毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第一章 まあまあ、丸く

三 山中の美人

化け物の世界はまことに義理堅いもので、
約束によって、悟空と鎮元大仙は義兄弟の契りを結んだ。
翌日になると、三蔵法師は早速にも出発したかったが、
今は親戚づきあいになった鎮元大仙が
なかなか離してくれない。
もう一日、あと一日が一週間になると、
さすがの三蔵もじっとしておられなくなり、
遂に大仙にいとまを告げると、
一行と共に五荘観をあとにした。

五荘観で人蔘果をご馳走になったので、
三蔵は何となく気分爽快である。
本当に四万七千年長生きするのかと思うと、
小事にこだわらなくなった。
ただ如何せん、人蔘果を食べると、
ほかに何も食べないでよいのではなく、
却って健康増進してしきりに腹がへるのである。
人里離れた山中を歩いている時など腹がペコペコになって、
もうこれ以上一歩も進む気がしなくなってしまうのである。

この日も、ちょうど、
峻しい高山にさしかかったところあった。
以前なら山の高さを仰ぎ、
野獣の遠吠えをきいただけで、もう食欲どころか、
身体中がガタガタふるえる三蔵法師である。
今日はその上に腹の虫が鳴り出して、
どうにもおさまりがつかなくなった。
「悟空や。
 どこかへ行って食べ物をもらって来てくれぬかね?」

三蔵が頼むようにいうと、悟空は笑いながら、
「お師匠さまもどうかしているぞ。
 こんな山の中じゃ銭があっても、
 物も買いに行くところがないじゃありませんか」

三蔵は思わずムッとして、
「お前は両界山の石牢の中にいた時の方が
 よかったと見えるな。
 少しやさしくすると、すぐいい気になりやがって」
「ちっともいい気になんかなっていないですよ」
と悟空は答えた。
「この通りお師匠さまには
 忠勤を励んでいるじゃありませんか」
「それならば、おつかいに行ってくれたらどうだ?
 雷音寺どころかこのスキ腹では
 この山を越えることだって出来そうもない」
「腹がへってもヒモジュウないというのが美穂なのになあ。
 お師匠さまはまだ修養が足りないよ」
「つべこべいうな。
 あれはサムライの美穂で、私は坊主なんだからね」
「坊主丸儲けですか」

三蔵が眉毛を釣りあげたので、悟空はびっくりして、
「私がいうことをきかなければ、
 お師匠さまが呪文を唱えるだろうぐらいのことは
 ちゃんと計算に入っていますよ。まあ、待って下さい」

悟空は中空へとびあがると、手をあげて四方を見わたした。
しかし、見はるかす西の方は目の届く限り
茫摸たる山また山で、どこにも人家らしいものは見えない。
南の方はと見ると、陽のよくあたっているあたりに
点々と紅く輝いているものがある。
「お師匠さま。食い物がありそうです」

下へおりると悟空が言った。
「どんな食い物だね」
「南の方の山に光っているのはきっと山桃だと思います。
 少しとって参りましょうか?」
「そうか。そいつは有難いな」
悟空は托鉢の盆を手にもつと、忽ち斗雲上の人となった。

さて、むかしから
「山高ければ怪有り、嶺峻しければ精を生ず」
といわれている。
むかしの人は嘘は言わないもので、
その例にもれずこの高山にも、一人の妖精が巣食っていた。
悟空のとび立つ音に驚いて妖精が洞窟を出て見ると、
山の窪みに三蔵法師が坐っている。
「さてさて、あれは噂にきいた唐の坊主に違いない。
 あいつの肉を食ったら、長生きするといっていたが、
 いいところへ鴨がやって来たものだ」

だが、よく見ると、その右と左に二人の弟子が控えている。
猪八戒と沙悟浄は大して腕前のいい男ではないが、
むかしはとにかく、
天界にその名を知られた天蓬元帥と捲簾大将だ。
「まてまて。ひとつ小手しらべをしてからにしよう」

妖精は揺身一変、忽ち花も羞らう美女に化けて、
しずしずと山をおりて来た。
「おや」
と三蔵法師が真先に気づいて叫んだ。
「さっき悟空は山の中に人がいないと言っていたが、
 あすこから人が歩いて来るではないか」

見ると、一人の美女が左の手に青い鉢を一つ、
右の手に録色の壷を提げて歩いてくる。
「お師匠さま。私が行って様子を見て来ましょう」

八戒は熊手を投げ出すと、
伊達男のような乙にすました歩き方をしながら、
女の方へ近づいて行った。

遠くから見た時は気がつかなかったが、
近くによって見ると、
水肌玉骨という形容詞がぴったりとしたスマートな体格、
しかも襟があいたあたりから、
露わに胸のふくらみがのぞいている。

それを見た途端に八戒は
戒の字をどこかにおき忘れてしまった。
「これはこれは。菩薩さま」
と八戒は愛想笑いを浮べながら、
「どちらへおでかけでございますか?」
「ようこそ、長老さま」
と妖精は鴛のような声で八戒を長老と呼んだ。
「あなた方の姿を見たので、
 さぞやおなかがおすきだろうと思って、
 ご飯とおそばを持って参りましたの」

それをきくと、
八戒は大喜びで三蔵のところへとんで帰った。
「お師匠さま。善人にはいい報いがあるものです。
 あの猿奴が自分の腹の中に桃をつめ込んでいる間に、
 ご飯をめぐんで下さる人がやってきましたよ」
「嘘を言って人をヌカ喜びさせるものじゃないよ」
と三蔵は言った。
「この辺に来てからは、ご飯をめぐんでくれる人どころか、
 まともな人間にひとりだって
 会ったことがないではないか」
「しーッ。お師匠さま。来ましたよ」

見ると、八戒のすぐうしろに美人が立っていたので、
三蔵はあわてて立ちあがると、
胸の前に両方の掌を合わせた。
「あなたはどちらのお方でございますか?
 ここは一体何というところですか?」
「ここは白虎嶺というところですわ、お師匠さま」
と美人はしなをつくりながら答えた。
「私の家はここを西へ少しおりたところにございますの。
 父と母は大へん信心深くて、
 旅の和尚さんが通りかかると、
 いつもおよりいただいておりますの」
「失礼ですが、
 あなたはまだお嫁に行っていないのですか?」
と脇から八戒がきいた。
「ホホホホ……」
と美人は口をつぼめて笑いながら、
「うちには私ひとりしか子供がいないので、
 父や母が私を嫁にやらないのです。
 婿養子でないとと言いましてね」
「お父様やお母稼がおいででしたら、
 あまりそとを出歩かない方がよろしいですよ。
 山道のひとり歩きは危いですからね」

三蔵がそういうと、美人は思わせぷりな笑い方をして、
「お師匠さま。
 うちの主人は山の向う側で畑を耕しておりますの。
 ふだんは私が家にいてご飯の用意をするんですけれど、
 五月六月は使っている人たちも皆出払うものですから、
 私がこうして昼御飯を持ってをりますの。
 でもさっきあの上を通りかかったら、
 あなた々二人の姿が見えましたので、
 さぞおなかをおすかしだろうと思って、
 こちらへさきにお持ちしたのです」
「いやいや、ご好意は本当にかたじけないが」
と三蔵は手をふった。
「私も弟子の者が果物を摘みに行って
 間もなく帰ってくる筈ですから、
 どうぞご主人のところへお持ちになって下さい」
「ご遠慮なさることはございませんわ。
 父や母はお坊さんが好きですし、
 うちの主人と来たら自分で言うのもおかしいですが、
 それはそれはお人好しなんですの。
 ですから私が皆さんにご馳走したことがわかったら、
 私を責めるどころか、きっと喜んでくれますわ」

いくらすすめても三蔵が手を出そうとしないので、
そばで見ていた八戒は不平たらたらである。

「世間に坊主の数は星の数はどもあるが、
 うちの師匠みたいに優柔不断な男は見たことがない。
 出来立ての飯を三人で分ければいいものを、
 猿が帰って来てから、山分する方がいいんだとさ」
「まあ、そういうな。
 お師匠さまには考えがあるんだろうから」

悟浄がいうと、八戒は悟浄にくってかかった。
「やい、悟浄。
 お前はねてもさめてもお師匠さま、お師匠さまで、
 広い世間にお師匠さまほど偉い人間はないと
 思い込んでいるらしいが、とんだ見当違いだ。
 お師匠さまは偉いんでも分別があるのでもなくて、
 本当は臆病で小心翼々としているだけのことだよ」

2000-11-13-MON

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