毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第四章 八戒登場す

三 高老荘の化け物

さて、二人は緑にかがやく山道を辿ること六、七日、
或る日、夕暮も近づいてから、とある村へさしかかった。
「見てごらん。なかなか美しいところじゃないか」

山を背景に竹林に囲まれた尾根が続いている。
その白い壁には夕陽が射している。
「行って見ましょう」
と悟空は言った。
「見たところ悪魔の巣でもなさそうですから」

馬を急がせて近づいて見ると、
ちょうど、向うから草鞋を履き、脚絆をまき、
手に傘を持った旅姿の若者が
駐けるようにしてやってくるのに出会った。
「もしもし。ここは何というところですか?」

悟空は若者をつかまえてきいた。
「ほかの人にきいて下さい」

若者はよほど先を急いでいるらしく、
ぶっきらぼうにそう答えると、
悟空のつかんだ袖をふり放して行こうとした。
「おやおや、えらい剣幕だね。
 ここがどこかくらいのことを教えても
 別に損にはならないだろうに」
「うるさいな」
と若君はヒステリックな声をあげた。
「家のオヤジには怒鳴られるし、
 道へ出てきた途端に、この禿頭にはぶっつかるし」
「俺のこの腕をつき放すことが出来たら、通してやろう」
と悟空は笑いながら言った。
若者は何とかして通り抜けようとして、
右へ行ったり左へ行ったりしたが、
どうしても悟空の腕の中から出ることが出来ない。
「悟空や。向こうにも人がいるようだから、
 向うへ行ってきくことにしよう」

三蔵は悟空に言ったが、
「いや、何が何でもこの男にききたいんです。
 お師匠さま。面白いことになりそうですぜ」

若者はやっと断念したのか、
「ここは烏斯蔵国の高老荘というところです。
 この村の人は大半が高姓をなのっているので、
 こんな名前がついているのです」
「見たところ、
 お前さんは長途の旅に出かける身なりをしているが、
 どこへ何をしに行くのかね。それを言えば通してやろう」
「私がどこへ何しに行こうと
 あなたの知ったことじゃありません」
「そりゃその通りだが、しかし、たびは道連れ世は情、
 別にお前さんの懐をねらっているわけじゃないんだから、
 話ぐらいしたらどうだ」

仕方がないので、若者は立ちどまった。
「実は私は高太公の家人で高才という者です。
 太公には二十歳になる娘が一人いて、
 まだお嫁に行かないでいたところ、
 三年前に一人の化け物にとられてしまったのです」
「化け物だと?」
と悟空と三蔵は思わず顔を見合わせた。
「そうです。化け物です。
 化け物は三年間も高家に居坐っているのですが、
 太公は化け物がいると、
 家門の名誉にかかわるばかりでなく、
 親戚も近づかなくなるので、
 どうにかして追い払いたいと思っているのです。
 しかし、化け物は出て行かないばかりでなく、
 裏の家に娘をとじ込めて
 家人に会わせようとさえ致しません。
 太公が心配して、私にどこかへ行って化け物を
 追っ払ってくれる道士を連れて来いとおっしゃるので、
 私もこれまで何人か連れてきましたが、
 いずれも法螺吹きやカタリばかりで、
 さっきも一くさり怒鳴られたところですよ」
「お前さんはいいところでいい奴に出会ったものだ」
と悟空は言った。
「俺たちがひとつその化け物とやらを追っ払ってやろう」
「ご冗談はおっしゃらないで下さいよ。
 あの化け物は手ごわい野郎で、
 ちょっとやそっとの力では歯が立ちません。
 あなた方がひどい目にあうのはいいとしても、
 その度に私がオヤジから怒鳴られては
 たまりませんからね」
「俺たちは法螺吹きでもカタリでもない。
 化け物をつかまえるのは、
 それだけを看板にしても結構飯をくって行けるくらいの
 専門家なんだ。
 とにかく、これから回れ右をして、家へ帰って、
 東土から西天へ行く和尚が来たと知らせて来るがいい」
「そんな大きなことを言って、大丈夫ですか?」

若者はまだ疑い深そうな表情をしていたが、
悟空がどうしてもそうしろと頑張るので、やむを得ず、
二人を案内して村へひきかえして行った。
「ではちょっとここでお待ち下さい。
 主人に知らせてまいりますから」

二人を門前に残したまま、若者は家の中へ入った。
三蔵は馬を下り、門前でしばらく立っていたが、
間もなく奥から一人の老人を連れて出てきた。
「これはこれは、よくいらっしゃいました」

老人は三蔵の姿を見ると、丁寧に挨拶をしたが、
そばに立った悟空の凶悪そうな顔を見ると、
びっくりしてしまった。
「どうして俺には挨拶をしないんだ?」

悟空が文句を言うと、老人はますます驚いて、
そばに立っている高才に、
「一人の化け物だけでももてあましているのに、
 何だってもう一人連れてきたりしたんだ?」

それをきくと悟空は、
「高さんよ。あなたはアダに年をとったのじゃあるまい。
 十七、八のおぼこならいざ知らず、
 容貌で男を判断するとは情ない。
 うちのお師匠さまを見ればわかるが、
 色男、金と力はなかりけりと
 むかしから相場がきまっているじゃありませんか」

老人はまだ戦々兢々としていたが、嫌々ながらも、
「ではどうぞお入り下さい」
と言った。
そこで悟空は馬を連れて三蔵のあとから家の中へ入った。
「お二人は東土からおいでだそうでございますね」

席へついてから高老人はきいた。
「ええ、私は東土から西天へ
 お経をとりに行く者でございます。
 ちょうど、ここを通りかかりましたので、
 一夜の宿をお願い致したいと思いまして」
「おやおや。それじゃ話が違うぞ。
 私はあなた方が化け物を退治して下さると
 きいていたのですが……」

「だから宿を借りたついでに
 化け物を退治してあげようと言っているのですよ」
と悟空が脇から口を出した。
「一体、お宅には化け物がどのくらいいるのですか?」
「どのくらいだなんてとんでもない。
 一人だけで、この通り一家の者が
 生きた心地もしないでいるというのに」
「ひとつ最初から話をしてくれませんか」
と悟空は言った。
そこで老人は、
「この高老荘はむかしからずっと平和なところで、
 鬼とか化け物とかいった話は
 かつてきいたこともありませんでした。
 不幸にして私には息子が生まれず、
 娘が三人いるだけですが、上の二人は村の者に片づき、
 一番末の翠蘭という娘だけが残っていたのです」
 声をひそめて語り出した。
「私も年をとって老人の一人暮しは淋しいと思い、
 せめて末の娘だけでも養子をとろうと考えていたのです。
 ところが三年前に一人の
 見るからに頑健そうな男がやって来ました。
 彼は福陵山の人で、姓を猪といい、
 父も母もなければ兄弟もなく、
 全くの天涯孤独だというのです。
 私もいろいろ考えて、
 婿養子にはこんな係累のない人間の方が
 かえってよいかも知れないと思い、家へ入れました。
 私の眼鏡通りこの男は働き者で、
 働くことは人一倍働くのですが、
 ただ一つ不思議なことが起ったのです」
「不思議なことって何ですか?」
「最初来た時は、ただ少し色が黒いというだけで、
 これといって変ったところもなかったのですが、
 しばらくするとだんだん容貌が変ってきて、
 口はとんがってくるし、耳は大きくなるし、
 しかも頭のうしろにブラシのような堅い毛が生え出して、
 まるで豚そっくりになってきたのです。
 そればかりでありません。
 全身これ胃袋とでも申しましょうか。
 食べること食べること、
 一食に三斗飯五斗飯は平気なので、
 朝でも焼餅を百個以上平らげてしまいます。
 まあ、幸いにして今のところ精進料理が
 好物のようですが、
 この上、なまぐさいものでも食べられたら、
 この家も田畑も半年を出でずして
 胃袋の中に納まってしまうでしょう」
「よく働く者はそれだけ食欲も旺盛なものですよ」
と三蔵がいうと、
「ええ、それはまだ宜しいのですが、
 最近はいよいよ本性を現わして、
 風を起したり雲に乗ったりして
 向う三軒両隣り年きた心地もしないのです。
 その上、娘を裏の部屋へとじ込めたきり、
 私たちに会わせてくれないので、
 生きているのやら死んでしまったのやら。
 私ども天に対して
 申し訳のないことをした覚えもないのに、
 どうしてこんな目にあうのでしょうか」

涙と共に語るふしあわせな物語である。
きいていた悟空はポンと胸を叩くと、
「俺がひきうけたから、もう心配は要らん。
 とにかく、その化け物をこの家から追っ払えば
 いいんだろう」
「ですが、追っ払ったあとで、
 またお礼参りに来られては困るのです」
「大丈夫だ。
 そんな心配がないようにうまく始末してあげるから」

そういわれると、高太公はすっかり喜んで家人に命じて
ご馳走の準備をさせた。

いよいよ、日が暮れると、太公がきいた。
「どういう武器をお使いになりますか。
 また何人くらい加勢があればよろしいですか?」
「武器も加勢の者も要らない。
 ただうちの師匠の話し相手に
 何人か人を集めてくれればそれでいい」
「と申しますと、
 旦那が一人で捕らえて下さるってわけですか?」
「一人で十分だ。武器はこの通りここに持っている」

悟空は耳の中から縫針をとり出して、
クルリと一回転させると、
忽ち太い鉄棒になって彼の脇に抱えられている。
「では、化け物の住居へ案内していただこう」

庭を通って奥にある別棟に行くと、
扉に大きな錠がおりている。
「やあ、頑丈そうな錠前だな。
 ちょっと鍵を持って来てくれぬか」
「鍵があったらあなたのお世話にはなりませんよ」

高太公が真顔でいうので、悟空は思わず、
「アッハハハ……」
と笑った。
「よっぽど思い詰めていると見えて、
 あなたは笑ぅことを忘れてしまったらしいね」

鋼で出来た錠であったが、
悟空が如意棒でこづくと至極簡単にあいた。
そっと扉をひらくと、なかは真暗で、
底知れぬ洞窟のように薄気味が悪い。
「娘さんがいるかどうか呼んで見たら」

悟空がいうと、高太公はおそるおそる、
「翠蘭!」
と呼んだ。
なかで人の動く気配がして、やがて足音が近づいてきた。
「お父っつぁん!」
「翠蘭!」

父と娘は抱き合って激しくすすり泣いている。
見ると、なるほど美しい女であったが、長い間、
暗い中に監禁されていたせいか、
痩せ細って肌の色は蝋人形のように青白い。
「さあ、泣くのはやめて俺のいうことをきいてくれ」
と悟空はいった。
「化け物は今どこに行っている?」
「どこに行っているのか私にはわかりません」
と娘は答えた。
「毎朝、夜があけるとどこかへ出かけて行って、
 日が暮れてから帰って来るのです」
「じゃ、おっさん。
 娘さんを連れて母屋の方へ行って下さい。
 俺がここで化け物の帰ってくるのを待っていますから」
「一人ぽっちで本当に大丈夫ですか?」
「いいから、
 さっきと同じように外から錠前をおろしておいてくれ」

二人をそとに出し、悟空が中から扉をしめると、
やがて外でカチリと錠をおろす音がきこえた。

2000-10-24-TUE

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