毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第六章 三蔵部屋の誕生

一 菩薩の勤評論

「おい、兄弟」
と悟空は林の中へとんでかえると、八戒に向って言った。
「お師匠さまはまだ生きているよ。
 洞窟の一番奥の部屋の中の柱にしばりつけられてな。
 俺が蚊に化けて耳元で、
 お師匠さま、お師匠さま、とよんだら、
 助けてくれえ、と情なさそうな声を出していたぜ」
「そうか。それじゃこれからすぐ乗り込んで行こう」
と八戒は熊手をとりなおすと、
「俺もたった今、
 チンピラのお化けを追って行ったところだ。
 すんでのところを逃げられてしまったが、
 お師匠さまがまだ生きているときいては
 こうしてはいられない」
「待て待て」
と悟空は制した。
「さっき俺が偵察に乗り込んで行った時、
 敵の陣営では俺があいつらの風にあてられて
 死んでしまったらしいとか、
 いや国連に提訴に行ったのだろうとか、
 いろいろもめていた。
 そうしたら、黄風大王の奴、
 俺がそばで盗みぎきしているのも知らないでさ、
 うっかり口をすべらせて霊吉菩薩という名前を
 持ち出したんだよ」
「霊吉菩薩がどうしたというんだい?」
「化け物の言うのには国連だろうが、
 ナトウだろうがこわくはない。
 だが、ただ一人霊吉菩薩というのがきたら
 お陀仏だそうだ」
「霊吉菩薩だって?
 きいたことのねえ名前だな」

二人が腕組みをして考え込んでいると、
折よく向うから一人の髭の老人が杖をつきつきやってきた。
「兄貴。山を下りる道なら、
 通行人にきくに限ると言うじゃないか。
 あの爺さんにきいてみたらどうだい?」
「うん。そうしてみようか」

悟空は如意棒を耳の中にしまい込むと、
老人のそばへ近づいて行った。
「もしもし、ちょっとおたずね致しますが、
 霊吉菩薩のお宅はどちらかご存じありませんか?」

老人は立ちどまると、
「こんなところで霊吉菩薩の家をきくとは、
 あんたもどうかしているな」
「何故ですか」
「だってシベリアでオーストラリアの道を
 きくようなものじゃないか」

老人は悟空の顔をジロジロと眺めながら、
「時にお前さん、霊吉菩薩に何の用かね?」
「ちょっと困ったことが出来たので、
 応援を頼みに行くところなのです」
「なるほど困った時の神頼みか」
と老人は笑いながら、
「霊吉菩薩は小須弥山に住んでいるよ。」
 ここを真直ぐ南へおりて、そうだな、
 かれこれ三千里ぐらいはあるだろうか、
 この小道に沿ってずっと行けば行きつくよ」
「どうも有難うございました」

言って頭をさげた悟空がふと顔をあげると、
そこにはもう老人の姿は見えなかった。
「おい、兄貴」
と八戒は悟空の袖にしがみついて言った。
「この二日問、俺たちは全くどうかしているぞ。
 真ッ昼間から立てつづけに幽霊に出会い通しじゃないか」
「ハハハハ……」
と悟空は笑った。
「疑心暗鬼といって、疑えばキリがないよ。
 人間、苦境に立った時は捨てる神もあれば、
 拾う神もあるさ。
 俺はこれから小須弥山まで一走りしてくるから、
 お前はここで荷物の番をしていてくれ。
 うっかりその辺をうろうろして
 敵に見つかるとトンカツにされてしまうぞ」
「わかっているよ。兄貴、早く行って来てくれ」

悟空は空に向って一跳びにとびあがると、
早くも斗雲に乗っていた。
斗雲は見る見る山や河を越えて、
一息つく間もなく三千里をすぎて行く。
やがて雲海の間から頭を出している
高い山が視界へ入ってきた。
見ると、山のくぼみに一軒の寺院があって、
香を焚くほのかな匂いが漂っている。
悟空が門前にとびおりると、
一人の道士が首から数珠をかけたまま念仏を唱えていた。
「もしもし、ここは霊吉菩薩の道場でございますか?」
「はい、さようでございます」
と道士は答えた。
「それでは恐れ入りますが、
 東土大唐国王の御弟三蔵法師の徒弟、斉天大聖、
 またの名孫悟空が所用あって参上しましたからと
 お伝え下さいませんか?」
「ええ? 何ですって」
と道士は目を白黒させながら、
「そんなに長い文句ではとても私には覚えきれません」
「じゃ孫悟空が参りましたとだけ言って下さい。
 その方がわかりがいいだろう」

道士が奥へ入ると、
やがて袈裟をつけた霊吉菩薩が迎えに出てきた。
菩薩は悟空を奥へ案内すると、お茶の用意を命じた。
「お茶は結構ですから、
 どうかこれからすぐ私と一緒に黄風山へ行って下さい」

悟空は三蔵法師が黄風大王に捕えられたいきさつを話し、
霊吉菩薩だけが彼を助けることの出来る唯一の人物だ
と言ってしきりに懇願した。
「あいつがまた騒ぎ出したのか、仕様のない奴だな」
と菩産は舌打ちをしながら、
「前に私はあいつを生捕りにしたことがあるんですよ。
 生命だけはたすけてやったのに、
 またわるさをするようじゃほってはおけないな」

菩薩は手に飛竜宝杖を握ると、
すぐ悟空のあとから雲に乗って黄風山へと急いだ。
山の上空まで来ると菩薩が言った。
「私が来たことを知ったら
 あの化け物はきっと洞窟の中にかくれてしまうだろう。
 私はここにかくれていますから、
 あなたが出て行って外へおびき出して下さい」

言われた通り悟空は門前に下りると、手に握った如意棒で、
岩も砕けよとばかりに扉をなぐりつけた。
「やい、化け物。俺の師匠を俺にかえせ」

その勢いに驚いた小妖怪どもが奥へ駈け込んで
報告に及ぶと、黄風大王はカンカンに怒って、
「生命知らずの無礼者奴!
 今度こそは神風を吹かせて、
 木端微塵に吹きとばしてくれるぞ」

兜の緒を締めなおすと、
黄風大王は手に三股の槍を握りなおして
威風堂々と洞窟から姿を現わした。

見るとすぐ門前に悟空が立ち塞がっている。
問答無用とばかりに黄風大王は槍先を
悟空の胸元めがけて突きさしてきた。
一瞬早く身体をかわした悟空は如意棒を握りなおすと、
無言のまま相手に打ちかかって行った。
互いに槍と棒を合わせること数回、
事面倒と見た化け物は首をねじって
巽の方向へ向きなおると、
口をつばめて風を吸い込みにかかった。

上空で二人の合戦を見ていた霊吉菩薩が、
手に持っていた飛竜宝杖をさっと投げたのはこの時である。
菩薩の手を離れた瞬間、それは一本の杖にすぎなかったが、
いつの間にか一匹の巨大な黄金色の竜になっている。
竜は前足の爪という爪を立てて、化け物に襲いかかると、
相手の頭をもちあげて岩に二、三回ぷっつけた。
すると、化け物の姿は消えて、一匹の貂が現われた。
「正体を見破ったぞ」

悟空がそばへ駈けよって、如意棒をふりあげようとすると、
霊吉菩薩が悟空の手を抑えて言った。
「このネズミはただのネズミじゃなくて、
 もともとは霊山の麓で道を悟った大物だ。
 それが或る時、
 お燈明の油を盗んで自分から逃げ出してしまった。
 どこへ姿をくらましたのかと思ったら、
 こんなところで油を売っていたのか」
「泥棒は成敗するのが当り前じゃありませんか?」

悟空がいぅと、
「いやいや、油を売ったぐらいで死刑にしたら、
 世の中のサラリーマンというサラリーマンを
 全部死刑にしなければならなくなる。
 忙しい忙しい、日給は安い、
 と言ってこぼすのがサラリーマンのロぐせだが、
 どいつもこいつもただのネズミじゃないよ」
「じゃ油を売っても罪にはならないわけですか?」
「勿論、罪にはなるが、
 と言ってくび馘にするほどの罪でもない。
 まあ、
 昇給をおくらせるかボーナスを減らすことでしょうな。
 勤務評定はそのためにあるもので、
 勤務評定は戦争に通ずるなどというスローガンは
 怠け者の言い草ですよ」

菩薩はそう言って、貂の冠をつかまえると、
「これからお釈迦さんのところへ
 処分方をききに行ってみましょう」
と、西の方へ向って立ち去ったのである。

そんなこととは知らない猪八戒は
林の中に身をひそめたままヤキモキしていたが、
「おい、兄弟。馬の用意をしろよ」
という声におどろいてとびあがった。
「兄貴じやないか。霊吉菩薩は留守だったのかい?」
「ハハハハ……」
と悟空は笑いながら、
「霊吉菩薩ほもう来て帰ったよ。
 勤務評定論とかいうややこしい話をきかされたが、
 白紙にかえして冷静に考えようなどとは言わなかったぜ」

二人は、林の中を出ると、
洞主のいなくなった黄風洞の中へ暴れ込み、
狡兎妖狐のたぐいを
一匹のこらず叩き殺してしまったのである。

2000-10-30-MON

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