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虚実1:99
総武線猿紀行

第6回
「ヤンキーの故郷」その2

僕の友人のH君は、
父親がイギリス人系がちょっとはいったような
目元がすずしい顔(だが純粋日本人)、
母親が南洋系がクワっと香る濃い顔(全く日本人)。
しかして、生まれた子供は、
ジェームス・ディーンのような
美男子のH君なのであった。

僕と同級だった小学生時代の行動は、まあ、
穏便な方だったが、
中学に入るとメキメキ、ヤンキー化した。
リーゼントにすると全くジェームス・ディーンなのである。

1975年、ドゥービーブラザースの初来日で、
日本武道館に行った。
コンサート終了後、場内を出口に向かって歩いていると、
場内に女性数名の「キャーHく〜〜〜ん」の黄色い声。
Hはヤンキーのくせにロックファンなので、
見に来ていたのだ。
(ヤンキーとロックファンは本来は似合う?
白人野郎=ヤンキーという原義にもどれば。
なぜヤンキーが暴走族兄さんのことになったのだろう)

黄色い歓声は、H君を遠くから見つけた
[女性ファンたち]の発した声だった。
コンサート終了後の静寂の中、日本武道館に鳴り響いた
総武線系少女たちの嬌声。
ドゥービーへの歓声をしのぐ黄色い雄叫びのでかさ。
H君の人気を再認識させられたのであった。
(ドゥービーにキャーなんていわないもんな)

中3のバレンタインデーの日に彼の部屋に遊びにいったが、
ビックリした。応接間の机の上には、高さ70〜80センチ、
直径1メートル以上の見事な
チョコレートのタワーができていた。
かるく200〜300個はあるだろう。
芸能人でも、ジャニーズをのぞけば、
なかなかこんなに来ない。

そんな彼の初体験は当然中2くらいだったようだ。
僕にとっては驚きだったのは、自宅の自分の部屋で
バシバシSEXをやるのである。
お母さんが階下にいる2階の部屋で。
とうぜん声などもれそうなものだが、
H君は「お袋は知らないふりしてるよ」と涼しい顔。
そういう問題かなあ、と思った。

「こないだソファーにザーメンこぼしちゃったのは、
シミになっちゃって、さすがにちょっとまずかったな」
とか、いってる。このように、
総武線ヤンキーの性生活は始まるのである。
同じく小学校の同級だった男好きするY子と、H君、
さらに同級のK、3人で中2の時に酒盛りした話を
聞いたときの興奮は今も忘れない。

「それでよ、酔っ払っちゃってさ、Kがまずキスをして、
それからどんどん《ナメに入った》わけよ」
「え、どこ??」
「マ○コに決まってるじゃん」
「ごく!」
『 マ○コをナメにはいる』
“ナメに入る”この魅惑的、誘惑的な響きに
どんなに気持ちが侵されたことだろう。

市川の特産の果物、長十郎梨。
収穫は9月がピークだが、
8月に早摘みしたまだ少し小ぶりの梨を
口いっぱいにほおばったときにしたたる
新鮮な甘酸っぱい果汁。
出荷されたばかりの、食べたことのない、
まだ見ぬ果実への
あこがれは、“ナメに入る”という言葉で増幅された。
ああ、ナメに入りたい。
その後は3人で代わる代わるやっちゃったそうだが、
非常に楽しそうだったんであります。
その話を聞いて、僕もY子に連絡をとろうと思ったのは
いうまでもない。(確か相手にされなかった)

そんなH君は当然のように、千葉では有名な暴走族
「○○○ター」に属していた。当時の千葉の暴走族は、
ガンガン都内に進出しており、なんとあの表参道を、
毎週末には400cc両手離しで爆走したりしていたいうから、
時代はオオラカだったというべきか?(1975年頃)
(注:暴走族は1980年代初頭の道交法改正で、
その態勢を変革せざるを得なかった)

当然、横浜、八王子あたりの奴らとの
抗争は激しかったらしいが、
そのへんの血なまぐさい話はあまり聞かなかった。
そういうことを「カタギの」
僕などには自慢しなかったのである。
ケンカは強かったらしいのだが。

高校3年になり、
市民会館にロックフェスティバルを見にいったら、
矢沢エーちゃんのデビューバンド
「キャロル」のコピーバンド
「キャロリ」というのが出ていた。
ハハハと見ていると、なんとH君のバンドだった。
「あなたと私はおしりあい」と、お尻をつきだし、
「お尻合いだ」というシャレをMCでかまされた。
終わったらジンベエに着替えていた。

その頃は、新宿のロックンロール喫茶「怪人二重面相」にも
出入りしていたようだ。
そこは、あの館ひろしなどを輩出したクールスファンの
連中もたむろしていた店だと思う。
1970年代中盤は
ロカビリーリバイバルもピークに達していたのだ。
そういうアメリカロックンロール青年に
あこがれる行動状況なら、
暴走族は「ヤンキー」の名に値するが、
暴走族がアメリカンロックンロール族と重なっていた
時期は、クールスも活躍していたH君らの世代ぐらいで、
後の世代の暴走族はソロになった矢沢フォロワーなどに
なってしまうのだ。(原宿で踊るロックンロール族は
本格暴走族と分離していった)
「YAZAWA」のタオルを巻いた連中や、
ビーバップハイスクールの登場人物には、
アメリカンロックンロールグラフィティの影はない。

その後、H君は、旅行に行くように、パンフレットをたくさん
集めてきて、ほぼ無試験の大学をさがし、
海外留学つきの大学を選んで
アメリカにマリファナをたっぷり吸える留学を果たした。
たまに帰ってくると、それ行け!と遊びに行くのだが、
もう葉っぱは一握りも残っていない、
配り終えたところだった。
その後もレイジーなアメリカ生活は続いたようで、
ひたすらバイト&葉っぱの日々といった感じ。
心なしか、帰ってくるたびに地味になっていった。

5年後のある日、
彼は米国でたっぷりバイト生活を終えて帰国し、
デザイン会社に就職した。結婚をするということで、
久しぶりに会った彼は、すっかり油がぬけ、
やわらかい物ごしに、ヘラヘラした笑いが似合う
立派なサラリーマンになっていた。
二次会のおしゃれディスコ玉椿では、六本木では禁断の、
「ネクタイを頭に巻いて踊り」を披露した。
久しぶりに小学校時代の彼と接したのである。

1998-10-08-THU

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