毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第四章 苦節五百年

第四章 苦節五百年

四 苦節五百年

斉天大聖孫悟空は命によって斬妖台に引き立てられた。
天兵たちは彼を柱に縛りつけると、刀や斧を使って
滅多切りにしたが、悟空の身体は一向に傷つかない。
そこで今度は南斗星が部下に命じて火焙りの刑を加えたが、
火ぐらいでは悟空の身体を焼くことができない。
次には雷神を動員して頭から雷を落してみたが、
これも悟空には効果がない。
万策尽きて、大力鬼王は恐る恐る玉帝にその旨上奏した。

「さて、どうしたものだろうか」
と玉帝が首をかしげると、太上老君がこういった。

「あの猿は蟠桃、御酒、仙丹を飲んでいますから、
 ちょうど、猛火で鍛えた
 鋼鉄のような身体になっています。
 私のところへ連れて行って八卦炉の中で
 りなおして見ましょう。
 うまく仙丹をり出せたら、
 肉体はたちまち灰燼に帰してしまうはずです」

そこで玉帝は六丁六甲に命じて、
悟空を老君の住む兜率宮まで護送させた。
老君が悟空の縄を解いて、八卦炉の中へ
つきおとそうとすると、悟空は老君をにらみつけて、
「老君よ。
 道は混沌として一つだといったのはあなたでしょう。
 道と一体になる術を覚えたら
 人間は永遠に滅びることがないといったのも
 あなたでしょう。
 私は身をもってそれを実行して
 今日におよんでいるのに、
 もしあなたが私を滅ぼすことができたら、
 あなたはそれこそ自分の指先で
 自分の眼の玉をえぐるようなものですぜ」

「儂はそんなことをいった覚えはないぞ。
 泥棒猿め!」

「あなたでなきゃ、あなたの一番弟子の荘子がいったんだ。
 聖人が金庫や鍵を発明すれば、泥棒も金庫や鍵を盗んで、
 それで盗んだものをしまっておくといったのは!
 そうだ。そうだ。
 悪い奴は道を盗んだ奴じやなくて、
 道を発明した奴だ」

「つべこべいうな。
 お前が儂の徒弟ならもう少し
 死に際がきれいなはずだぞ」

いうなり炉の蓋をすると、
老君は道人や童子に命じて火を入れさせた。
この炉はその名も示す通り八つの方位よりできている。
その中の巽という方位は風にあたるのだから、
風が吹けば火は追われる理屈である。
そう思って悟空はその方向に身をよせていると、
はたして火はもえて来ないが、
そのかわり煙が目の中に入って来て、
とても目をあけてはいられない。
ちょっとでも目をあけると、
たちまち涙がにじみ出てくるのである。

月日の経つのは早いもので、
炉に入れられてから七七、四十九日が経過した。
すでに火は完全にまわっていて、
これならいくらあの猿でも骨と皮の見さかいも
つかなくなっていることだろう。
そう思いながら、
仙丹をとり出すつもりで老君は炉の蓋をあけた。
煙にいぶされて涙をとめようとしても
とめられないでいた悟空は、
炉の隙間から光が射しこんでくるのを見ると、
いきなりそこからパッと外へとび出した。
驚いたのはまわりにいた連中である。
悟空は気の違った虎のように、
そこいらじゅうの者を蹴散らし、
あとから追いかけてくる老君を爪先でひっかくと、
素早く耳から如意棒をとり出した。
それをブンブンふりまわしながら、
「何が天網恢恢だ。
 粗にして大いに失うじやねえか、クソ爺め!」

さあ、こうなったら上も下もあるものか。
天も地もあるものか。
自信がある者はどこからでも来い。
勇気のある奴はかかって来い。
孫悟空は文字通り鬼に金棒、
両の手をピストンよろしく動かしながら、
天界を縦横無尽に暴れ出した。
その凶暴ぷりに九曜星はあわてて戸をしめてしまい、
四天王はどこへ逃げたのか影も形も見えない。

猿王は目につく奴は片っばしからなぎ倒し、
蹴りとばし、一路通明殿へと攻め込んで行った。
幸い、霊霄殿のそとに佑聖真君の補佐官の
王霊官が控えていて、孫悟空の前に立ちふさがった。

「さあ、我輩が相手になってやるぞ」

悟空は有無も言わずに棒をふりあげると、
相手におどりかかって行った。
霊官も金鞭をふりあげ、直ちにこれに応戦する。
二人が戦っている間に佑聖真君は飛脚を雷府にとばし、
三十六人の雷組を狩り集めてきた。
駈けつけた雷将たちは四方八方から孫悟空を包囲して、
さかんに雷をおとすが、
孫悟空は少しも恐れる気配を見せず、
如意棒一本で獅子奮迅の大熱戦。
相手の数がふえると、今度は三頭六臂になって、
一本の如意棒を三本にふやし、
六本の腕がそれを糸車のようにクルリクルリと廻転させる。
その勢いにのまれて誰一人として
そばに近よるものがいない。

事の意外な発展に駕いた玉帝は遊霊官と聖真君の
二人を使者として西方の仏老のもとに急派し、
救援を求めた。
二人は霊山のあたり雷音寺の山門に至ると、
門を守る四金剛に取次ぎを乞うた。
やがて八菩薩にともなわれて
宝蓮台のもとへ招き入れられた。
二人は玉帝の親書をうやうやしく捧呈した。
それを手にとった釈迦牟尼如来は、
「それはそれは玉帝もさぞお困りでしょう。
 ではすぐまいりましょう」
とすぐに腰をあげ、阿難、迦葉の二人の弟子を伴うと、
霊霄殿へ向ってやって来た。
門を入ろうとすると、
耳を塞ぐようなかしましい音がしてくる。
三十六人の雷オヤジ連がたった一人の孫悟空に向って
集中攻撃をしている最中である。

「皆さん、どうか戦いをやめて、
 この大聖とやらをこちらに出して下さい」

如来がそういうと、
皆の衆は一せいに武器をおいて後退した。
悟空も魔術をといてもとの姿へ戻ると、
眉毛をつりあげながら、
「貴様はどこの調停魔だ。
 第三勢力なんぞ俺は認めねえぞ」

「私は西方極楽世界の釈迦牟尼尊者南無阿弥陀仏だ」
と如来はにこやかに笑いながら答えた。
「さっきから見ていると、
 お前はなかなかいい腕を持っているようだが、
 どういうわけでまたこんなに天を騒がすのかね」

「知りたくば教えてやろうか」
と斉天大聖は鼻の穴をピクピクさせながらいった。
「我こそは天と地が混然融合して生まれた花果山の老猿。
 水簾洞を根城に家業に励み、やがて積んだ修行苦行。
 遂に長生の術を覚え、またまた変化の術を学び
 世界に覇をなす王者となった稀代の大業師。
 だが如何せん、地球は狭い。
 どうせなるなら天の王者と誓いを立てて、
 遙々ここまでやって来たのだ」

「つまりお前が玉帝を追い出して
 代って天を支配しようというのかね」
と如来はききかえした。
「お前は玉帝が今年いくつにおなりになるかご存じか。
 玉帝は生まれてからこれで一千七百五十劫になる。
 一劫といえば十二万九千六百年だから、
 お前に算術ができるならちょっと勘定してごらん。
 それに比べるとお前はまだ
 生まれ立ての青二才じゃないか」

「なるほど年だけは俺より上かも知れんが、
 年輪を重ねているだけが能じゃあるまい。
 大体、年寄りはほかに自慢するものがないものだから、
 亀の甲より年の功を誇りにしたがる。
 だが、歴史の本を読んでみろ、
 いつの時代だって実力がものをいう世界だ。昔から
 “皇帝は盥まわしでなるものだ、
 明日は我が家へまわってまいる”
 というじゃないか。
 調停人が出て来たからにはちょうどよい。
 俺の条件はただ一条、
 玉帝にここから出て行ってもらいさえすればいいんだ」

「あんまり大きな口はきかない方がよいよ」
と如来はたしなめた。
「お前は不老長生の術と七十二変化の術を
 知っているそうだが、
 その程度のことでどうして天界が支配できよう?」

「何のそれだけなものか。
 俺はそのほかに斗雲にのることができる。
 一とび十万八千里の斗雲だぜ。
 これだけの実力があっても
 まだ天位に就けないというのか?」

「では私と賭けをしてみよう」
と如来は静かにいった。
「もしお前がその斗雲とやらに乗って、
 私のこの右の掌からとび出すことができたら、
 お前の勝にしよう。
 その場合には私から玉帝におすすめして
 西方へ遷都していただき、
 天位はお前に譲らせましょう。
 その代りもしお前が私の掌からぬけ出すことが
 できなかったら、もう一度下界へ戻って
 顔を洗ってから出なおすんだな」

それをきくと、孫悟空は内心しめたと思った。
如来の掌なんかいくら開いたところで
一尺にも満たないじやないか。
一とび十万八千里の俺の腕前で、
どうして奴の掌からとび出せないわけがあろう。

「それじゃおっしやる通り賭けをしよう」
と悟空はいった。
「その代り約束は守るでしょうね」

「大丈夫、紛束は守るさ」

笑いながら如来は右の手を開いた。
その大きさは蓮の葉ぐらいの大きさもあろうか。
孫悟空は如意棒をしまうと、
ヒラリととびあがって如来の掌の上に乗った。

「用意はいいかね」

「ああ、いいとも」
と如来は答えた。

「ようし、行くぞ」

声と共に如来の掌をとび出した悟空は、
光のような早さであっと思う間に
影も形も見えなくなってしまった。
如来は悟空がまっしぐらにとんで行くのを
じっと眺めていたが、
別に妨害するでもなく、行くに任せている。

およそ何百万里ぐらいとんだだろうか。
悟空はふと行く手に五本の大石柱が立っているのに
ぶっつかった。

「おやおや、天に涯がないかと思っていたが、
 やはり涯があると見えるぞ。
 さあ、これで天界は俺のものだ」

内心ホクホクしながら、孫悟空は考えた。

「だが待てよ。ここまで俺が来た証拠を
 のこしておかなくちゃ、あとで論争のもとになる。
 よしよし、こうしておこう」

彼は身体から毛を一本抜きとってプッと息をかけながら
「変れ!」
と叫ぶとたちまち一本の筆が現われた。
それを手に握ると五本ある柱の真中の柱に、
「斉天大聖此に遊ぶ」
と大書した。
それから毛を身体におさめると途端に小便がしたくなった。
「ついでだ。もう一つ証拠をのこしておけ」

今度は第一の柱のそばへ近づくと、
シャーとばかりに小便をひっかけた。
それがすむと、再び斗雲に乗り、
威勢よくもとのところへもどって行った。
如来の掌の上に棒立ちになった悟空は声をはりあげると、
「さあ、玉帝のところへ行って
 俺に位を譲るようにいって来てくれ」
「世界中で立小便をするのは、
 犬と日本人とそれからお前だけだ」
と如来は怒鳴りつけた。
「私の掌の中で小便なんぞして臭くてたまらんじやないか」

「そんなことがあるものか」
と悟空はいいかえした。
「俺は天の涯まで行って五本の柱にぶっつかった。
 嘘と思うなら、これから俺と一緒に行こう。
 ちゃんと証拠は残して来たんだから」

「行く必要はないよ。頭をさげて、よおく見てごらん」

いわれた通り頭をさげると、如来の右手の中指に
「斉天大聖此に遊ぶ」
と書いてあるではないか。
さらに親指のところを見ると、
小便の匂いがプンプンと匂っている。
悟空はすっかりあわてて、
「そんなバカなことがあってたまるものか。
 俺は確かに天の涯までとんで行って、
 柱に書いてきたのだ。
 とても信じられん。とても信じられん。
 もう一度行って見てくる」

そう叫びながら如来の掌からとびあがろうとすると、
如来は掌をかえして軽く孫悟空を叩きおとした。
それから西天門外まで押し出して、
五本の指で金、木、水、火、土をこねて、
五つの連山からなる五行山をつくり、
猿の頭の上からおさえつけてしまった。

こうして天界には再び平和が恢復されたのである。
光は再び輝きをとりもどし、香りは天に満ち、
無限の旋律は途絶える間もなく鳴りつづけている。
この日、戦勝を祝う安天大会の幕は切っておとされ、
玉清元始太尊、上清霊宝天尊、太清道徳天尊をはじめ、
真君、五斗星君、三官四聖以下無数の貴顕が、
ふだん滅多に開かれたことのない玉京金闕に会して、
飲めよ、歌えよ、の大酒宴がはじまったのである。

しかし、ただ一人、天の反逆児孫悟空は
五行山の重みに耐えながらも、何とかして
そこから脱け出そうとして必死の努力を続けていた。
勝敗は兵家の常である、
という考えを彼は変えようとしなかった。
天は俺を減ぼそうとしているが、
俺は決して滅びないだろう。
たとえてみれば、天は支配階級の如きものだ。
彼らはあらゆる進歩、あらゆる新しい思想に、
「反逆」と「不逞」のレッテルを貼りつける。
彼らは自分たちの地位に動揺を与えるような
いかなる試みにも反対する。
しかも、彼らは常にグルになって
反逆児を粉砕しょうとするのだ。
けれども、地球がまわるように、
この世の中には必ず勢力の隆替が起る。
道徳よりも、理想よりも、いかなる美辞麗句よりも、
これは実力の世界だ。
実力のあるものが遂には天体の運行をもかえるのだ。

そう思ってもがいているうちに、
孫悟空はどうやら頭を五行山の間から
僅かばかりもたげることができた。
けれども、そこを通りかかった巡視の霊官が
いち早くそれを見つけて、宴会場へ急報した。

「大したことはないよ」
と如来は笑いながら、袖の中から一枚の咒文をとり出すと、
弟子の阿難に命じて山の頂上に貼らせた。
すると山はまるで根が生えたように動かなくなり、
さしもの孫悟空もその重圧の下に
完全に釘付けにされてしまったのである。

2000-09-22-FRI

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