毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第四章 八戒登場す

二 猿のハカリゴト

二人が空からおりて山路を歩いていると、
ちょうど、そこへ一人の道士が
手にガラスの盆を捧げて歩いてくるのに出会った。
見ると盆の中には二粒の仙丹がおいてある。

悟空はそばへ走りよって、
ドンと胸を一つき突くと相手はその場にひっくりかえった。
すかさず耳の中から如意棒をとり出した悟空は
アッと思う間に相手の頭の上から力一杯打ちおろしていた。
「こらッ、何をする!」
と菩薩は驚いて叫んだ。
「罪も恨みもない者を無茶苦茶に殺す奴があるか」
「菩薩さま。あなたはご存じないのですか。
 こいつはあの化け物の仲間ですよ。
 昨日、もう一人、
 白衣の紳士と三人で仏衣会の相談をしていた男なんです」

なるほどそこに横たわっているのは道士ではなくて
一匹の狼であった。
「こいつは今日これから
 仏衣会に行くところだったに違いない」
そばにおちていたガラスの盆をとりあげて
ひっくりかえすと、
裏に「凌虚子製」と四ツの文字が彫られている。
「しめしめ」
と悟空は笑いながら、
「菩薩さま。
 これであの化け物も寿命が尽きたといぅものですよ」
「それはどういう意味だね?」
「いいことを考えついたのです。
 菩薩さまが私の考えに賛成してくださるかどうかが
 鍵なんですがね」
「どういう陰謀か、言ってごらん」
「この二粒の仙丹をごらん下さい。
 盆の裏に凌虚子製とちゃんと書いてあります。
 これをうまく使えば、
 あの化け物の首っ玉を抑えることが出来ます。
 武器も要りません。
 身体を動かす必要もありません。
 私の考え通りにやるだけで、
 完全に目的を達成することが出来るのです」
「………」
「もし私の計画通りにやらないのなら、
 私は東、あなたは西、
 錦襴袈裟は化け物に只でくれてやって、
 三蔵法師はそのまま
 おっぽり出してしまうことにしましょう」
「お前は何て減らず口を叩く奴だろうな」
「なあに、ちょっと妙案を思いついただけのことですよ」
「どんな妙案かね?」
「この盆の字を見て思いついたのですが、
 さっきの道士はきっと
 凌虚子という名前に違いありません」
と悟空は言った。
「ですから、
 ひとつ菩薩さまに凌虚子に化けていただくのです」
「お前でなくて、この私がか?」
「そうです。
 菩薩さまが凌虚子になり、私が仙丹になるのです」

悟空は盆の中にあった仙丹の中の一粒を
自分の口の中に入れながら言った。
「私はもう一粒、
 今そこにあるのより少し大き目のものに化けますから、
 あなたがこの盆を持ってお祝いに行って下さい。
 そして、大きい方を化け物にすすめて下さい。
 なあに、相手の腹の中にもぐり込んでしまったら、
 あとは袈裟を吐き出させるか、
 でなければ彼奴の胃袋や腸の中で機を織るかの
 どちらかですよ」

菩薩はなるほどなるほどと頷いていたが、
いいともわるいとも言わなかった。
「どうですか、私の作戦は?」

悟空が催促すると、菩薩の姿は消えて、
いつの間にか死んだ筈の凌虚子が目の前に立っている。
「やあ、見事、見事」
と悟空は手を叩いて叫んだ。
「こいつは妖怪菩薩か、それとも菩薩妖怪か」
「ハハハハ……」
と菩薩も笑いながら
「菩薩も化け物も、もとを言えば、人間の執念の結晶だ。
 もっとつきつめれば、無の一語につきるよ」

そこで今度は悟空が一粒の仙丹に化けて、
ガラス盆の中におさまった。

盆を手に捧げた菩薩の凌虚子は
しずしずと洞門へ近づいて行った。
なるほど松や柏の森にかこまれたここは幽玄の世界である。
そしてこんなところに根城をおいて生きている妖精は
悪党ながらに菩薩の目には、
線香を焚いてくれる衆愚より傑物らしく映っている。

洞門にがんばっていた小妖怪はすぐに凌虚子の姿を認めた。
「よくいらっしゃいました。さあ、どうぞお入り下さい」

案内されて入ろうとすると、
奥から黒大王がいそいそと迎えに出てきた。
二人は挨拶をかわし、やがて広間へ入って座席についた。
黒大王は昨日あれからのことを話題にしたが、
菩薩は黙ってきいている。
そのうちに機会をとらえて菩薩が言った。
「大王の長寿を祝って、今日はこれを持ってきたんだが、
 一粒おあがりになりませんか?」

わざと粒の大きい方をすすめると、
「では一緒にちょうだいしよう」
と黒ん坊はそれをとりあげ、菩薩にももう一粒をすすめた。

二人は同時に飲み込んだが、
妖精の口の中へもぐりこんだ悟空が、
忽ち拳を握りしめてガンと一発くらわせたので、
さすがの黒大王もドッとばかりにその場に倒れてしまった。
「さあ、おとなしく袈裟を出したらどうだね?」
菩薩も本来の姿を現わすと、
素早く懐中からもう一つ緊箍児をとり出して
妖精の頭の上にすっぽりとかぶせた。
そして、例の呪文を唱え出したので、
妖精のもだえ苦しむこと苦しむこと。

いち早く鼻の穴から抜け出した悟空は、
ふだん自分がそんな恰好をして苦しんでいるのも忘れて、
腹を抱えて笑いころげた。
見ると、その場に一匹の真黒な熊がぶっ倒れている。
「どうだ、参ったか」
と菩薩は言った。
「参りました」

そばに立っていた悟空は如意棒を手にとると、
いきなりなぐりつけようとしたが、
「待ちなさい」
と菩薩にとめられた
「こんな化け物は今のうちに殺してしまわないと、
 あとで何を仕でかすかわかりませんよ」
「いや、私に考えがある。
 バカと鋏と、それから化け物は使いようだ」
「化け物を何に使うのですか?」
「落伽山の私の裏山には番人がいないから、
 連れて帰って番をさせることにしよう」
「やれやれ」
と悟空は笑い出した。
「救苦慈悲の観音菩薩とはこのことか。
 もし俺に呪文なんて重宝な武器があったら、
 千遍ぐらいは唱えて旧怨を晴らしてやるんだがな」
「つべこべ言わないで、
 早くお師匠さんのところへ帰りなさい」
「いや、わざわざご足労願ったのですから、
 落伽山までお送り致します」
「送ってもらう必要はないよ。
 三蔵法師が首を長くして待っているから、
 早く行ってあげなさい」

せき立てられて悟空は錦襴袈裟を手に持つと、
「ではどうもお世話になりました」

菩薩と黒熊の姿が見えなくなると、
悟空は袈裟を樹の枝にひっかけ、
如意棒を片手に再び黒風洞に乗り込んで行った。
しかし、小妖怪どもが雲を霞と逃げ去ったあとには
蜘蛛の子一匹見当らない。
悟空は倉庫をあけて、
なかから燃えそうなものを運び出して
洞窟の中に積みあげると、惜しげもなく火を放った。
焔は見る見る燃えあがって、
さしもの黒風洞も一瞬にして火焔の巷と化して
焼けおちてしまったのである。

さて、一方、三蔵法師は
待てども待てども悟空が帰って来ないので、
やきもきしていた。
菩薩を迎えに行ったけれども菩薩が来なかったのだろうか。
それとも菩薩を迎えに行くのは口実で
本当は自分から逃げ出そうとしたのではなかろうか。

あれこれと空想妄想しているところへ
悟空がとびおりて来た。
「お師匠さま。袈裟をとり戻してまいりました」

見ると、悟空の手には錦襴袈裟が捧げられている。
「やれやれ。これで私たちも生命が助かったわい」

坊主たちは大喜びで、早速、ご馳走の用意にかかった。
「お前は昼前に帰ると言ったが、
 もう陽は西に傾きかけているではないか」
「それはお師匠さまに褒めてもらおうと思って、
 暴力の代りに平和的解決を望んだからですよ」

悟空がこれまでの経過を語ると、
三蔵法師はすぐ線香を焚き南の方を向いて礼拝をした。
それが終ると、
「では悟空、すぐ出発の用意をしなさい」
「冗談を言わないで下さいよ、お師匠さま。
 もうすぐ日が暮れるというのにこれから出発ですか」

坊主たちもひきとめるので、
二人はもう一晩だけ寺で泊ることにし、
翌朝早く、再び馬を連れて、観音寺院を出発したのである。

2000-10-23-MON

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