毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第八章 真理を求めて

一 太人宗口約を履行す

相良は貧しい水汲み人夫であった。
その日その日の生活さえ無事平穏に送ることが出来たら、
それで事足れりとする男であったから、
役人などとかかわり合いを持てば、
ろくなことはないと思っている。
そこへ天下に名の轟いた尉遅公胡敬徳将軍が
親ら尋ねて来たのだから、
腰の抜けるほど驚いたのも無理はない。
将軍の顔を見るなり、その場に土下座して
唖のようにロをつぐんだままなのである。

「ご老人よ」
と胡将軍は言葉をかけた。
「私は同じ勅使でもあなたに金銀をかえすように
 命ぜられてきた勅使なのだから、心配なさるな。
 さあ、椅子へお坐りなさい」
「いえいえ」
と相良は口ごもりながら
「手前はこのとおりの貧乏暮らしで、
 高利貸しをやった覚えはございません。
 身に覚えのないお金を受けとることは出来かねます」
「でもあなたは信心深くて、ふだんから金銀紙を焼いて
 仏に仕えているそうではありませんか。
 そのお金が冥土の銀行に定期預金されて、
 今では莫大な金額にのぼっているそうです。
 太宗皇帝が冥土を旅行したおり、
 そのお金を融通してもらったので、
 お返しせよというご命令なのです」

しかし、相良夫妻は御殿の方角へ向きなおって
何度も頭を地にすりつけるだけで、
どうして金を受取る気になるであろうか。
「冥土のことは冥土のこと。
 人もあろうに皇帝さまが私からお金をかりるなんて、
 そんな滅相なことがあり得ましょうか。
 もしどうしてもこの金銀を受けとれとおっしやるなら、
 私は死んでしまいます」

そうまで言われると、
いくら胡将軍でも無理強いすることは出来ない。
そこで人を長安に派遣して、事の次第を奏上に及んだ。
太宗皇帝はますます感心して、
「今どきほんとうに珍しい人だ。
 どうしても受けとらないなら、
 そのお金でこの夫婦のために
 お寺を立ててやろうじゃないか」

皇帝は胡敬徳に命じて、相良の善行を記念するために、
開封府に壮大な寺院を修築させることになった。
この寺院は「勅建相国寺」と呼ばれ、敷地がおよそ五十畝、
本堂の左手に相良夫妻の記念堂が建てられている。

さて、この寺院建設計画が一段落すると、
皇帝は全国に布告を出して天下の名僧を長安に集め、
いつか冥土で崔判官に約束した例の水陸大会を
開催することになった。
このニュースがつたわると、
かねてから国粋主義者をもって自他ともにゆるしている
太史丞の傅奕がまず反対運動に乗り出した。
傅奕は
「この世に神や仏などあるものか」
という彼一流の無神論を識者の間に説いてまわった。
意外に多くの支持者があったので、
このぶんなら一大国民運動を展開するのも
夢ではないと考え、更にすすんで次のような意見書を
太宗皇帝にさし出したのである。
「私のきいておりますところによれば、
 西域には君臣父子という上下長幼の秩序すらありません。
 そこで悪事を働けば、地獄におちるぞ、
 畜生に生まれかわるぞ、餓鬼になりはてるぞ、
 また善事を働けば、極楽に行けるぞ、
 と言って愚かな人間をだましたりおだてたりするのです。
 思うに生死や寿命はもともと自然の現象で、
 刑罰や禍福は人為の現象にすぎません。
 それなのに脅かしや利害をもって勧善懲悪をなすのは、
 人民の自然心を麻痺させる
 憎むべき阿片というよりほかありません。
 私どもには昔ながらの名君と忠臣の思想がございます。
 これさえあれば、わが国は立派におさまっていくのです。
 しかるに近頃は青年の間に口をひらけば、
 南無阿弥陀仏と唱える歌ごえ運動が
 ようやくさかんになってきました。
 これは西域の思想的侵略主義であって、
 政府が仏法の奨励をすることはとりもなおさず、
 植民地化の片棒を政府自身がかつぐことに
 ほかならないと信じます」

太宗皇帝は意見書を見ると、内心不愉快に思ったが、
そこが皇帝という職業のつらさ。
素知らぬ顔をして意見書を閣僚にわたし、
「諸君のご意見をきかしてもらいたい」
と言った。
しかし、大臣になるような人物は大抵、
上の者が何を考えているかぐらいのことは
敏感に感じとる特殊の嗅覚をもっているから、
皇帝の真意に反するような議論をするはずがない。
宰相の簫が太宗の前にすすみ出て、
「仏法はなるほど西域から入って来たものでございますが 、
 わが国に南無阿弥歌ごえ運動がおこって以来、
 理想を説くものが多くなり、
 それだけ悪事を働くものが少なくなりました。
 国家的見地から見ても、
 まことに喜ぶべき傾向だと思います」
「はばかりながら申しあげます」
と傅奕が脇から異論をさしはさんだ。
「ご存じのとおりわが国の美風良俗は
 礼を重んずることでございます。
 礼の根本は親に仕え、君に仕えることでございます。
 しかるに仏法は親にそむいて出家することを教え、
 また匹夫でありながら天子に反抗することを教えます。
 宰相は坊主の家に生まれたのでもないのに、
 親の教えに従わないで、
 親も子もない教えを信じているようです。
 これこそ親不孝者であるという
 何よりの証拠でございます」

しかし、
宰相は反論をこころみる気はいっこうにないと見えて、
両手を合わせると、南無阿弥陀仏を唱えながら、
「あなたのような人のためにこそ
 地獄は設けられているのです」
と言いかえした。

これでは議論にならないので、
太宗は更に有識者からなる諮問委員会にかけて、
結論を出させることになった。
さっそく、緊急会議が開かれ、
その結果、次のような上申書が提出された。
「歴史の証明するところによれば、
 もっとも偉大な胃袋をもった国家こそ
 もっとも偉大な国家であります。
 なるほどわが国には古来の美風良俗がありますが、
 それは長い間に自然に出来上ったもので、
 外来思想によつてたちまちのうちに滅ぼされるような
 性質のものではありません。
 いや、むしろ新しい思想による刺戟がなければ、
 古来の思想そのものが動脈硬化をきたす
 危険性があります。ちょうど、老人が時々、
 美人に接しなければきわめてすみやかに
 老衰するようなものです。どうかその点をお含みの上、
 良識あるご裁可を仰ぐことが出来れば、
 私ども一同の喜びとするところであります」

上申書を見た太宗皇帝はすっかり上機嫌になり、
「もっともな意見だ。
 以後、再び議論をむしかえすものがあれば、
 厳重に処罰するぞ」

この鶴の一声で、さしもの反対運動も
まったくかげをひそめてしまったのである。

そこで最初の予定通り、水陸大会の準備は着々と進行した。
運営委員会の正副委員長に任命された魏徴と簫は、
長安へあつまってきた僧侶の中から千二百名の僧侶を、
更にその中から当日の主役をつとめる
徳行の誉れ高き名僧を一名選ぶことになったが、
さて徳行の誉れ高き名僧とは誰であろうか。

皆さんもおそらく既に見当がおつきであろう。
徳行の誉れ高き名僧と言っても、
政治家の手によって選ばれる名僧は
いずれ毛並みがかなりに重要視されるのである。
年若くして、われらの玄奘法師が
この名僧の栄位に選はれたのも、
外祖父が殷開山丞相であったこと、
父親の陳光蕊がかつて状元であったことなどの
世俗的な条件が物を言ったのであろう。
何故ならば、徳というものは、
政治家たちの目に見える種類のものではないからである。

しかし、玄奘が名僧に選ばれたことは、
毛並みということを離れても、
いちおう妥当な人選であった。
外祖父に連れられて都入りをした玄奘は
洪福寺に僧籍をおいていたが、
父の仇を討とうとしてかえって母を殺して以来、
この世における栄耀栄華には
いっさい関心がなくなってしまい、
ひたすら経典の中に埋没している。
そうなると、元来が頭脳明晰な男であったから、
同門の間で次第に頭角をあらわし、
当時、長安の都で名声のあった老僧たちから早くも
「そなたは釈門千里の駒である。
 将来、釈尊の教えを輝かすのはまさしく御身であろう」
と激賞されるまでになっていたのである。

玄奨は、魏徴と簫に案内されて、
ある日、宮殿に参上した。
二人が玄奘を紹介申しあげると、
太宗はしばらく考えていたが、やっと思い出したように、
「陳玄奘と言えば、大学士陳光蕊の息子の玄奘か?」
「ハイ」
と玄奘が頭をさげると、太宗はいたく喜んで、
「お父さんの若い頃とよく似ているなあ」
と頭をなでんばかりであった。
太宗は僧侶の最高位にあたる都僧綱の職を玄奘に賜わり、
また五彩の袈裟や毘蘆帽を御下賜になった。
弱冠の玄奘が身にあまるこの光栄に
感激したこというまでもない。

さて、水陸大会は貞観三十三年九月三日未明を期して、
長安城の化生寺において
幕を切っておとされることになった。
大会はこの日から七七、四十九日にわたって
続けられるのである。

当日の朝になると、新任の都僧綱玄奘法師は
千二百名の高僧を率いて会場に入り、
それぞれ所定の位置についた。
太宗皇帝もまた、文武百官をひきつれて、
金鑾宝殿を出発する。
錦の御旗を先頭に、南瓜や香炉をささげた家臣や槍持ちが
長い行列をつくり、そのうしろから御車を守る衛士の群れが
しずしずと続いて行く。
ちょうど、御車が寺の門前に到着すると、
それを合図に楽隊の吹奏がはじまった。

太宗皇帝は御車を下りると、
僧侶のズラリと並んだ間をかきわけるようにして、
まっすぐ仏を祭った祭壇の前に進み出た。
見ると、遥か高い壇の上には金光燦然たる
釈迦如来の像がこちらを見おろしている。
哀れなる人間の孤独なる魂に無限の慈悲を垂れるような
無念無想の表情である。
ことに一度冥土の大旅行をして、
人間の弱さ、ハカナサを痛感している太宗の目には、
この諦めきったような表情が
かえって永遠に通ずるもののように思えて、
無意識のうちに両方の掌が合ってしまったのである。
「ナムアミダ」
「ナムアミダブツ」

千二百の口から、この時、
一せいに荘重な合言葉が流れはじめた。
嗄れた声、若やいだ声、欲情を押しつぶしたような声、
人間の諸の感情をこめたそれらの声が、
押し合いへし合いしながら会場に乱れとび、
やがて巨大なる旋律となって
大空高く響きわたって行ったのである。

2000-10-07-SAT

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