毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第2巻 三蔵創業の巻
第八章 人蔘禍

二 食い逃げの哲学

「どうすればいいんだ。どうすれば……」
と落葉の中に埋まったまま清風はつぶやいた。
「お師匠さまが帰って来たら、
 俺たちは何といって弁解すればいいんだ!」
「いつまでもここに坐り込んでいたって仕方がないよ」
と明月が言った。
「この狼藉の張本人は言わずと知れた
 あの雷のようなとんがり口にきまっている。
 どうせ理窟を言ったってわかる野郎じゃないし、
 喧嘩になりゃ多勢に無勢、到底かないっこないんだから、
 頭を働かしてだまし討ちにするよりほかあるまい」
「だまし討ちにするって、どうするんだ?」
「よく勘定して見たら、ちゃんとありましたと言って、
 逆にこっちが謝るんだ。
 そうして奴らが四人で飯を食い出したら、
 すきを見て外から鍵をしめてしまうんだよ。
 犯人を監禁しておけば、
 お師匠さまが帰って来た時も申し訳が立つというものだ」
「うむ。それがいい。そうしよう」

妙案が浮ぶと、二人は急に元気をとり戻して、
果樹園から御殿へとってかえした。
「さきほどはどうも乱暴なことを申してすみませんでした。
 どうかお許し下さい」
さっきとは打って変った慇懃な態度なので
三蔵は不審に思って、
「それはまたどうしたわけですか?」
「いや、もう一度調べてみましたら、
 ちゃんと数があったのでございます。
 何しろ数も多いし、葉も繁っていて、
 そのなかにかくれていたものですから」
「それ見ろ」
えたりとばかりに、八戒は、
「自分たちが粗忽だったのを棚にあげておいて、
 俺たちを泥棒呼ばわりするなんてあんまりだぞ。
 俺たちの名誉をどうしてくれる?」

悟空は黙っていたが、自分のやったことを知っているので、
「さてはこいつら何かたくらんでいるな。
 てっきり起死回生の巻き返し戦術に違いねえ」

三蔵法師だけは知らぬが仏で、
「それはまあよかった。
 どうもえらくお騒がせをして申し訳ありませんが、
 私たちもご飯をすませれば間もなく出発致しますから」

八戒が飯を盛りに行き、悟浄が食卓の用意をはじめると、
清風と明月は愛想よくおかずを奮発してくれたり
お茶のサービスをしてくれる。
四人が箸をとりあげて飯を食べ出すと、
側に控えていた二人は後すざりをしながら、
扉のところまでさがって外側から、
ピチャリと扉をしめてしまった。
「おいおい。この地方では飯を食う時、
 人に見られないように戸をしめるのか」
と八戒が冗談を言った。
「ずいぶんしみったれた風習だな」
「そうだとも、泥棒の飯は人に見られないように
 こっそりかき込むものだ」
と明月が答えた。
「とんがり口の泥棒奴!」
と清風が怒鳴った。
「人の家の果物を盗むだけではまだ足りないで、
 樹まで倒してしまうとは何事だ。
 仏の顔が拝みたかったら、
 何もわざわざ十万八千里を
 てくてくテクシーで行かなくても、
 一ぺんで行けるようにしてやるぞ!」

それをきくと三蔵は大きな石ころを呑み込んだように
箸をおいて胸もとをおさえた。
「またしてもお前のおかげだ。アクタレ猿め!」
とさも恨めしそうな表情をしながら、
「他人様の果物を無断で失敬した以上は、
 怒鳴られても黙って居ればよいのに、
 その上、樹まで倒してしまうとはどうしたことだ。
 これではたとえお前のオヤジが警察署長をしていても、
 とうていお前をかばい通せないぞ」
「お師匠さまはお経を読むのはうまいかも知れないが、
 人の心理はご存じないな」
と悟空は言った。
「もし俺がうどんを三杯食い逃げしたら、
 ソバ屋のオヤジはうどん、うどん、うどんと、
 うどんのことばかり責め立てるが、
 もし俺が怒ってソバ屋の屋台ごと
 ひっくりかえしてやったら、
 うどんのことなんか頭の中から吹ッとんでしまいますよ。
 無銭飲食をやるにもコツが必要なんです」
「おかげでこの通り監禁されてしまったではないか」
「なあに、彼奴らがねこんだ頃を見計らって
 逃げ出せばいいですよ」
「逃げ出すって、兄貴、
 この厳重な錠前をどうやって破るんだ?」
と沙悟浄がきいた。
「俺に任せろ。俺には方法がある!」
と悟空はポンと胸板を叩いた。
「そりゃ、兄貴には方法があるだろう」
と八戒がすぐに言いかえした。
「兄貴は虫に化けて戸の隙間から逃げ出せばよいだろうが、
 俺たちが身代りに懲役をくらうんじゃ
 とてもたまったものじゃない」
「悟空は一人で逃げられないよ」
と三蔵は言った。
「そんな身勝手なことをやれば、
 私がだまってはいないからね」
「だまっていないって、
 お師匠さまにどんな方法があるんです?
 お師匠さまの特技といえば、
 泣くこととお経を読むことぐらいなものでしょう」
と八戒は愁い顔である。
「そうだよ。お経を読むことだよ」
と三蔵が悟空の方を向いてニヤニヤ笑うと、
「わかりました。わかりました」
と悟空はあわてて、
「自分ひとりだけ逃げ出すようなことは絶対にやりません。
 逃げるなら皆一緒に逃げましょう」
「へえ?」
と八戒は目をパチクリさせながら、
「こりゃ一体どういうわけです?
 お経といえば、
 閑人の読むものとばかり思っていましたが、
 法律以上の威力をもっているとは全くオドロキですな」

お経にもいろいろあって緊箍児経というのがあることを
八戒は知らなかったのである。

既に日はとっぷり暮れて、
東の空に月が昇りはじめていた。
あたりは夜のしじまにとざされて
風の音ひとつきこえない。
「さあ、そろそろ逃げようではないか」
と悟空が言った。
「逃げるって、この門をどうやってこじあけるんだ?」
八戒がききかえすと、
「まあ、俺の腕前を見ろよ」

悟空は如意棒を手に握ると、
「解鎖法」という方法を用いて門の方を指ざした。
すると、御殿の扉をしめていた錠前も、
廊下の入口の錠前もドスンと音を立てて地におちた。
「スゴい。スゴい。錠前屋をよんできて
 酸素でやきおとしてもこうはうまく行かないだろう」

八戒が手放しで感心していると、
「何のこれしきのこと! 俺の手にかかったら、
 南天門の錠前だってお茶の子さいさいだ」

四人が御殿を脱け出して、大急ぎで出発の用意をすると、
悟空は三蔵に向って、
「さきに行って下さい。
 私があの二人をちょっとねむらせてきますから」
「ねむらせるって、お前、
 人の物を盗んだ上に殺したりしたらいけないよ」
「わかっていますよ。
 あとを追って来ないようにしばらくの間、
 天国の夢を見させてやるだけのことです」

悟空は二人の留守番のねている部屋へ忍び込んで行くと、
腰の間から二匹の催眠虫をとり出してきた。
この二匹はかつて東天門の増長天王と博打を打った折に
巻きあげたものである。
それを一匹ずつ二人の瞼の上にのせると、
「さあ、これでよし」
と五荘観をとび出して、一行のあとを追った。

その夜、三蔵法師は一睡もしないで、馬を走らせ続けた。
夜がしらじらと明けはじめる頃には
どうやら五装観からよほど遠のいた様子である。
もう追手が来そうにないことがわかると、
三歳はやっと我をとり戻して、
「これも皆、お前のおかげだ。ドロポー猿め」
と悟空に向ってプツブツ言いはじめた。
「まあ、そう怒らないで下さいよ、お師匠さま」
と悟空は笑いながら、
「人間がタダ食いするかしないかは
 道徳の問題ではなくて、
 チャンスと度胸の問題でしょう?
 もうここまで来れば大丈夫ですから、一休みして下さい」
「お前はそういうが、そ
 れはお前が債鬼というものを知らないからだよ」
と三蔵は言った。
「債鬼逃がるべからず、といって、
 大抵の人間は借金をしたり無銭飲食をすると逃げ出すが、
 私なら密着戦術をとって
 わざとでも相手にくっついているね。
 くっついておれば、相手も人間だから
 図図しい奴だと心に思ってもあきらめてくれるが、
 反対に逃げたりするとどこまでも追っかけてくるよ」

そう言いながらも、三蔵は駒をとめようとせず、
一心不乱に走り続けるのである。

2000-11-08-WED

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