毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第六章 金銀魔多し

二 歴史は繰りかえすか

一方、三蔵法師は待てども待てども、
八戒が戻って来ない。
目はしきりにまばたきを打つし、
耳たぶは熱を帯びてくる。
「悟空や」
と三蔵は不安をかくしきれなくなって思わず言った。
「きっと八戒に何かあったのだよ。
 でなけりゃこんなに遅くなっても
 まだ帰って来ない筈がない」
「なあに」
と悟空はニヤリと笑いながら、
「お師匠さまはまだ奴の心理を
 研究しつくしていないと見えますね」
「奴の心理ってどういうことだね?」
「もしこの山に化け物が出るようだったら、
 八戒は半歩だって前に進みやしませんよ。
 きっと息せききってとんでかえってきます。
 そうしないところを見ると、
 平穏無事にトットコトットコ歩いているのでしょう」
「としたら大へんだ」
と三蔵はまた心配になって言った。
「町なかならすぐ探し出せるが、
 こんな山の中でお互いにはぐれてしまったら、
 なかなかめぐりあえないかも知れないよ」
「心配することはありません。
 我々もそろそろ出発することにしましょう」

悟空は三蔵を馬に乗せると、自ら手綱をとり、
沙悟浄には荷物を担がせて、
山道をかきわけてすすみ出した。
「やあ、向うからやって来るのは三蔵らしいぞ」
と銀角が叫んだ。
銀角は八戒を裏の池に投げ込むと、
今度は五十人の小妖怪をひきつれて出てきたのである。
「どこにいますか?」
「どこどこ?」
「お前らには見えないだろうが」
と銀角は天を指ざしながら言った。
「あの上に瑞雲が静かに動いている。
 金蝉長老の瑞雲が人と共に動いているのだ」

途端に三蔵はクシャミを一つした。
銀角がもう一度指さすと、
三蔵はまたしてもクシャミをした。
続けて三度指さすと、続けて三度クシャミをする。
「これはどうしたんだろう?」
「お風邪かも知れませんよ」
と沙悟浄は言った。
「お師匠さまにいま病気されると大へんだ。
 もう一枚服を出しましょうか」
「なあに。カゼはカゼでもこれは臆病カゼという奴だよ」
と悟空はとりあわない。
「お師匠さまはまだお化けに会わない前から、
 もうお化けに会ったつもりになっているのだろう」

悟空は耳の中から如意棒をとり出すと、
馬前に立って、上へ三回、下へ四回、
右へ左へとふりまわし、
「さあ、この通りですから、ご心配は要りませんよ」

いや、
驚いたのは山の上から悟空の武術を眺めていた銀角である。
「ウムム……。話にはきいていたが、噂に嘘はないものだ」
「大王」
と部下の小妖怪は戦々兢々としながら、
「戦わない中から敵を賞めあげては、
 戦意を失ってしまうだけではございませんか」
「いや、孫行者は強い。
 三蔵法師を料理することはとても出来ない」
「それなら、金角大王に報告して参りましょう。
 洞中の総勢を狩り出して皆で力を合わせれば、
 よもや逃げられるようなことはありますまい」
「いやいや、お前らにあの鉄棒が見えないか。
 我々は総勢合わせても高々四、五百人、
 とてもあの鉄棒に太刀打ちは出来ん」
「じゃ、猪八戒をかえしてやりましょうかい」
「いやいや」
と銀角はもう一度首をふった。
「一旦、つかまえたものをただかえしてやるくらいなら、
 今日限り化け物業は廃業だ。
 三蔵法師だって結果においては、我々の口中のものだが、
  ただそれには作戦が必要だ」
「どういう作戦でございますか?」
「お前らは兵を連れて洞へ戻れ。
 しかし、俺がいま言ったことを口外してはならぬ。
 でないと折角の計略が
 水の泡になってしまわないとも限らんからな」

銀角は部下をかえしてしまうと、ひとり山をおり、
揺身一変、忽ち年をとった道士に化けた。
見ると、道士は道端で足をくじいたと見え、
気息奄々として、
「助けてくれ! 助けてくれ!」
と叫びつづけている。
「おや。こんな山中で人の声がきこえるよ」
と真先に気づいた三蔵が言った。
「あの調子では虎や狼にでも追いかけられて、
 崖の下へでも転がりおちたんじゃないかしら」

それから馬を声のする方へ向けると、
「そこにいるのは誰ですか?」
と大きな声で叫んだ。
と、草叢の中から老道士が
足をひきずりながら姿を現わした。
老人の足からは血がしたたりおちている。
「これは、これは。一体、どうなされたのです?」
と三蔵は驚いてきいた。
「私はあの山の向うに住む道士です。
 南の方の檀家に頼まれて線香をあげに行った帰りに
 日が暮れてしまい、虎には襲われるし、
 弟子は食われてしまうし、
 ようやく一命はとりとめたものの、
 私はあわてて石にぷっつかって、
 この通り、ああ、イタタタタ……」
と銀角の道士は自分の腰をさすりながら、
「どうか私をこのままおきざりにしないで下さい。
 ご慈悲です」

一見して、化け物であることが悟空にはわかった。
しかし、助けるなと言えは、またお師匠さまに叱られるし、
いきなり殴りつければ、
この前の白骨夫人のようにまた無辜の命を奪ったといって
再度の破門を受けないとも限らない。
善意だけが売り物で、本物と偽物の区別がつかないのも
困ったものだと思いながらも、
悟空は二人のやりとりを黙って見ていた。
「私があなたを見殺しにするようなことはありませんよ」
と三蔵はしきりに親切をふりまいている。
「そりゃ私は仏家で、あなたは道家、
 お互いに宗派が違うけれども、
 だからといってふだんの恨みをここで晴らしたら、
 私は出家の名に恥じるでしょう」
「あなたは本当に立派な人です。
 あなたのような人にあって、私も命拾いをしました」
「お怪我はどうなんです? 歩くことが出来ますか?」
「歩くどころか、
 ごらんのように立つことさえも出来ません」
「それはそれは、
 じゃ仕方がないから私の馬にお乗り下さい」
「どうも有難う存じます。
 ですが、私は腿のところをくじいて、
 馬にはとても乗れそうもありません」
「それは困ったな」
と三蔵は沙悟浄の方をふりかえって、
「じゃすまないが、お前のその荷物を馬にのせて、
 代りにこのお爺さんをおんぷしてやってくれぬか」
「ハイ」
と沙倍浄が快く承知すると、
道士は悟浄の方をふりかえって、
「ひゃッ」
ともう一度腰をぬかした。
「とてもとても、こんな怖ろしい人では駄目です。
 こんな人におんぶされるくらいなら、
 ここへほったらかしにされた方がまだましです」
「おや、人に助けてもらうというのに
 なかなか贅沢なご老人だね」
 と三蔵は苦笑しながら、
「じゃ悟空、お前がおんぷしてやってくれるか?」
「よろしゅうござんす。私がおんぷしましょう」

二つ返事で悟空は承知した。
化け物がおとなしくおんぶされると倍空ほ口の中で、
「この野郎、
 俺がお前の正体を知らないと思っているのか。
 お前の奸計じゃ
 三蔵法師のような世間知らずを瞞すことは
 出来るかも知れんが、
 この悟空には通用しないぞ」
「あれッ」
と老道士はわざと三蔵にきこえるような大きな声で言った。
「私だってなるべくなら
 あなたに迷惑をかけたくはないと思っているのですよ。
 あの時、いっそのこと虎に食われてしまえは、
 こうしてあなたに
 嫌な思いをさせないですんだのだけれどね」
「悟空や、人の生命を助けるのは
 世の中で一番貴いことだよ」
と三蔵がききとがめて言った。
「どうせ人を助けるからには
 快くおんぶしてあげたらどうだね」
「やれやれ」
と悟空は思った。
「うちの師匠ときたらいつもこれだから嫌になる。
 人を助け世を救うのはいつも三蔵法師で、
 三蔵法師の名声はいよいよ高くなるが、
 俺たちこそいい面の皮だ。
 おい。お前をおんぶしてやるのはいいが、
 大便のたれ流しはご免だぜ」
「そのくらいのことはわかっていますよ」

一行は再び歩き出したが、悟空はおくれがちだった。
いや、わざと一行から遅れるように歩いたのである。

悟空は機会があれば化け物をふりおとしてやろうと
窺っていたし、化け物は何とかして
悟空をおさえつけようとしていた。

三蔵と沙悟浄の姿が見えなくなると、
悟空は殊更、親切そうに、
「お爺さんや。あんたは今年いくつだね?」
「八十五になるよ」
「ほう、もうそんなになるかね」
「そろそろくたばってもいい年だ
 ──とあんたは思っているんだろうね」
と化け物は背中から言った。

──こいつ、ちゃんと知ってやがる、と悟空は舌打ちした。
うちの師匠と来たら、全くいい年をして、
もう少し分別があってもよさそうなものだ。
遠出をする時は持っている荷物だって
捨てて行きたいと思うのに、
こんな厄介者まで俺に背負い込ませるなんて。
「だけど、あたしはまだまだ死ぬ気はないよ」
と道士はあたかも悟空の腹の中を
見すかしているかのようにすかさず言った。
「これから大いに長生きして、
 世の中がどんなに変って行くか
 この目で見たいと思っているのでね」
「世の中は一向に変らないさ」
と悟空は言った。
「星移り月変っても、人間は相変らず強慾だし、
 化け物は相変らずのさばっている。
 俺はこの目で見てきたが、
 歴史は同じことの繰りかえしさ」
「そりゃそうだろう。
 山に押えられて身動きの出来なかった奴は、
 とんだりはねたりしているうちに、
 また山の下敷きになってしまうものだからな」
「何だと?」

途端に山が一つ悟空の左の肩の上にのしかかってきた。
銀角が「移山倒海」の術を使って、
須弥山を悟空の左肩の上にのせたのである。
「こらこら。ふざけた真似をするな」
と悟空は笑いながら言った。
「そのくらいのことでこの俺を押しつぷせると
 思っているのか。右と左の平均がとれなくて
 ちょっと歩きにくいだけのことだ」

びっくりした銀角はあわてて呪文をとなえると、
今度は峨眉山を呼んで来て悟空の右の肩を押えつけた。
だが、それでも悟空はまだ歩き続けている。
「驚いた野郎だ。どうだ。これでもか」
と化け物は名に負う泰山を動かして、
今度は悟空の頭の上にのせたのである。
「ウムム……」
とさすがの悟空も目を白黒させて、
そのままその場に動かなくなってしまった。
「アッハハハ。なるほど歴史は繰りかえすわい。
 もう五百年間、そこでじっとしておるがいい」

銀角は一陣の風に乗ると、すぐ三蔵のあとを追った。
怪しげな風の音をきいた沙悟浄が
ひょいとうしろをふりむくと、
今しも妖怪が手を出して三蔵の襟首を
つかもりとしているところである。
「無礼者奴!」

沙悟浄が宝杖をふりあげるのと、
銀角が七星剣をぬくのと殆んど同時だった。
だが、銀角と悟浄では腕前があまりに違いすぎる。
二、三回打ち合わせるうちに悟浄の宝杖は打ちおとされ、
銀角は右手に三蔵、左脇に悟浄を抱え、
足に白馬と荷物をひっかけると、
須臾にして蓮花洞へとひきあげてきたのである。

2000-11-30-THU

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