毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
実力狂時代の巻 第二章 実力狂時代

五 天界へ 

さて、ユスられて泣き寝入りをするのは人間世界の話で、
天には天の道がある。
東海竜王は不平やるかたなく、
遂に孫悟空を告訴する決意をし、告訴状を起草すると、
それを持って、玉皇上帝の起居する金闕雲宮へ
出かけて行った。

彼はまず侍従長の邱弘済真人に面会を求め、
これまでの経過を話し、告訴状を手渡した。
侍従長がそれを宮殿にとりついだ。

玉帝が御みずから告訴状を開いて見ると、
それには孫悟空が東洋大海へ下りてユスリを働いた
一部始終が事細かにしたためられている。
如意棒を強要し、鎧兜を強奪し、挙句の果てに
どうもお騒がせ致しましたといったと書いてあるのを見て、
玉帝は思わず失笑した。
「東海竜王はどこにいる?」
と玉帝はきかれた。
「只今、通明殿のそとにかしこまっております」
「すぐ海へもどるようにいいなさい。
 不届者の猿はこちらで退治させるから」

竜王が帰ると、
入れ違いに今度は葛仙翁天師が御殿に進み出て、
「恐れながら冥界を司る地蔵王菩薩から
 訴えが参っております」
「ほオ、珍しいこともあるものだな」

地蔵菩薩の告訴状を開いて見ると、
またしても孫悟空の暴状である。
「よしよし、委細は承知したから、
 使いの者を帰らせなさい」

玉帝は告訴状を下げさせると、居並ぶ文武百官に向って、
「孫悟空とやらいう妖猿の
 素性を知っている者があるか?」ときかれた。

千里眼と順風耳が進み出て、
「この猿は三百年前に花果山の頂上に聳えている
 石の中から生まれた猿でございます。
 あの時は大したことはなかろうと思っておりましたが、
 どこでどうやって修行をしたものか、
 遂に降竜伏虎の術を覚え、
 生死簿にまで墨を塗るようなシタタカ者になりました」
「誰か下界に下りて、そやつを捕えてくる者はおらぬか?」

玉帝の言葉が終るか終らないうちに、
太白金星が御前に罷り出て、
「恐れながら申し上げます。
 およそ三界の中で身体に九つの穴を持った者は
 皆仙人になる資格を持っております。
 あの猿にしても天地日月のはぐくみ育てた者に相違なく、
 頭は天をいただき、脚は大地をふまえ、
 人間と何ほどの距離がございましょう。
 ことに露を飲み霞を食って
 仙術を会得した今日となっては、
 差別待遇をするのはいかがかと存じます。
 この際、いっそ彼を上界に招致して、適当な官職を与え、
 天禄を与えてやってはいかがでございましょうか。
 もし天命にたがわなければ、さらに昇進させればよいし、
 万一従わなければ、その時になってから処罰しても
 遅くはないでしょう。
 そうすれば、まず第一に兵を起さないですむし、
 第二に能力のある者に所を得しめるし、
 まさに一石二鳥の妙案かと存じます」
「そうだ。それがいい」
と玉帝は常になく喜ばれた。

ぺこぺこと頭をさげて、
おひげの塵を払っているのも出世の方法に違いはないが、
謀叛を起すのも確かに一つの道ではある。
ただし、これは相手が玉皇上帝のような
宏遠無涯の大度量を持っている場合にのみ有効であって、
ドングリ同士の喧嘩にはもちろん通用しない。

太白金星は玉帝から意を授けられると、南天門を出、
祥雲に乗って一路、花果山水簾洞へと向った。
洞前に下りると、金星は小猿どもに向って言った。
「私は天から来た特命全権大使だ。
 お前たちの大王を迎えに来たのだから、
 その旨、お取りつぎを願いたい」

小猿が奥に駈け込んで要件を伝えると、
悟空はすっかり喜んで、
「ちょうどいいところへ来てくれた。
 この一両日、退屈して、
 ひとつ天界にでも暴れ込んでやろうかと
 思っていたところだ」

急いで正装をこらし、加冠束帯、
部下を連れて門を出ると門前に一人の老人が立っている。
「私は西方の太白金星です。玉帝の聖旨を持って、
 あなたを迎えに参りました」
「ようこそおいで下さいました」
うやうやしく聖旨を受けると、悟空は皆の者をかえりみて、
「さあ、急いで宴会の用意をせよ。
 葡萄酒も料理も一番上等の分を出すんだぞ」
「いやいや、ご心配なく」
と金星は手で制しながら、
「私は使命を帯びている身ですから、
 長く留まっているわけには参りません」
「まあ、いいじゃありませんか。ちょつと道草を食っても
 いけないほど、天界は不自由なところなんですか?」

なるほど聞きしにまさる不逞な猿だわい。
天の動きにまでいちいちケチをつけるとは!
と太白金星は思った。
しかし、日の暮れる前に急いで
戻らないとならないことは事実だったので、
「すぐ私と一緒に来て下さい。
 酒をのむのはまたの日に致しましょう」
「せっかく御馳走の用意をしたのに、
 酒の一杯もひっかけないでおかえりになるとは、
 話せないお客だな」

ぶつぶつ言いながらも、孫悟空は家臣どもに向って、
「では俺はこれから天に行ってくるから、
 お前たちはおとなしく待っているんだぞ。
 天界の方が住み心地がよいようなら、
 またお前たちを迎えに帰って来るからな」

一同の見送るなかを、孫悟空と太白金星は雲に乗り、
あっという間に見えなくなってしまったのである。

2000-09-14-THU

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