毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第五章 宗教大攻勢

五 長 安 の 花

ここは西の大国、長安大唐国である。
長安城は歴代の帝王の居城となった由緒あるところで、
今は唐朝、太宗皇帝の御代、年号を貞観と呼んでいる。
皇帝の即位以来、泰平の世がつづき、
早くも十三年の歳月が流れていた。

一日、皇帝は文武百官を集めて謁見を賜わった。
群臣の中から丞相の魏徴が進み出て、
「恐れながら申しあげます。
 当今は天下泰平、
 人民は言論の自由を十二分に享楽しております。
 政府のやることには何でもかでも反対し、
 反対さえすれは反骨精神があるものと信じ込み、
 ひとり悦に入っている人間がたくさんいることが
 何よりの証拠でございます。
 これもとより陛下の御稜威によるものでありますが、
 大体、これらの徒輩は
 事に臨んで役に立たない連中ですから、
 とりしまるにも足りません。
 それよりも大切なことは人民の中から賢士を集め、
 人材を登用して政界の動脈硬化を防ぐことだと存じます。
 このためには古来の法にのっとり、
 官吏登用試験を再開するにこしたことはありません」
「もっともな意見だ。早速、実行に移すがよい」

太宗皇帝は即座に批准をお加えになったので、
間もなく高等文官試験の期日が発表され、
軍民老幼を問わず、
知識学問のある者は長安の都に集まるようにという布告が
全国津々浦々にまで貼り出された。

陳光蕊は海州の人である。
或る日、町へ出て役所の掲示板でこの布告を見た。
家へ帰ると、彼は母親に向って言った。
「お母さん。今度、
 長安の都で科挙の試験が行われることになりました。
 首尾よく合格すれば家門の誉れでありますから、
 受験に行きたいと存じますが、
 お許し願えますでしょうか?」
「ああ、いいとも」
と母親の張氏は答えた。
「ただ何分にも世間ずれのしていないお前のことだから、
 道中くれぐれも身体には気をつけるのだよ」

そこで光蕊は早速、旅装をととのえ良安へとやって来た。
長安には全国から何万という受験生が集まってきている。
光蕊はその中にまじって試験を受けたが、
思いもかけず首席で合格した。
首席で合格したものは状元と言い、
皇帝から親筆の証書を授与される。
板にかかれたその証書を手に、
馬にまたがり美しい花を探して都中をまわるのが、
この国の習慣になっているのである。

光蕊はまだ二十歳を少しすぎたばかりの
眉目秀麗の青年だった。
実力の世界とはいいながら、
思いがけない好運にただただもう夢見心地である。
“長安は住みやすからず”
という言葉もある通り、
この城下は天下の富を集め、
贅を尽した豪壮な邸宅が軒を並べている。
瓦を敷きつめた通りを歩いて行くと、
とある高楼のまわりに人だかりがしていた。
「何かあるのですか?」
と彼は傍らの人にきいた。
「殷丞相のお嬢さんが打繍毬をやるところですよ」
とその人は答えた。
打繍毬とは年頃になった名家の令嬢が、
集まってきた男たちの中からこれと思った男に
自らてまりを投げて婿を選ぶ儀式である。
ずいぶん不思議な風習と思われるかも知れないが、
これはこの国の人々が結婚をミズモノと考え、
いい婿にあたるのも運なら、
悪い良人にあたるのも運だと諦めているせいなのである。

こういう婿選びの風習が長安の都で行われていることは
かねて噂にきいてはいたが、
実地に見るのははじめてであった。
光蕊は馬に乗ったまま、
人だかりの中をわけて入って行った。

なるほど朱く塗られた建物の二階の窓が開かれている。
ふと顔をあげると、そこに美しい女が立っていた。
女というよりは可愛らしい少女と言った方が
あたっているかも知れない。
両方の耳を覆うように髷を結っており、
その下にキラキラと翡翠の耳飾りがゆれ動いている。

少女は光蕊に気がついたらしい。
彼に向ってこころもち微笑して見せた。
一笑千金とこの国の詩人がうたったのは多分、
こんな微笑のことを指しているのであろう。
光蕊も思わず知らず微笑をかえした。
すると、少女はいきなり手をふりあげて、
もっていた毬をこちらへ向けて投げてきた。
毬は光蕊のかぶっていた烏帽子あたった。
その途端に、
「わあッ」
と周囲から歓声があがった。
と同時に笛や太鼓の音が一せいに鳴りはじめ、
邸の扉があいて十数人の婢女が駈け出してきた。
彼女たちは光蕊の乗っていた馬の手綱をつかまえると、
「若殿さま、さあ、どうぞこちらへ」
と有無をいわさず、邸の中へ引っ張り込んで行く。

中へ連れて行かれると、
そこにはすでに結婚式の用意が整えられていた。
丞相と令夫人が盛装をこらして大広間に現れる。
客たちがぞろぞろとつめかけて、
口々におめでとうを唱えている。

何が何だかわけのわからないままに、
光蕊はお嬢さんと二人並ばされ、天地を拝んだり、
二人向い合わせになって夫婦の礼を交わしたり、
また岳父岳母に挨拶をさせられたりした。
そのあとで結婚式の披露が行われ、
幾百千の貴賓が酒席に連なった。

何しろ当今のように新婚旅行の汽車が
待っているわけではないから、
客たちはなかなか二人を離してくれない。
新郎は秀才で、新婦は才媛ですというおきまりの演説を
酒を飲んだ勢いにまかせて長々とはじめるので、
宴会が終って二人っきりの部屋へ入った時には、
花婿も花嫁もくたくたになっていた。
「僕は夢を見ているんじやないだろうね」
と光蕊は新妻の肩を抱きながら言った。
「あんまり好運が続きすぎると、
 何となくおそろしくなってくるよ」

2000-09-28-THU

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