毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第五章 宗教大攻勢

四 その人の名は?

猪八戒に別れた観音菩薩は恵岸行者を伴って
再び東へ向った。
しばらく行くと、ヒヒヒン、ヒヒヒンと
泣き叫ぶ声がどこからともなくきこえてくる。
ふと見あげると、中空に一匹の竜が釘付けにされている。
「お前は何者だ?」
と菩薩がきいた。
「私は西海竜王敖閏の息子です。
 火遊びをして誤って殿上の明珠を焼いたために
 オヤジから勘当され、
 その上、玉帝から三百の杖刑に処せられました。
 どうかご慈悲ですから、お助け下さい」
「ここに繋がれているのはそんなに苦しいか?」
「苦しいも苦しくないも、こんなことと知っていたら、
 火遊びなどは絶対にやらなかったでしょう。
 今はマッチの顔も見たくはありません」
「それなら私が玉帝のところへ行って
 話をつけて来てあげよう」

菩薩はそう言うと、ただちに雲にのって南天門に入り、
玉帝にお目通りを願い出た。
邱、張両天師が霊零殿に案内すると、
菩薩は御前に進み出て、
「ここへ参ります途中、
 中空に一匹の竜が繋いでございましたが、
 あれをしばらく私にお貸しいただけませんでしょうか。
 東土から西方へ経典をとりに行く使者の役に立てたいと
 存じますので …… 」

玉帝が願い通りお許しになったので菩薩は
天将から竜を貰いさげると、
そのまま谷川のほとりまで連れて行った。
「ではここでおとなしく待っているんだぞ」

そう言って軽く頭を撫でると、
竜はたちまち一頭の見事な白馬に変じ、
空に向っていななきながら、
草原の中へと走り去って行った。

二人は再び旅をつづけた。
やがて長安大唐国の国境へ近づくと、
地上から燦然と光を放っている山にぶっつかった。
「お師匠さま」
と木叉太子が叫んだ。
「あれが五行山です。
 天の反逆児斉天大聖を
 如来さまがおとじこめになられたところです」
「そぅだったなあ」
と観音菩薩は感慨深そうに言った。
「今、考えてみると、あの猿はなかなか大したものだった。
 善悪の区別がつかないのが玉に瑕だったが、
 善悪を気にして小心翼々と生きている奴よりは
 よっぽどましだ。
 一騎当千どころか、十万の天兵を相手どって
 一歩もひけをとらなかったんだからな。
 もうあんなスケールの大きな奴には
 二度とお目にかかれないだろう」
「誰だ。そこで俺の噂をしているのは!」
と、山の麓から声がかかった。
「おやおや、きき覚えのある声だぞ」

二人が急いで山の麓に下りて見ると、
牢獄の番をしている土地神や山神が
あたふたと駈けつけてきた。
「斉天大聖はどこにいる?」
「こちらの方です」

案内されて石段を下りると、
そこには身動きさえ自由に出来ない天然の石牢があって、
一匹の猿がとじこめられている。
「孫さんよ」
と菩薩が呼びかけた。
「私が誰だか覚えているかね?」

猿は目を見開くと、大きな声で叫んだ。
「覚えているとも。覚えているとも。
 あなたは南海普陀落伽山の観世音菩薩だ。
 どうして今時、ここへおいでなすった?」
「如来の命を受けてこれから東土へお経をとりに来る人を
 探しに行くところだが、ここを通りかかったので、
 ちょっと寄って見た。
 どうだ、少しは石牢の味が身にしみたかね?」
「しみたもしみないも、
 ここの一日は天界の一年ぐらいの長さがある。
 天界の一日は地上の一年だから、
 ここの一日は三六五日の二乗の長さだ。
 顔見知りは一人として来てくれないし、
 食うものといえば鉄丸に銅汁ときている。
 いくら気の強い俺でも弱気になってしまうよ」
「お前が弱気になるなんてとても信じられないね。
 ばくち打ちに弱気は禁物だよ」
「でも本当なんだ。俺はつくづく世の中が嫌いになったよ」
と孫悟空は言った。

「俺が覇王として羽振りのよかった時分には、
 諸国の王侯も論客も俺のところに日参して
 オベンチャラを言ったものだ。
 しかし、俺がここにとじこめられて、
 もう二度と日の目を見ないだろうとわかったら、
 さし入れをしに来るどころか、
 手紙一本よこすものもおらん。
 世間なんてずいぶん薄情なものだ。
 つくづく愛想がつきた。
 たとえまた自由の身になっても、
 もう権力などに未練はない。
 頭をまるめて坊主になりたいよ」
「私に助けてくれとは言わないのかね?」
と菩薩は二ヤニヤ笑いながら言った。
「助けてくれと頼んで、
 手をさしのべてくれるような方なら、
 俺は三拝九拝、あなたを拝み倒すさ。
 でもあなたは疑い深い方だから、
 困った時の神だのみはやらないよ」
「お前は私をよく知っているね、フフフ …… 」
と菩薩は含み笑いをしながら、
「もちろん、
 私はお前が前非を心から悔いているとは信じていない。
 仮に信じていても、お前を助けることは出来ない。
 地上の人間どもが慈悲心に感動して、
 昔の仇をすっかり忘れ去るほど善良に出来ているとは
 思わないからね」
「それはあなたの考え違いだ。
 犬でさえ一飯の恩を一生忘れない」
「犬は智能が低いからそうだが、猿はどうだろう。
 猿は一すじ縄では行かないよ」
「ひやかしならやめてくれ」
と牢中から悟空は怒鳴った。
「人の弱味につけ込むなんて、
 大慈大悲の観世音菩薩らしくもないぞ」
「それそれ」
と菩薩は言った。
「お前はまだなかなか気が強いじやないか。
 じや、あばよ。
 せいぜい元気で暮らしなさい」
「待ってくれ」
と猿はあわてて呼びとめた。
「俺は本当に出家になろうと思っているんだ。
 あなたに迎合してそう言っているわけじゃないんだよ」
「わかっているよ」
とふりかえりながら菩薩は言った。
「今にお前を助けに来てくれる人が現われるよ。
 お前とはこれまで何の恩讐もなかったんだから、
 お前は素直にその人を
 生命の恩人と思うことが出来るだろう」
「その人はいつ来るのですか?」
「さあ、いつ来るだろうかね。
 お前の運がよければ、明日にも来るかも知れないし、
 運が悪ければ、素通りしてしまうかも知れない」
「その人は誰です? 何という名です?」
と悟空は懸命になってきいた。
「その人の名は言えないよ」
と菩薩は悪戯っぽく微笑しながら、
「さあ、早く行こう」
と弟子の恵岸行者を促した。

そとへ出ると、恵岸行者は菩薩の方を向いて、
「あの猿は本当に後悔しているでしょうか?」
ときいた。
「牢獄に人を改心させる威力があれば、
 もともと牢獄の必要がないよ」
と菩薩は答えた。
「でもお師匠さまは、孫悟空をお経をとりに行く人の
護衛者に使うつもりじゃないのですか?」
「そうだよ」
と菩薩は平気な顔をしている。
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫だと思うね」
と菩薩は相変らず微笑をつづけながら、
「五百年も苦行をすれば、
 悪党でも悪党なりに悟るところがあるものだ。
 もしあの猿が心から後悔をして腰が折れていたら、
 使いものにならないだろう」
「そりゃそうかも知れませんが」
と木叉太子はまだ半信半疑の様子である。
「どうしてお師匠さまは選りに選んで放火魔や
 殺人魔のような前科者ばかり集めるのでしょうね。
 一人としてマトモな人間はいないじゃありませんか?」
「それは悪党の方が話がわかるからさ」
と菩薩は言下に答えた。
「悪党なら人の口車に乗って
 ダマされたりなんかしないだろう。
 人にダマされるような奴らばかりでは、
 だいいち面白い小説になるはずがないじやないか。
 ワッハッハハハハ …… 」

五行山を越えれば、目ざす長安大唐国は
すでに指呼の彼方である。
程なく二人は大唐国の城下に近づいた。
「では乞食坊主に化けるとしよう」
と菩薩は雲から下りながら言った。
二人は癩病やみの坊主になりすますと、
夜陰にまぎれて城下へしのび込み、
とある城隍廟の中へと入って行ったのである。

2000-09-26-TUE

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