毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第六章 金銀魔多し

四 商業ベースで

悟空は手を伸ばして尻の毛を一本抜くと、
口の中でもぐもぐと何やらつぶやいた。
と、長さ一尺七寸ほどもあるピカピカした
ひょうたんが腰の中から出て来た。
「どうだ、いいひょうたんだろう」

手渡された伶俐虫はあちらこちらひっくりかえしていたが、
「なるほど大きなひょうたんですが、
 恰好がいいというだけで、何の役にも立ちませんね」
「どうして役に立たない?」
「私らの兵器はこんなに小さく見えても、
 一つに千人ずつ人間を容れることが出来るのですよ」
「アッハハハ……」
と悟空は声を立てて笑った。
「あんたらは考えることも小さければ、言うことも小さい。
 東京湾を三分の二埋め立てて
 もう五百万人の人口を収容するとか、
 瀬戸内海を埋め立てて三つの島を−つにつなぐとか、
 全く小せえ、小せえ。
 私のこのひょうたんは人間どころか、
 あの涯知らぬ天さえもごっそり中へ容れてしまうんだぜ」
「冗談も休み休みに言って下さいよ。
 いくら蓬莱山の仙人さまでも、
 実際にこの目で天を容れるのを見るまでは
 とても信じられませんね」
「そりや滅多に天を容れるようなことはしない。
 天が私を怒らせた時は、腹の虫の居所によっては、
 月に七、八回くらいは容れることがあるが、
 怒らせない時は半年に一度も容れないことだってある!」
「おい、兄貴」
と伶俐虫は精細鬼の方をふりむいてささやいた。
「本当に天を容れる武器なら、
 俺たちのと交換しようじゃないか」
「天を容れる器と人を容れる器と
 交換してくれる筈がないよ」
と精細鬼は言った。
「いやだと言えば、
 この玉浄瓶を一緒にそえてやればいいだろう」

しめたぞ、と悟空は思わず舌なめずりをした。
「もし、あなたのひょうたんが
 天を容れることが出来るなら、
 私たちのと交換してくれますか?」
と伶俐虫が言った。
「どれと交換するんだね?」
「あの紅葫蘆とですよ」
「天と人とを交換するのかね。そいつは割が合わないね」
「じゃ私の持っているのもおまけにあげますよ。
 二つと一つでは、あなただって損はないでしょう?」
「しかしね」
と悟空はすぐには承知しなかった。
「二つに一つですぜ」
「まあ、そりゃそうだがね。
 あんたら、それを本気で言っているのかね?」
「もしあなたが天を容れて見せてくれたら、
 もちろん、交換しますよ」
「もし約束を破ったらどうする?」
「焼こうと煮ようとあなたの勝手です」
と二人してしきりにせがむので、悟空は不本意そうに、
「それじゃ、まあ、天を容れて見せるとしようか」

悟空は呪文をとなえるとひそかに、
日遊神をそばへよびつけた。
「お前らこれからすぐに玉皇上帝のところへ行って、
 俺に協力してくれと頼んで来てくれ。
 ほんの三十分ほどでいいんだ。
 もし嫌だと言ったら、
 悟空がお礼参りに参上するとスゴんでいた、
 というんだぞ」

日遊神は南天門を入ると、霊霄殿下に参上して、
悟空の願いの旨を上奏した。
「バカ猿め」
と玉帝は半ばあきれかえりながら言った。
「いくら善を行ぅからといって、
 そんなでたらめなことを人に頼む奴があるか。
 だいいちどうやって天を容れてしまぅんだ?」
「恐れながら陛下に申し上げます」
と群臣の中から咤太子が進み出て言った。
「天を容れる方法はあるかと存じます」
「どういう方法かね?」
「元来、天地開闢以来、清きものは昇って天となり、
 濁れるものは沈んで地となり、
 清濁は遂に相容れないのが天地宇宙の法則でございます。
 だから理窟から申せば、
 地が天を容れる道理はございませんが、
 しかし、清きものがしばらくその光をかくせば、
 世の中は真暗になって、
 天と地の区別もつかなくなるでしょう。
 ちょうど、金持を皆なくなしてしまえば、
 貧富を比較する対象を失って
 貧乏という概念が失われるようなものでございます」
「それにはどうすればいい?」
「北天門の真武から早雕旗を借りてきて、
 南天門で一ふりふって、
 星という星に扉をしめさせてしまうのでございます。
 そうすれば、白と黒の見分けもつかなくなりますから、
 しばしの間、
 下界から天は失われてしまうでございましょう」
「なるほど。ではお前にそれを任せよう」

咤太子は命令を受けると、
早速、北天門から旗を借りて来て、南天門外に出て来た。
日遊神からそのことを耳打ちされた悟空は、
「では天を容れて見せよう」

そう言って、手に持っていた大びょうたんを、
「えいッ」
とばかりに空高く投げあげた。
もともと一本の毛にすぎないのだから、
鴻毛よりもまだ軽い。
飄々と風に吹かれて
見る見るうちにいずこへともなく消え去って行った。

と、天では咤太子が勢いよく旗をふりはじめ、
星という星は急いで扉をしめ出したので、
一天俄かにかきくもり、
物のあやめもつかないようになってきた。
「やあやあ。
 さっきまでお天道さまが頭のてっペんにあったのに、
 これはまるで夕暮れのようじゃないか」
と二人の小妖怪はびっくり仰天して叫んだ。
「天をしまい込んでしまえば、時間が失われるから、
 昼と夜の区別がつかなくなるのは当り前だよ」
「しかし、昼と夜の区別がつかなければ、
 どうしてこんなに暗くなるんだろう」
「太陽も月も星も
 みんなひょうたんの中へ入ってしまったんだもの、
 暗くならないわけがないじゃないか」
「一体、あなたはどこにおいでになるのですか?」
「あんたらの目の前だよ」
「ちっとも見えやしない」
と小妖怪は手であたりをさぐりながら
「声はきこえるが、何ひとつ見えやしない。
 一体、ここはどこでございます?」
「動いちゃ駄目だ」
と悟空は低い、しずまりかえった声で言った。
「ここは渤海の岸辺で、うっかり足を踏みはずしたら、
 七、八日かかってもまだ海の底へとどかないぞ」
「よして下さい。もう沢山です」
と小妖怪は叫んだ。
「もうわかりましたから、天を放してやって下さい。
 うっから海へおちこんだりしたら、
 家へ帰れなくなります」

必死になって頼むので、悟空が呪文を唱えると、
咤太子は急いで旗をまきはじめた。
しばらくすると、再び日が射しはじめたので、
小妖怪たちは笑顔に戻って、
「全く素晴らしい宝物だ。
 一生に一度くらいこんな取引をやらなけりゃ、
 俺たちはおふくろの腹を痛めつけて
 生れてきた甲斐がないぞ」

そう言って、二人は紅葫蘆と玉浄瓶を出して、
悟空の大びょうたんと交換した。
すると、悟空は臍の下からもう一本毛を抜いて、
今度は一文銭を一つ出して、
「さあ、これで紙を買って来てくれ」
「紙をどうするんです?」
「契約書を書くんだ。
 商取引というものはお互い合意の上でやるものだが、
 契約書を書いておかないと、
 とかく、あとでもめごとがあるからね」
「この近所には筆や墨さえ売っていませんよ。
 大体、紙に書いたものが何の役に立ちます?
 商売は信義が大切で、
 私たちの間では口で言ったことがそのまま契約書ですよ」
「じゃ誓いを立てますか?」
「ぁあ、いいですとも。
 もし私たちがあとでツベコベ言ったら、
 コレラにかかって死んでもいい」
「よし、俺もペストにかかって死んでもいい」
そう言ったかと思うと、
道士の姿はあッという間に見えなくなっていた。

2000-12-03-SUN

BACK
戻る