毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第七草 白日夢さめて

二 八戒の初夢

そんなこととは知らない猪八戒は
鼻唄まじりで歩いていたが、草の生えたところまで来ると、
馬は首を垂れて動こうとしない。
「こら。しッ」
と八戒は馬を追うようにして、塀沿いの道をまわると、
後門のところへ出た。
見ると、門のそとで、さっきの婦人が
三人の娘と一緒に咲き乱れた野花を眺めている。

八戒の姿を見ると、三人の娘は急いで門内へひっこんだ。
「どこへおいでになるんですの?」
と婦人は八戒の前に立ちふさがった。
「やあ、さっきはどうも」

八戒は愛想笑いを浮べながら、
「この通り馬にまぐさをやりに行くところですよ」
「あんたんとこのお師匠さんは
 ずいぶん糞真面自な方なのね」
と婦人も微笑を浮べながら、
「うちで婿さんになるよりも、
 坊主になる方がいいなんて!
 すこしコレじやないの?」
と頭のあたりを指さしている。
「いや、あの人たちは大唐国の国王の命令で
 西の方へ行く人たちなんです。
 内心はまんざらでもないんでしょうが、
 君命にそむくのがおそろしいんでしょう。
 さっきも私をさんざからかっていましたが、
 人間なんて正直者は案外少いものですね」
「すると、あなたは正直者ってわけ?」
「そんなこといわれると恥ずかしくなってしまうがな」
と八戒は袖で顔をかくしながら、
「でもお宅では僕のような醜男じゃ
 気に入らないかも知れんでしょう?」
「私は一向に構いませんよ。
 顔はどうあろうと、男は度胸ですものね」
「そうだ。そうだ。
 男は度胸で女は愛嬌、これが世界の二大宗教だ」
「でもうちの娘たちがどういうかはわかりませんよ」
「ですから、おっ母さん」
と八戒はそばに近よって、
「お宅のお嬢さんたちに教えてあげて下さいよ、
 色男なんかに目をくれちゃいけないって。たとえばです。
 うちの師匠は年も若いし、頭もいいし、
 それにちょっとした二枚目だけれど、
 その実、ただのインテリでさっばり役に立ちませんよ。
 その点、僕なんざあ、自分で言うのもおかしいが、
 まず一緒になって後悔するってことはありませんな」
「まあ、それはまたどうしてなの?」
「この腕を見て下さい、この腕を!」
と八戒は袖をまくりあげた。
「僕のこの腕は
 ブルドーザ十台分ぐらいの働きはありますよ。
 この熊手を手にとって、
 えっさえっさと一掻きすれば忽ち数千町。
 雨がなければ雨を呼び、風が欲しければ風を呼び、
 家が建てたければ摩天楼の高さのビルでも、
 溝が詰まっておれば、お濠の底へもぐってでも、
 それこそもらって重宝、
 おくって喜ばれる実用第一の特選品です」
「へえ。話半分としても、今時、珍しい存在ですわね」
と婦人は驚きの目を見張りながら、
「それじゃ、もう一度お師匠さんと相談していらっしゃい。 もしお師匠さんがツベコベ言わなければ、
 あなたの望み通りに致しましょう」
「何で相談することがあるものですか」
と八戒はすぐに言った。
「あれは私のオヤジでもなけれは、オフクロでもない。
 私がどうしようと私の勝手ですよ」
「そう言えはそうですね。
 じゃ娘たちに知らせて参りますわ」

そう言って門の中へ入ると、ピシャリと
八戒の鼻先に戸をしめてしまった。

八戒はまた馬をひっばると、表門の方へと帰って行く。
それを一部始終見ていた赤トンボの悟空は
いち早くもとへ戻ると、
「お師匠さま。八戒が馬をつれて戻ってきましたよ」
「そうだろう。八戒はなかなか働き者だからなあ」
「ところが同じ馬でも頭の黒い、白粉を塗った馬ですよ」

悟空は手真似足真似で八戒の仕事をしきりに再現して
見せるが、三戯法師はまだ半信半疑である。

そこへ八戒が口笛を吹き吹き入ってきた。
「馬にまぐさをあげたかね!」

三蔵が尋ねると、
「それが生憎と、あまりいい草がなかったのですよ。
 だから馬は放しませんでした」
「馬を放しに行ったのじゃなくて、
 馬をひきに行ったんだろう。
 どうだね、成果はあがったかい?」

悟空がニヤニヤ笑いながら顔を覗き込むと、
八戒は俄かに口をつぐんでしまった。
さっき勢いに任せて喋ったことが
つつぬけになってしまったのかと思うと、
もうぐんなりとなって口をひらく元気もないのである。

すると程なく足音の近づいてくるのがきこえて、
やがて扉をひらく物音がした。
見ると二人の侍女が手に手に紅い覆いのついた
ポンポリを手に持って入ってくる。
そのうしろにはこれまた二人の侍女が
手提げの香炉をさげている。
チリンチリンと飾り玉の昔を立てながら、
そのあとに続くのは母親に連れられた
三人の美しい娘たちであった。
「さあ、お前たち、ここにおられるのが
 西部へいらっしゃる荒くれ男たちだよ。
 ご挨拶なさいな」

ズラリと勢揃いをした三人の娘たちは、
なるほど見れば見るほど美しいおなごである。
三蔵は両手を合わせて下を向いたっきりだし、
悟空は見て見ぬふりをしている。
沙悟浄に至っては背中を向けたっきり
ふり向こうともしない。
ただ一人、八戒だけは思い乱れて、
眼をそらそうとしても眼の玉が言うことをきかず、
ロの中で何やらわけのわからない言葉を繰り返していたが、
やがて皆にきこえないような小さな声で、
「これはこれは天女さまのご降臨。
 いい目の保養になりました」

母親が合図をすると、
三人の娘たちは屏風のかげへ一旦姿をかくした。
「さて、そこにおいでの和尚さま」
と婦人は四人に向って呼びかけた。
「どなたをうちの娘婿にくださるか
 おきめになりましたか?」

すると、沙悟浄がくるりと廻れ右をして、
「ええ、相談はまとまりましたよ。
 猪という姓の男がお婿さんになるそうです」
「冗、冗談をいうな。俺は皆と行動を共にするんだ」
「行動するもしないもあったものか」
と悟空が言った。
「さっきお前は裏門で、
おっかさんと呼んでいたではないか。
お師匠さまに親代りになってもらい、
沙悟浄には仲人を頼め。俺はお前の兄弟になってやる。
大安吉日なんて堅苦しいのはやめて、思い立った日が吉日。
今日、早速、結婚式をあげることにしたらどうだ?」
「駄目だ。駄目だ。僕をからかうのもいい加減にしてくれ」
「何を今更テレることはないじゃないか。
 おっかさんと呼んだのだって一回や二回じゃあるまい。
 さあ、行って早く祝い酒を運んで来るんだ」

悟空は片一方の手で八戒をつかまえると、
もう一方の手で婦人をさえぎり、
「さあ、おばさん、婿殿を連れて行って下さい」

八戒は進退きわまって、口をもぐもぐさせたり、
耳をぴくびくさせていたが、婦人は童子を呼んで、
ご馳走の用意を命ずると、
八戒をせき立てて奥へ連れて入った。

さて、奥へ入ると、一棟また一棟と
数知れぬ部屋が続いている。
「ずいぶん広いお邸ですね、おっかさん!」

八戒が感心していると、婦人はふりかえって、
「ここは物置や納屋や作業部屋で、
 まだ台所へもついていないんですよ」

渡り廊下をあっちへ曲ったり、こっちへ折れたり、
やっとのことで二人は
明りの煌々と輝いている大広間へ出た。
「ところで、おっかさん、
 どのお嬢さんを僕に下さるのですか?」
「それで実は私も頭を悩ましているんですよ」
と婦人は言った。
「長女をあなたにさしあげれば、
 次女が騒ぎ立てるでしょうし、
 次女をさしあげれば、三女がひがむでしょう。
 といって三女をさしあげれば、
 長女がやきもちをやくにきまっています」
「それならば、いっそのこと
 三人とも僕が一手にひきうけましょうか?」
と八戒は鼻の下を長くしながら、
「僕は博愛主義者ですから、
 僕が原因で皆が喧嘩をするのを見るに忍びないのです」
「そんなバカなことがありますか!
 一人で私の娘を全部独占するなんて」
「俗に三妻四妾と言うじゃありませんか。
 三人どころか、もう数人おいでになっても、
 僕は喜んでご笑納致しますね。
 というのは子供の頃から僕は生産よりも
 公平なる分配を研究致しまして、
 子供をたくさんつくることよりも、
 どの女性にも私が一番愛されていると
 信じ込ませるコツを体得しているのですよ」
「だめだめ」
と婦人は叫んだ。
「この西牛賀洲では
 誰も公平であることを望んではいません。
 というのは
 西牛賀洲では男も女も運しか信じていないからです。
 誰が好運をつかむか、誰が貧乏籤をひくか、
 それは専ら天の思召しによるのです。
 さあ、ここにハンカチがざいます。
 このハンカチで目かくしをして、
 鬼ごっこを致しましょう。いいですか。
 うちの娘たちのうち誰でもあなたにつかまったら、
 その子があなたのお嫁さんになりますわ」

仕方がないので、
八戒は言われた通りハンカチで目かくしをした。
「さあ、お前たち、皆、出ておいで」
と母親は娘たちをよんだ。
「誰でもつかまった人がこの方と結婿するのですよ」

娘たちが出てくると、
広間の中は香水や女体の匂いで溢れるようだった。
目かくしされてどこに誰がいるのかわからないが、
乱れる足音や嬌声で、まるで部屋中に
無数の美女が入りみだれているような感じである。
八戒は無我夢中で、声のする方へさあッと駈け出して
いきなり椅子につまずいたり、両手で柱に抱きついたり、
いやはや、もう目茶苦茶でござる。
しまいにはフーフーと息せききって、
「おっかさん。
 あんたんとこのお嬢さんはまるでウナギじゃないか。
 そうと知ったら、
 ウナギ屋で二、三年修行してから来るんだった」
「うちの娘はウナギじゃございませんことよ」
と婦人は八戒の目かくしをとりながら言った。
「皆、謙譲の美徳を発揮しているんです。
 ですからやっばり駄目ですわ」
「お嬢さんたちが駄目ならば、
 おっかさん、あんたで我慢するよ」
「まあ、この人は何というケダモノでしょう」
と婦人は大声で、
「上も下も見境がつかないじゃありませんか」
「だって夫婦の仲では、
 上も下もないのがあたりまえでしょう」

そう言って八戒は婦人に向って猪突猛進して行った。
婦人はさッと身をひくと夢中になって駈け出した。
あわやと思ったところで、婦人は素早く脇へそれ、
「アイタタタタ……」
と八戒は鼻先を抱えたまま悲鳴をあげている。

気がついて見ると、
八戒は猟師が仕掛けたらしい落し穴の中へおち込んでいた。
「タタタスケテ、クレ……」

声をききつけて、沙悟浄が真先に目をさました。
あたりを見まわすと、
御殿のぬくぬくとした布団の中で休んだ筈が、
三人とも松林の中に横たわっている。
「や、俺たちは化かされたらしいぞ」
沙悟浄は驚きあわてているが、
悟空は頗る落着いたものである。
「あの声は八戒じやないか?」
と三蔵が言った。
「大方そうでしょう。
 さそりにキンタマでもはさまれているのですよ、きっと」

沙悟浄が助けに行こうとすると、悟空はひきとめた。
「かまうことはないよ。
 ああいう奴は仏門の恥だから、ここにのこして行こう」
「いやいや」
と三蔵は手をふりながら
「八戒はバカなところもあるが、なかなかの正直者だ。
 それに何といっても働き者だからな」

三蔵法師の目にはいくら愚か者の八戒でも、
愚かなりに聖・八戒として映っているのである。

2000-11-04-SAT

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