毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第二章 二人の三蔵

一 ここ掘れ、ワンワン


夜の花園を二つの影が動いて行く。
図体の大きい方は足音を忍ばせて抜き足さし足だが、
小さい方は跳んだりはねたり、
まるで自分の家の庭か公園でも歩いている風情だ。
「いい匂いがするな」
と小さい方が足をとめて、大きな息を吸いこんだ。
花園の中はバラの花や百合の香が入り乱れて、
人々を夢の世界へ誘い込まんばかりである。
「ヘッドの中にいるみたいだな」
と大きい方も思わずつりこまれて言った。
「この匂いをかぐと、むかしのことを思い出すよ」
「ヒヒヒ……」
と小さい方が白い歯を出して笑うのが見えた。
「見ろよ、この牡丹の花を!
 自然実は美しいというけれど、
 こんなみごとな牡丹は俺の花果山にも咲いておらんな」

じっと立ちどまったまま、
いつまでもその場を動こうとしないので、
大きい方がしびれをきらして言った。
「おい、兄貴。
 何をいつまでも感心しているんだ?
 早く仕事にかかろうじゃないか」
「そうそう。俺たちは泥棒に入ってきたんだったな」
「何を暢気なことを言っているんだ?
 いったい宝物はどこにあるんだ」
「こっちだ。こっちだ」

小さい方は芭蕉の葉の鳴る方へ向って歩き出した。
「宝物はこの芭蕉の樹の下だ。おい。仕事にかかれよ」
「この下だと?」
「そうだとも。ここ堀れ、ワンワン」

風に吹かれて芭焦の葉が動くと、
そこに八戒と悟空の影が映った。
「こんなところに宝物があるなんて、
 ちょっと信じられんな。
 カワラやセトカケ、ガラガラガラ……じゃないのかい」
「いいから掘ってみろよ」

言われて熊手をとりなおすと、
八戒は一生懸命、土を掘りかえした。
ものの四、五尺も掘っただろうか。
カチンと熊手がぶっつかる音がして、
急いで土をかきわけると、石の蓋があらわれた。
「やあ、やあ。本当らしいぞ」

力任せに蓋をあけると、中で何やら光るものがある。
近づいてよくよく見ると、
それは井戸の水に反射している星明りであった。
「なあんだ。井戸じゃないか」
「そうだよ」
「兄貴は物の順序を知らねえな」
「そいつはまたどういうわけだ?」
「宝物が井戸の中にあるならあると、
 来る前に一言いってくれれば、縄を用意してきたんだが、
 これじゃ中へ入りようがないじゃないか」
「じゃ縄があれば、お前、中へ入るか?」
「バアの入口まで来て、
 酒を飲まねえで帰るというわけには行かんじゃないか」
「それならお前、着ているものを脱げよ」
「この上着を脱げばたくさんだろう。
 どうせ脱がにゃならんほど上等な服なんぞ
 着ちゃいねえからな」
「ょし。じゃこうしよう」

悟空は耳の中から如意棒をとり出すと、
両方の端をかるくさすって、
「長くなれよ」
と言った。
棒は見る見るのびて、およそ七、八丈ほどの長さになった。
「お前、この端につかまれば、いいだろう」
「そいつはいいが、水にとどいたら、
 そのままにしておいてくれよ」
「わかっているよ」

悟空が棒を井戸の中へ入れると、
八戒は棒をつたわって、スルスルと底の方へおりて行った。
「水にとどいたよ」

下から声がした途端に倍空は鉄棒を動かしたから、
はずみをくらった八戒は
音を立てて水の中へおちこんでしまった。
「俺を殺すつもりか。
 水にとどいても棒を動かしちゃいかんと
 あれほど言ったじゃないか」
「ハハハハ……」
と笑いながら悟空は如意棒をひきあげてしまうと、
「宝物はあったかい?」
「どこに宝物があるものか。あるのは水ばかりだ」
「宝物は水の底にあるよ。中へもぐってさぐって見ろ」

今でこそ頭を丸めて坊主になっているが、
もとは水師大提督をつとめたことのある猪八戒である。
水音を立てて井戸の中にもぐり込んだのはいいが、
大したことはあるまいと思った水の中は予想外に深く、
行けども行けども底へとどかない。
おかしいなと思い思い、なおも先に進むと、
突然、目の前に一軒の楼閣が映ってきた。
見ると、「水晶宮」とかすんだ字が水の中に浮んでいる。
「いけねえ。こりゃ道をまちがえてしまったらしいぞ」
八戒が戸惑っていると、
それを見つけた水中の夜叉が
早くも井戸竜王のところへ報告に行っていた。
「きっと天蓬元帥に違いない」
と竜王は内心驚きながら、
「昨夜、夜遊神が烏鶏国王の魂を借りて
 唐の妨さんに会わせに行った筈だからな。
 皆の者、粗末に扱うんじゃないぞ」

竜王は衣裳をととのえると、
ただちに水晶宮の門前に八戒を迎えに出た。
「これは、これは。天蓬元帥」

むかしの名前を呼ばれて、八戒はちょっと意外であった。
でもいささか得意でないこともなかった。
「世の中は広いようで狭いものですな。
 こんなところで旧知に出会うとは思いもかけなかったよ」

そのくせ、お互いに会うのは、はじめての間柄であった。
「元帥は、きくところによると、
 最近は出家されたそうでございますが、
 今日はまた何用で
 私どもへおいで下さったのでございますか?」
と竜王はきいた。
「そのことですがね。
 実は私の兄弟子の孫悟空に拝み倒されて、
 ここへ宝物をちょうだいに来たのですよ」
「へえッ」
と竜王はおったまげて、
「お気の毒ですが、そいつはお門適いじゃありませんか。
 ご覧の通り、竜王は同じ竜王でも、ここは幾千万年、
 四囲を陸に挟まれ、文字通り井戸の娃ですからね、
 河や海の竜王たちとスケールがまるで違いますよ」
「そんなに謙遜しなくてもいいじゃないですか。
 ないものをくれといっているわけじゃないのですから」
「それじゃひとつごらんになっていただきましょうか」
「もって来て見せていただくわけには行かんのですか?」
「持ってくるよりも、
 ご自分で見ていただく方がよろしいですね」

竜王は自ら先頭に立つと、
八戒を案内して一つの部屋へ人った。
見ると、そこには天冠を頭にいただき、
黄袍を身につけた一人の男が静かに横たわっている。
「これは今から三年ほど前に、
 私どもの手に入ったものでございます」
「こんなもの!」
と八戒は口をとがらせながら、
「珍しくもどうもないじゃありませんか。
 私が福陵山で山賊をしていた頃には
 しばしば腹の足しにしていたものですよ。
 ほかに何か目ぼしいものはありませんか?」
「ご存じないと見えますわ」
と竜王は思わす二ッコリ笑った。
「これは烏鶏国の国王の死骸なんですよ」
「国王だろうが、皇太后だろぅが、
 死ねば乞食と区別はありませんや」
「しかし、ふつうの人間が三年前に死んだのなら、
 このままの形でここにねておられるわけは
 ないじゃありませんか?」
「なるほどそういえばそうだ」
と八戒は改めて死体の顔を覗きこんだ。
「こいつは、ミイラにでもなっているのかね?」
「いや、私が定顔珠を使って
 原形を保つようにしてあげたのです。
 あなたがもしこの方を連れてお行きになって、
 うまく生きかえらせることが出来たら、
 どんなものだってお望みのものが
 手に入るではございませんか?」
「それもそうだ。
 しかし、死んだ人間を生きかえらせることは
 俺には出来ん」
「あなたにお出来にならなくても、
 あなたの兄弟分の悟空さんならきっと出来ますよ」
「そんなアテにならないことをアテにするよりも、
 この死体を担いで担いでいくから、
 いくらかでも担ぎ賃を出したらどうだね?」
「生憎と金はないんですよ」
「それならご免だ。
 大体、あんたもうちの師匠のデンで、
 人をただ使おうという魂胆なんだからね」
「おききとどけいただけないのなら仕方ありません」
「悪いけれど、勘弁してもらうよ」

そう言って八戒が出て行くと、竜王はあとを追う代りに、
二人の夜叉に命じて死体を水晶宮のそとへ運び出させた。

水の音がするので、
何ごとかと思って八戒がうしろをふりかえると、
さっき出て来た筈の水晶宮は消え去って、
すぐそばに国王の死体がころがっている。
「ひゃッ」

八戒は足のすくむ思いで、水をかきわけると、
井戸の中から顔を出して、
「助けてくれ」
と大きな声を張りあげた。

2000-12-14-THU

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