毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第三章 天の反逆児

一 馬方さん

太白金星と孫悟空は同時に花果山を出発して
天界へ向ったが、孫悟空の斗雲は超特製だから
スピードの出ること出ること。
地上を蟻のように這いまわる牛車や馬車と違って、
遮るもののない虚空をフル・スピードで走っているうちに、
見る見る太白金星の祥雲を引き離して、
たちまち南天門へ到着してしまった。

雲を下りて、さて、南天門へ入ろうとすると、
門を守る増長天王が部下を狩り出して、
行く手に立ちふさがっている。
見ると、いずれも手に手に槍や刀を
ふりかざしているではないか。
「クソ爺め! 俺に一杯食わせよったな」

腕をまくりあげようとしているところへ
やっと金星が辿りついた。
孫悟空は目をむいて、
「よくも俺をかつぎやがったな。
 玉皇上帝のお招きだと言いながら、
 これはどういうわけだ?」
「まあ、そう怒りなさんな」
と金星は笑いながら
「天国にも入国管理規定というものがあってね、
 入国許可のないものは入れないことになっておる。
 今日これから玉帝に拝謁仰せつかって、仙録を授かり、
 官名を記入していただけば、
 以後はあなたが出ようと入ろうと
 誰も文句は言いませんよ」
「そんな七面倒くさい手続きが必要だったら、もう結構だ」

くびすをかえして出て行こうとする悟空の手を
金星はつかまえて、
「さあ、私と一緒においでなさい」

南天門の下へ来ると、金星は大きな声を張りあげて、
「この方は下界の仙人だ。
 玉帝のご命令によってお連れしたのだ」

すると、武装した天兵たちが整列をして
二人のために道を開いてくれたので、
これはまんざら嘘でもないらしいと悟空は考えなおした。

ああ、それにしても初めてくぐる天国の門!
何というまぶしさであろう。
門はみどりしたたるばかりの玻璃で作られ、
それに色とりどりの宝石が無数に散りばめられている。
両側には数十人の鎮天元帥が手に手に錦旗を持ち、
その後には十数人の黄金燦然たる鎧兜をつけた神兵が
それぞれ戟や刀を握って控えている。

その間を通り抜けて、一歩中へ入ると、
これはまた驚くばかりの豪華な別世界。
立ち並ぷ柱という柱には赤髭竜かまきついており、
その一枚一枚の鱗はことごとく純金で出来ている。
長い橋を通るとまた橋が続いていて、
その上には色鮮かな鳳がたたずんでいる。
ここには遣雲宮、毘沙宮、五明宮、太陽宮、
花楽宮といった三十三座の天宮と、
朝会殿、凌虚殿、宝光殿、天王殿、
霊官殿といった七十二の宝殿がある。
そればかりでなく、
寿星台という台上には千年も咲きつづける花が、
薬炉のまわりには万年たってもなお青さを失わぬ草が
生い茂っているのである。
さらに朝聖楼に近づくと、
きらびやかな衣装をつけた星の数々、
もっと奥に進むと、
いよいよそこが玉皇上帝の起居する霊霄宝殿で、
朱門廻廊、金と朱が照り映えて、
世に珍しいものは一物としてないものはなく、
世にありふれたものは何ひとつ見あたらない。

太白金星に案内されて、霊霄殿へ入った孫悟空は
ただもうあたりの美しさに心を奪われて、
御前へ進み出ても、頭をさげることさえ忘れていた。
「御命により妖仙を引き立てて参りました」
と金星が上奏に及ぶと、御簾の中から声がかかって、
「妖仙とはその猿か?」
「へい、我輩でござる」
と悟空は顔をあげたままで答えたので、
居並ぶ文武仙卿は驚きのあまり色を失って、
「御前で我輩でござるとは無礼千万!
 死罪も死罪、万死に値する罪でございます」
「まあ、よい。
 下界の妖仙には天界の礼儀作法はわからないのだろう」

玉帝は人事を司る武曲星君に命じて、
どこぞ適当な官職はないものかと調べさせたが、
生憎なことには、天上には停年制もなければ離職者もなく、
しかも皆不老長生ときているから、
空いた椅子はなかなか見あたらない。
「ただひとつ御馬監の主管が欠員になっております」
との復命だったので、
「では弼馬温に任命してやればよかろう」
との御意であった。

最初、悟空はこれで俺も天職を得たわいと、
いささか有頂天になった。
ところが木徳星君に連れられて任地に出向いて見ると、
何と馬小屋ではないか。
「私の役目というのは一体何ですか?」
「ここの官員を監督して、天馬を飼育する係です」
と木星は答えた。

なるほど馬舎にはおよそ千匹の天馬がいるが、
どの天馬も粒選りの良馬揃いで、
馬というよりは電光石火の駿足を持つハヤプサである。
その代り飼料を食ぅのも並大抵でなく、
飼育係の力士たちは日夜手をやすめる寸暇もない。

孫悟空は名こそ主管だが、
その忙しさといったら全く話にならず、
たちまちのうちに半月を経過してしまった。
或る日、部下の連中が酒席を設けて、
彼のために歓迎会を開いてくれた。
その席上でのことである。
「俺のこの官職は位階勲等で言えば、
 どのくらいだろうか?」
と、孫悟空がきいた。
「位はありませんよ」
と皆の君が答えた。
「位がないというのは、
 ずいぶん偉いということだろうか?」
「まあ、そう思っておられれば、
 天国一の幸福者でしょうね」
「というと?」
「下も下、最低ですよ。
 人の馬を養ってまるまる肥らせたところで、
 ウムと領かれるのが関の山で、
 少しでも痩せさせてごらんなさい。
 たちまち大目玉をくらってしまいますからね」
「ウーム」
と悟空は思わず大きな唸り声を立てた。
「よくもこの俺を莫迦にしやがったな。
 花果山にじっとしていれば、王よ、
 太祖よとあがめられる身の上、
 その俺をひっぱって来て馬丁をやらせるとは何ごとだ。
 もう今日限りやめだ。今日限り俺は帰るぞ」

立ちあがりざま机上に山積した書類をひっくりかえすと、
悟空は耳の中から如意棒をとり出し、
ブンブン振りまわしながら、御馬監をとび出し、
まっすぐ南天門へと走り去った。
南天門の番兵たちは、
彼が弼馬温であることを知っているので、
誰ひとり咎め立てする者がない。

門をとび出すと、須臾にして、
花果山のほとりに到着する。
見ると四人の健将が各洞の洞主たちと一緒になって
練兵の最中である。
「俺だよ。帰って来たよ」
というと、猿どもは一せいにその場にひれ伏して、
「ようこそお帰りなさいませ。
 十数年間、ご尊顔を拝しませんでしたが、
 ますますご健勝で何より …… 」
「十数年?」
と悟空はききかえした。
「俺がここを出発してから、
 まだ半月余りしかたっていないぞ」
「いいえ、十数年になります」
「して見ると、天界の一日は地上の一年にあたるのか。
 それとも忙しいものだから、
 一年が一日にしか思えなかったのか!」
「して、天界における大王の官職は
 いかがでございましたか?」
「いやいや、それを言うな」
と悟空は両手をふった。
「いえばいうだけ腹が立ってくる。
 玉帝という奴はまるで人を見る目がないんだ。
 俺は知らないものだから、弼馬温という肩書にだまされて
 一生懸命やっていたが、今日、仲間の者から話をきけば、
 馬丁の親方なんだそうだ。
 人をバカにするにも程があるよ」
「全くでございます。玉帝なんか相手にするよりも、
 この土地で王様になって楽しく暮して下さい。
 さあ、皆の衆、早く酒の用意を! 」         

酒宴酣なところへ、
独角鬼王と称するのが二人連れ立ってやって来た。
二人おそるおそる美猴王の前に進み出ると、
「この度は無事お帰りになっておめでとう存じます。
 かねてから大王には
 諸国の人材を登用されていらっしゃるときき、
 私ども特に錦袍一着献上に参りました」
「それはかたじけない」
と孫悟空は早速、贈られた橙色の衣を身につけると、
まこと帝王の貫禄十分である。
独角鬼王は茶坊主よろしく、彼の前に跪くと、
「これだけ神通力を持っていらっしゃる大王が、
 何で玉帝のために馬を養う必要がありましょう。
 大王は天と同格なお方、これから斉天大聖と
 お名乗りになってはいかがでございましょうか」
「そうだ。そうだ。天なんか糞くらえだ」

悟空は手を叩いて喜び、すぐ四健将に命じて幟を作らせ、
「斉天大聖」と大書して、
へんぽんと空にひるがえらせたのである。

2000-09-15-FRI

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