毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻 第二章 馬上吟

三 竜頭蛇尾

二人が西へ西へと旅を続けているうちに、
いつしか秋もすぎて、寒風吹きすさぶ十二月になった。
崖をよじのぼり、
山道を這うようにして進んでいた二人は突然、
ゴウゴウと水の流れおちる声をきいた。
「悟空や。あの音はどこからきこえてくるのだろうか?」

馬上の三蔵がいうと、
「たしかこのあたりは蛇盤山の鷹愁澗いうところだったと
 思います。きっとあれは川のおちる音ですよ」

いい終るか終らないうちに馬は早くも
川のほとりに出ていた。
見ると、山と山に挟まれた幽谷に
しぶきを立てて流れがうずまいている。
「壮観なものだな」

感心して見惚れていると、流れが俄かに盛りあがって、
一匹の竜が水の中からとび出してきた。
「あッ」
と思わず悟空は叫んだ。
というのは竜が三蔵めがけて襲いかかってきたからである。

あわてた孫悟空は背負っていた荷物を投げ出すと、
両方の手で三蔵を馬から抱きおろして、
うしろも見ずに駈け出した。
竜はそのあとを追いかけたが、
到底追いつきそうにないと諦めたのか、
うしろの方を走っている白毛の馬を
鞍ごと一呑みに呑み込んで、
そのまま流れの底へともぐってしまった。

そんなこととは知らないから、
悟空は師匠を近くの山の上まで抱いてあがると、
今度は馬をつれに戻ってきた。
しかし、川のほとりには
さっき投げ出した荷物がころがっているだけで、
どこにも馬の姿は見当らない。
「どうも馬が驚いてどこかへ逃げたようです」

悟空が師匠のところへ戻って言うと、三蔵法師は、
「困った。困った。
 馬がいなくなったら、この先、どうやって旅を続けよう」
「なあに、ご心配には及びませんよ。
 私が必ず探し出して見せますから」

ポンと胸を叩いて宙返りをすると、
悟空は空中へとびあがり、
目を皿のようにしてあたりを見まわした。
が、草の間を一本一本丹念に見まわしても
馬の影らしきものは視界へ入って来ない。
「やっばり竜の腹の中へ納まってしまったようです」

悟空が報告すると、三蔵法師は、
「いくら大きな口を持っているといったって、
 まさか鞍ごとパクリとやるほど大きな口ではなかろう。
 きっと山の凹みの中にでも逃げ込んでいるんだよ。
 もう一度よく探してごらん」

「お師匠さま。あなたは私のこの両の目が
 ただの目だと思っているのですか?」
と悟空はひらきなおって言った。

「私のこの両の目は千里以内のものなら、
 どこをトンボがとんでいるかだって見えるのですよ。
 あのデッカイ馬が目の中に入らないわけが
 あるでしょうか?」

「もしそれが本当だとしたら、
 ああ、私はどうしたらいいだろう」

三蔵法師はいきなり目に手をあてると、
雨あられのようにポロポロと涙を流しはじめたのである。
「お師匠さま」
と苛々しながら悟空が言った。
「息子に先立たれたおふくろさんのような泣き方は
 やめにして下さい。
 私があの野郎をひきずり出して来て、
 馬を吐き出させてやりますから」

悟空が出て行こうとすると、
三蔵は泣いていた手をとめてあわててその袖をひっぱった。
「お前のいない隙に竜がまた私を襲いに来たらどうします?
 馬どころか、私まで食われてしまうかも知れないよ」

「あなたも一緒に食われてしまえば、
 何も苦労して極楽へ行かないでも
 極楽の方からこちらへやって来てくれるから
 丁度いいじやありませんか!」
と悟空は癇癪玉を破裂させんばかりにして怒鳴った。

「馬は欲しいし、その馬をとり返しに行っちゃ
 いかんというし、ここで年をとるまで
 荷物の番でもしているつもりですか?」

「………」

これにはさすがの三蔵もかえす言葉がなかった。
悟空は三蔵にお構いなく、
袈裟を脱いで例の虎の皮の猿股に着換えると、
如意棒を片手にさっさと川のふちへおりて行った。
「やい、気違いどじょう奴! おとなしく馬を返せ」

水の底深くひそんでいた竜はどじょうと呼ばれると、
むくむくと起きあがった。
静かだった水面が俄かに揺れて、ぬッと顔を出した竜は、
「誰だ。俺のことを侮辱する奴は!」

それを見た悟空は、
「さあ、そこを動くな。
 生命がほしいか、馬をかえすか、
 二つに一つの返事をしろ」

「なにを。生意気な口をききやがって」

悟空がクルリと如意棒を一回転させると、
竜も負けてはおらず牙をむいてたちむかって来た。
なるほど片一方は親からも勘当された
愚連隊くずれの前科者、もう一方は天をも欺いた猿軍の王。
ともに腕には自信があるから、川っぷちの広場を狭しと、
忽ち大格闘が展開された。

が、ヤクザは同じヤクザでも、
そもそも年期の入り方が違っている。
しばらく戦っているうちに、
かなわないと見た竜はひょいと身をかわすと、
水の中へとび込んで、底深くかくれてしまった。
「やい。臆病者。キンタマがあるなら
 出て来ていさぎよく勝負をしろ。
 でなきゃ、指をつめてあっさり頭をさげろ。
 それでも貴様、遊び人の仲間か。森の石松に笑われるぞ」

悪罵の限りを尽しても、竜は聞えないふりをしている。

仕方がないので、悟空は三蔵のいるところへ戻ってきた。
「近頃のチンピラは暴力をふるう時だけ一人前で、
 仁義の切り方ひとつ知らないらしいや」

「あの竜が真犯人かどうか、たしかめてみたかね?」

「たしかめて見なくとも、
 彼奴にきまっているじやないですか?
 でなきや私が叫んだ時に出てくる筈がありませんよ」

三蔵法師は坐ったまましばらく考えていたが、
「そう言えば、この間、虎を退治した時、
 お前は虎でも竜でも簡単にやっつけることが
 出来るようなことを言っていたが、
 あれは言葉の勢いだったのだろうね」

それをきくと、悟空はムッとして如意棒を握りなおした。
見ると、首すじまで怒りのために真赤になっている。
「よし、もう一度、オスかメスか、やって見るぞ」

怒りに狂った猿は川のふちまで駈けて来ると、
手に持っていた如意俸を川の中に突っこんで
目茶苦茶にかきまわしはじめた。
底まですきとおって見える鷹愁澗の水は
見る見るミキサーにかけられたように泡立ち、
かの百年河清を待つ黄河さながらの色に濁ってくる。
底にひそんでいた竜はだんだん不安になってきて、
「いいことは二つと重なってやって来ないくせに、
 悪いことは束になってやってきやがる。
 この間、やっと娑婆に出たかと思ったら、
 またまた手ごわい奴がやって来やがる。
 畜生奴、どうせ生きていたって、
 たんといいことがあるわけじゃないのだから、
 イチかバチかもう一度かみついてやれ」

そとへとび出すと、悟空に向って、
「やい、貴様はどこのチンピラだ?」

「ハハハハハ……」
と悟空は如意棒をとりなおしながら笑った。
「チンピラでもキンピラでもお前の知ったことか。
 それより黙って馬をかえしたらどうだ?」

「いかにも馬を食ったのはこの俺だが、
 一度胃袋の中へ入ってしまったものを
 どうやって吐き出させるつもりだ?」

「吐き出す気がないなら、
 吐き出せるものかどうかためして見るだけのことだ」

そういうと、
悟空は握っていた如意棒を竜頭めがけて打ちおろした。
素早く身をかわした竜は
やぶれかぶれになって猿に食いかかっては見たものの、
何と言っても斉天大聖の敵ではない。
悟空が如意棒を握りなおす隙に、
スルリと身体をくねらせると、
忽ち一匹の水蛇に化けて草叢の中へ這い込んでしまった。
その尻尾を見かけた悟空は間髪を入れずに
手をのばしてつかまえようとしたが、
もうその時には草の中に消えてしまっている。
「近頃の愚連隊はどいつもこいつもこういう調子だ」
ぷつぶつ言いながら、草の根を分けてさがしたが、
勿論、蛇尾の影も形も見当らない。

2000-10-16-MON

BACK
戻る