毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第三章 観音院の夕暮

二 観音院炎上

さて、返す気のない金でも、
くれとは言わずに貸してくれと言うのが
この世のならわしである。
袈裟をもって奥の部屋へ引込んだ老住職は、
明りのもとでそれをひろげて見ているうちに、
突然、わけもなく涙がほとばしり出て来た。
いい年をして泣くんじゃないと思っても、
涙が次から次へと湧いてくるのである。
「お師匠さまがさっきから泣きつづけています」
と小僧が方丈へ知らせに行くと、
ふだん老住職に可愛がられている坊主たちが、
ぞろぞろと奥の部屋へつめかけてきた。
「お師匠さま、何がそんなに悲しいのです?」
「あの唐僧の袈裟を見ることが出来ないのかと思うと……」
となおもしゃくりあげながら、
そのくせ両方の手はしっかりと袈裟を握りしめている。
「袈裟はお師匠さまの目の前にあるではありませんか」
「あっても今夜一晩だけ。
 二百七十歳の今日まで何百という袈裟を着てきたけれど、
 全部合わせても、この一枚の袈裟に及びもつかない。
 この袈裟を一日でも身につけることが出来たら、
 儂は死んでも本望じや」
「そんなことわけないじゃありませんか。
 あの人たちを一日ひきとめれば、お師匠さまは一日、
 十日ひきとめれば、十日、この袈裟を着ておられますよ」
「たとえ一年ひきとめたところで、それは一年だけの話。
 あの人たちが発つと言えば、
 どうしてひきとめることが出来よう」
「それならば、永遠に出発出来ないようにしてしまえば
 いいじゃありませんか」

見ると、それは広智という若い和尚であった。
老住職は泣く手をやめて、
「お前の考えをきかせてくれぬか」
「今頃、旅の疲れが出て、
 あの二人はグウグウねこんでいることでしょう。
 ねこみを襲ってパッサリやれば、それで万事解決です。
 死骸は裏庭に埋めてしまえば、
 話がそとへもれるようなこともございますまい」
「しかし、万一やりそこなったら?」
とそばで声がした。
見ると、これは広謀というもう一人のチエ者である。
「お師匠さま」
と広謀は声をひそめて言った。
「人を殺すにも相手を見る必要がございます。
 あの青白いインテリのような奴をやっつけるのは
 朝飯前ですが、
 あのギョロリとした人相の悪いのは
 ちょっと手ごわいですよ。
 万が一にもやりそこなったら、
 かえってひどい目にあうかも知れません。
 それょりも刀を動かさないで人を殺す方法がございます」
「新聞記者でも動員するのかね?」
「いやいや、新聞記者の中にも正義漢がいますから、
 万全を期するのは難しい。
 それよりも肉を斬らせて骨を斬れと
 むかしから言われています。
 お師匠さまは禅堂を犠牲にするだけの覚悟が
 ございますか?」
「ウーム」
と老住職はうなった。
「旅の僧が火の不始末から火事をおこしたことにすれば、
 袈裟はお師匠さまの手に入るでしょう。
 本堂の方はいずれまた義捐金を募集すれば、
 今までよりもっと立派なものを建てることだって
 出来るのです」
「そうだ。その方がいい。
 万一やりそこなっても申し開きが出来るからな」

そこで早速、寺の衆を総動員して、
薪を運んで禅堂の周囲に積みあげ、着々と準備をすすめた。

そんなこととは知らない三蔵法師と孫悟空は、
禅堂の中ですやすやとねむっている。
ただ悟空はタダの猿ではないから、
魂は夢の世界を彷徨していても、
耳は依然として不寝番をつづけている。
すると夜半になって、
にわかに人の行き来する足音がはげしくなってきた。
「おかしいぞ」

ガバとはね起きた悟空は
門をあけてそとの様子を覗きたいと思ったが、
三蔵が物音に驚いて目をさましたらいけないと
思いなおして、揺身一変、
たちまち一匹の蜜蜂に化けると
戸の隙間からそとへ忍び出した。

見ると、坊主たちがせっせと薪を運んでは
禅堂のまわりに積みあげている。
「こりゃお師匠さまの言った通りになってしまったぞ。
 畜生め。一把総からげに叩き殺してやりたいが、
 殺せばまた残酷だ無慈悲だと叱られるにきまっている。
 よしよし、向うがその気なら、こちらにも考えがある」

悟空は斗雲にとびのると、
一跳びに南天門までとびあがった。
南天門の衝兵たちは悟空の姿を見ると、
「やあ、大へんだ。天宮荒しの張本人がまた現われたぞ」
「おいおい、そうじゃないよ」
とあわてて手をふりながら、
「ちょっと広目天王に用があってきたのだ」

話をきいて広目天王が中から出て来た。
「やあ、しばらくじゃないか。
 観音菩薩の話だと、坊主になったそうだが、
 もう坊主が嫌になったのか」
「そう見縊るなよ。俺のこの恰好を見ろ」
「ウン、恰好だけは坊主らしいが、
 どう見ても生臭坊主だな」
「冗談を言っているひまがないんだ。
 実はお前の辟火罩児を貸してもらいに来たんだ」

悟空は火急の用について手短かに話をした。
「用がすめばすぐ返しにくるから、頼むよ」
「しかし、火を救うには水を借りるものと
 相場がきまっている。
 防火用具では仕方がないじゃないか」
「お前は知らないんだ。
 水を借りたら燃える寺まで助けることになるじゃないか。
 悪僧どもが自分たちの手で焼こうというのだから、
 焼いてしまえばいいんだ。
 ただ三蔵法師の生命だけはどうしても助けなくちゃ」
「相変らず猿の根性は曲っているわい」
「愚図愚図いうな。早く早く」
と悟空は広目天王をせき立てて、
奪うようにして辟火罩児を手にとると、
全速力で禅寺へとんで帰って来た。
そして、
三蔵法師と白馬と自分たちの荷物にだけそれをかぷせると、
自分は住職の部屋の方へ行って、錦襴袈裟の番をしている。

やがて坊主たちが薪に火をつけた。
頃合いと見た悟空は呪文をとなえて、
スーッと息を吸い込むと、ブーッとばかりに吹き出した。
すると見よ。
それは一陣の風となり、寺の方へ吹いて行った。
風を得た火は百万の援軍を得たようにパッと燃えあがり、
見る見る本堂をなめつくして方丈へと燃え移って行く。

あわてたのは坊主たちである。
火の粉のとび散る中をくぐって、
箱や行李や鍋釜を運び出しにかかったものの、
あまりもの出来事にただ呆然として
手も足も出しかねている。
火はいよいよ燃えあがって、焔が天をつくばかりであった。

2000-10-19-THU

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