毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第三章 八戒の幹事長ぶり

一 話題の人

「それで、お前はどうしたいというのだ?」
と妖魔はきいた。
「だからよ」
と王女は妖魔の胸に自分の頭をもたれかけたまま、
ささやいた。
「あなたが今でも私のことを好いていらっしゃるかしら
 ときいているのよ」
「今更、そんなこと、水臭いじゃないか」
「それじゃあなた、あの和尚さんを見逃がして下さる?」

いきなりはね起きると、
王女はまのあたり妖魔の顔を見つめた。
あんまり見つめられて、妖魔は目のやりどころに困り、
「お前はまだ俺の愛情を疑っていると見えるな。
 お前のいうことなら、
 俺が何でもウンウンということを知っているくせに」
「でもあなたはあの人を食べたい
 と思っているのでしょう?」
「痩せても枯れても
 食い扶持に不自由するような俺ではないさ。
 通行人は何もあの坊主ひとりじゃあるまいし」
「じゃあの和尚さんを放しちゃってもいいのね?
 裏門から出してしまいますわよ」
「裏門だろうが、表門だろうが、勝手にさせるがいい」
「嬉しいわ。あなたって悪党に似合わない
 やさしいところがあるのねえ」

恋女房にそう言われると、
黄袍怪はすっかり上機嫌になった。
そこで更に太っ腹なところを見せようとして、
大刀をおさめると、
「お−い。猪八戒!」
と声を大にして叫んだ。
「よくきくがいい。
 俺はお前たちを怖れているわけじゃないが、
 もう戦争はやめだ。
 あの通り女房が頼むから、
 お前たちの師匠を返してやるが、
 もう一度、俺の縄張りへ入ってきて見ろ。
 ただじゃおかねえぞ」

歯が立ちかねてびくびくしていた矢先だから、
猪八戒も沙悟浄も地獄の門から放されたように
ホッと胸を撫でおろした。
「お師匠さまを返してくれるって、どこにいるんだろう」
「きっと裏門から出てくるよ。
 つまみ出された猫みたいにさ」

二人があわてて荷物を担ぎ、
馬をひいて、波月洞の裏手へまわると、
はたして三蔵法師が草叢の中にうずくまっていた。
「どうしたんです、お師匠さま」

悟浄が言葉をかけると、
「心は急げども、足は動かずだよ」
「怪我はございませんでしたか?」
「いや、別に怪我はしておらない」

二人の姿を見ると、
三蔵法師は草叢の中から這い出してきた。
「やれやれ、世話のやけるお師匠さまだ。
 迷児札でもつけておかないことには
 どこへ迷い込んで行くかわからないな」

そう言いながらも、八戒は三蔵を馬上にのせると、
先頭に立って松林の外へ出た。

三人はそれから日が暮れれば宿をかり、
鶏が鳴けば宿を発ち、旅を続けているうちに
いつしか二百九十九里の道程をすぎて、
とある賑やかな城下町へ近づいた。
「見ろよ。立派な建物が一杯並んでいる。
 あれがきっと宝象国に違いない」

悟浄がいうと、
「都会の空気を吸うのは久しぷりだな」
と八戒はクソクソと鼻をならしながら、
「空気がきたないの、風紀が悪いの、というが、
 俺はやっばり都会がいいなあ。
 こういうところへ来ると
 生きているという実感が出てくるよ」

道の両側には田圃や畑があり、
河では太公望が釣糸を垂れている。
そこをすぎて橋を渡ると、家は次第に多くなって、
やがて車や馬の往来の激しい城下へと続いていた。

一行は駅舎に落着いた。
「ちょっと私は国王のところへ挨拶に行ってくるから、
 お前たちはここで待っていておくれ」

そう言って三蔵はただひとり宮殿へ出かけて行った。
「長安大唐国の僧が
 お目通りさせていただきたいと思って参りました。
 ご上奏願えますまいか」

三蔵が侍従長に伝えると、
侍従長はすぐ国王のところへ報告に入った。
国王はかねてから大唐国のことをきいていたので、
早速、三蔵を殿中へお通しするようにとのご命令である。

侍従長に附き添われて、三蔵は階段をのぼり、
文武百官の居並ぶ殿中へと進み出た。
拝朝の礼が終ると、
「時に長老は
 何のご用事で我が国へおいでになったのですか?」
と国王がきいた。
「ハイ。私は我が国の天子の勅旨を受けて
 西方へお経をとりに参る者でございます。
 天子の親筆の旅券を持参しておりますので、
 陛下のところへご挨拶に参上するのが筋道かと考え、
 礼をわきまえずお伺い申しあげました」
「唐王の親書をお持ちなら、見せていただけますか?」
三蔵が両手に恭しく捧げ出すと、
国王はそれを手にとって机の上にひろげた。
見ると、それには大唐国の国王が
迷える民心や孤魂を救うために
特に玄奘法師を西方へ通わす故、
通過諸国の国王は然るべく保護を加え
便宜を与えていただきたいと書かれてあり、
その上に大小各種の印章が九ツも押してある。

それを見ると、国王も自国の印章をとり出して、
空欄におした。
「有難う存じました」

三蔵は鄭重にお礼を述べて旅券をしまうと、
「実はもう一つ、陛下あてのお手紙を
 ことづかって参っておるのでございますが……」
「ほう。どんな手紙かね?」
「陛下の第三王女百花羞殿下からのお手紙でございます」
「なに、百花羞からだと?」
と国王は思わず膝を乗り出した。

三蔵が袖の中からことづかった手紙をとり出すと、
国王は表書きの「平安」という字を見ただけで
俄かに手がふるえ、目からハラハラと涙をおとした。
「大学士を呼んでくれ」

翰林院大学士が参上すると、国王はふるえる手で
王女からの手紙を渡して読みあげるようにと命じた。
「父王陛下、母后陛下。
 十三年前の八月十五日の夜のことを
 まだ覚えておいででございましょうか」

大学士が読みはじめると、居並ぷ文武百官も
国王のうしろに控える后妃官女も一瞬シュンとなった。
「あの月見の宴の最中に
 突然一陣の風が吹いてきたかと思うと、
 私は赤毛赤鬚の魔王にさらわれて、
 山の中へつれて行かれてしまったのです。
 あれから十三年、私は無理やり妖魔の妻にされ、
 二人の子供の母になってしまいました。
 今更父上や母上に会わせる顔もありませんが、
 幸か不幸か、唐の僧侶が魔王につかまったので、
 私がこっそり逃がしてやり、
 ついでにこの手紙をことづけたのでございます。
 もし幸いにしてこの手紙がお手元に届きましたら、
 どうか碗子山に兵を出して、
 波月洞から私を救い出して下さい。
 急いでしたためましたので意を尽しませんが、
 どうかどうかお願い致します。逆女百花羞頓首」

大学士が読み終ると、国王は声をあげて泣き出した。
周囲にいた人々も一人として貰い泣きをしないものはない。

しばらくして落着きをとりもどすと、国王は言った。
「誰か兵を率いて
 妖魔を退治に行ってくれる者はおらぬか?」

しかし、一人として「私が」と名乗り出る剛の者はいない。
国王は怒り心頭に発して、
「これだけ沢山の者がいるのに揃いも揃ったど土偶の坊か。
 いや、月給泥棒か」
「陛下。どうかお腹をお立てになりませぬよう」
と群臣は口を揃えて言った。
「王女さまが失踪なされてから既に十三年。
 十年もたてば、
 もう終戦後という言葉もピンと来なくなるものです。
 それが今になって突然唐僧が消息をもたらしたからとて、
 本当かどうかわかりません。
 あの当時、百万元の懸賞金をつけて探しても
 遂に見つからなかったことではございませんか?」
「しかし、これは娘の筆跡だ。
 お前たちは妖魔ときいて尻込みをしているのだろう。
 一旦緩急あれば義勇公に奉ずるのが
 国民の義務であるにも拘わらず、
 これでは何のために十万からの軍隊を養っているのか
 わからないではないか」
「いいえ、陛下。
 あれは軍隊ではなくて自衛隊でございます。
 なるほど私どもは兵書や軍略の勉強をしておりますが、
 それはあくまでも国家の治安を維持するためであって、
 外国へ出兵することは平和憲法違反でございます。
 いまここで出兵を強行すれば、
 必ずや議会で騒がれましょう」
「しかし、国辱を受けて、それに甘んずるのは
 独立国家としての体面にかかわるではないか」
「ですから、こうなされては如何でございますか。
 この三蔵法師とやらいう和尚さんは、
 きくところによると大へん徳の高いお方で、
 ふだんから道は竜虎をも伏せしめ、
 徳は鬼神をも改心させると
 主張なさっておいでだそうでございます。
 道徳万能を唱えられているからには、
 きっと妖魔を平和的手段で説き伏せる能力を
 お持ちになっているに相違ありません。
 むかしから言い出しっペが責任を持つものだ、
 と申します」

それをきくと、国王は三蔵法師の方へ向きなおって、
「家来たちも申しますように、
 ひとつ長老のお力をかしていただけませんか。
 もし妖魔をとらえて私の娘を救い出すことが出来たら、
 ここで私どもと一緒にお暮しになって下さい。
 私ほどの権勢と富があれば、
 何も苦労して西方まで行くことはありませんよ」

2000-11-19-SUN

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