。熱い。足の裏が焼けそうだ」
と沙悟浄が言った。
「俺は爪の先にお灸をすえられているような感じだよ」
と八戒も応じた。

馬の歩みが常よりのろいのも、
暑さにうだっているせいだろう。
「お師匠さま」
と悟空は馬をとめると、
「これ以上進んでも仕方がないから、
 まず火を消して
 一雨ふらせることにしようじゃありませんか?」
「ウム。それがいいな」

悟空は芭蕉扇を手にとって、
火の力向へ近づいて思いきりあおいだ。
と、山の頂上から猛然たる炎が湧きおこった。
もう一度、力任せにあおいだ。
と炎は先に百倍して燃えあがった。
更にもう一度。
「いけねえ。あッつッ……」

火の足はますます愁いを得て、
千丈の高さまで吹きあげるではないか。
「火だ。火だ。早く逃げろ」

四人は馬をかえすと、
二十里近くも息もつかずに走りかえった。
「こりゃどうしたことか?」
「不思議だ。不思議だ。一杯食わされたらしいぞ」
と悟空は無念そうに腕組みをしている。
「それにしても、
 兄貴はどうして逃げろと叫んだりしたんだ?」
と八戒がきいた。
「いや、まさかこんなことになろうとは
 思っていなかったものだから、
 もう少しで猿の丸焼きになるところだった。
 見ろよ、俺の眉毛と脛の毛を」

なるほど、悟空の脛の毛は火に焦げて、
見るも無残な恰好だ。
「常々、火の中に入っても雷に打たれても、
 平気の平左だった兄貴がこれはまたどうしたことか」
と八戒は笑った。
「備えなければ、鬼だって寝首をかかれるさ」
と悟空は無念そうに、
「今日は火を消すことばかり考えて、
 火にあぶられる計算をしなかったものだから、
 つい呪文をとなえなかったのだ」
「それはそれとして、
 この火ではとても火山はこえられそうにないな」
と沙悟浄は愁い顔である。
「火のあるところがわたれなければ、
 火のない道を行くまでのことさ」
と八戒が言った。
「火のない道というと?」
「それはお師匠さま、東と北と南ですよ」
「しかし、お経のあるのはどの方向だね?」
と三蔵はききかえした。
「それは西方です」
「私はお経のある方向へ行きたい」
「お経のあるところには火が燃えている。
 だのに、
 火の燃えていないところには行きたくないという。
 さてさて、どうしたものか」

四人が考えあぐんでいると、
「皆さん。考えごとはあとにして、
 まずお餅でも食べて腹ごしらえをされてはいかがです?」

見ると、一人の老人が鋼のお盆の中に、
蒸し立ての餅を持って立っていた。
「私は火山の土地神です。
 皆さんがお困りの様子なので、
 せめて気力でもつけていただこうと思って、
 食べ物をお持ちしたのです」
「ご馳走をいただくのはかたじけないが、
 それよりも何とかして
 この山を越える方法はないものか?」
と悟空がきいた。
「あの山の火をしずめようと思えば、
 羅刹女の芭蕉扁を借りるよりほかないでしょう」
「芭蕉扇って、こいつのことじゃないか」
と悟空は道端に捨てた扇を足蹴にしながら、
「あおげば、あおぐほど、火がもえあがる。
 考えてみりゃ扇ってものは
 火をおこす時に使うものだから、
 それで火が消える道理はないやな」
「ハハハハ……」
と土地神は笑いながら、
「そいつはにせ物の芭蕉扇ですよ。
 大聖はうまくあおられたのですよ」
「すると、本物が別にあるというわけか?」
「いかにもおっしゃる通りです」
「どうすれば、本物を手に入れることができる?」
「それはやはり大力王の力を借りる以外に
 手はないでしょうね」
「大力王というと?」
「ほかならぬ牛魔王のことでございますよ」
「牛魔王だって?」
と悟空は思わず声を大にした。
「女房に頼んでもウンと言わないものを、
 亭主に頼んだらうまく行くという道理があるのかい?」
「いや、それにはわけがあるのです」
「というと、
 この火は牛魔王が仕かけたワナだとでもいうのかね?」
「いやいや」
と土地神は首をふった。
「もし本当のことを申したら、
 大聖は怒るかも知れませんが……」
「本当のことを言われて怒る俺じゃない。
 遠慮をすることはない、早く言え」
「じゃ申しあげますが、
 この山の火は、本当はあなた様が張本人なんです」
「この俺が!
 冗談も休み休み言うがいい」
と本気になった悟空は目をむいた。
「ほおれ。怒らないと言って、
 もう怒っていらっしゃるじゃありませんか」
「嘘でたらめを言われて怒らない奴がどうかしている。
 大体、俺を放火魔扱いにするお前がどうかしているぞ」
「まあ、そう怒らないで、まず私の話をきいて下さい。
 五百年前のことをよもや大聖は忘れてはおられますまい。
 あの頃、この一帯は本来、
 山なんかない一面の平原だったのです。
 ところが大聖が天宮荒らしで、二郎聖君にふんづかまり、
 太上老君の八卦炉に入れられたことがありましたね」
「いかにも。
 俺は八卦炉の中で七七四十九日いぶされたが、
 それでもどうもなかった」
「おかげで炉の蓋をあけた時、あなたの足のはずみで、
 煉瓦が二、三個ころげおちてしまいました。
 それがここへおちて来て火山になってしまったのです」
「そんなことがどうしてわかる?
 誰か目撃者でもあれば話は別だが……」
「その時、
 兜率宮で炉の番をしていたのがこの私でございます」
と土地神は言った。
「私は老君から責任を問われて、
 ここの土地神におとされてしまったのです」
「道理で土地神にしては少々毛色が違うと思ったよ」
とわきから八戒がちょっかいを出した。
「どうも話が少し、うまく出来すぎているように思うがね」と
悟空はまだ半信半疑で、
「時に、
 さっきお前は大力王の力をかりればいいと言ったが、
 それはまたどういうわけだね」
「大力王と羅刹女は夫婦の仲ではありますが、
 目下、冷戦の最中なんです」
「わかった。
 その調停役を買って出ろ、というわけだろう?」
と八戒が膝を打った。
「大力王は最近、
 積雷山の摩雲洞というところに女をつくって
 本宅へはよりつかないことが多いのです」
と土地神は八戒に取りあわずに続けた。
「あの山に万年狐王というのが住んでいて、
 二年前に玉面公主という一人娘をのこして
 他界したのです。
 莫大な遺産をうけついだ玉面公主は、
 大力王の名声をきいて、うまく相手にとり入り、
 とうとう愛情を一人占めしてしまいました。
 羅刹女はカッと頭にきてしまい、
 機会があったら玉面公主に
 一矢報いてやろうと待ちかまえているところです」
「よくある話じゃないか」
と八戒は手を叩いて笑いながら、
「しかし、兄貴、
 犬も食わぬ夫婦喧嘩にくちばしをつっこむのは、
 火中の栗を拾うよりも危険なことだぜ」
「お前はだまっておれ」
と悟空は八戒を怒鳴りつけて、
「で、どうすれば、
 芭蕉扇が手に入るとお前は考えているんだね?」
「もし大聖がうまく牛魔王を口説いて
 翠雲山まで連れてかえってやったら、
 羅刹女は恩に感じて、
 芭蕉扇を貸してくれるんじゃないかと思います。
 口では亭主のことを人でなしのように罵っていますが、
 女はいくつになっても亭主のことを
 忘れられないでいますからね」
「よしきた。で、積雷山というのはどこにあるんだ?」
「ここから真南に約三千里ほど行けば、そこが積雷山です」
「よし。じゃ俺がこれから一走りしてくるから、
 お前らはお師匠さまの面倒を見ていてくれ」

忽ち斗雲にのると、
悟空の姿は皆の前から消えてなくなった。

2001-02-14-WED

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