矢内さんに
かつてお会いした時にきいた
『ぴあ』草創期の話が
すごくおもしろかったんです。

当初、
雑誌の売れる目算は
あったんですか?
いやぁ、
売れるはずだったんですが、
実はまったく
売れなかったんです……
創刊号は
一万部を刷って
二千部しか売れなかった。
(笑)痛いハナシですよねぇ。
売れると思っていたからこそ、
それだけ刷っているわけです。
ところが……。
(笑)
なんで
こんなに売れないのだろう、
と、そのときはじめて思いまして。

ただ、
後になって冷静に考えてみると、
創刊号を置いてくれたのは
八十九軒なので、
一軒で二十部は売れていたんです。

何の宣伝もせず、
店頭にならべておいただけで
二十部ずつ売れたというのは、
ふりかえってみると、
決して悪い数字ではないんですね。
今の
「わかっている目」で見れば、
決して悪い数字ではなかった、と。
当時は
そうは思えなかったわけですよね。

五、六千は売れる、
下手すると
七、八千も売れる、
ひょっとすると
売りきれるかもしれない……
ぐらいのことは思うわけです。
ところが
実際は八千部が返ってきた(笑)。
そこから、
どうなさったんですか?
糸井さんも
ごぞんじのとおり、
雑誌界には
「三号雑誌」
という言葉がありまして、
三号目が勝負なんですよね。

一号目には
創刊号というだけで
買ってくれる人がいるから、
二号目には部数が落ちます。
『ぴあ』も千四百部に落ちました。
それで三号目で
どれだけ戻せるかに
かかってくるのですが、
二千百部と、
創刊号をこえることは
できたんですね。
これはいけそうだとは思いました。
当時、何歳ですか?
二十二歳です。
大学四年生の夏でした。
若い!
当然、出版の勉強を
するヒマはないですよね。
(笑)はい。
なんの勉強もしてません。
売り先が
九十軒近くも見つかったのは、
運がよかったんですか?
運といえば、
運かもしれません。
はじめは
出版業界の問屋さん機構、
いわゆる
取次店の扉を叩いたわけですが、
これはもうほとんど
「おとといおいで」
みたいな感じでした。

定期刊行物を取次をとおして
流通させるための口座を
開いてもらうというのは、
今でもけっこう
たいへんなことですから、
三十数年前に学生がいっても、
とても相手には
してもらえなかったんですね。
ええ。
たぶん
そういうことだろう、
とは思っていたんです。
その当時、
ミニコミブームでもあったので
いろいろな雑誌が出ていました。

それらはほとんど直販で
大学の近所の書店に置いてもらうとか、
大々的にやっているところは
あまりなかったけれども、
そういう風になら、
やれるんじゃないだろうかと。
学生たちの
評論集や詩集が
置いてありましたからね。
ガリ版印刷のものまで置いてるから、
まぁ、頼めば置いてくれるだろうと
タカをくくっていたんです。

ところが実際に
サンプルを持ってまわったら、
みんなダメだと言うんです。
「手置き」に失敗!
弱っちゃってねぇ。
もう印刷は
発注してある状態なのに。
それでたまたま
『日本読書新聞』を見ていたら、
田辺茂一さんが
インタビューを受けている
記事がありました。

「これからは
 小売のマージンをもっとあげないと
 出版文化が
 日本からなくなってしまう」

これだと思いました。
われわれは取次店をとおせないかわりに
本屋さんに直に持っていくわけで、
取次店のマージンのぶんも
さしあげることができる。

ぴったりじゃないかと……
ぼくは短絡的に
そこに書いてあった
電話番号に電話するわけですね。
「悠々会の会長」と
紹介されていたのですが、
受話器を出た女性がいうんですね。

「こちら紀伊国屋書店新宿本店です」

「あれ……悠々会ではないのですか」

「悠々会でもありますが、
 どんなご用件でしょうか」

「いや実は『日本読書新聞』を読んで
 田辺茂一さんの発言に
 感銘を受けまして……」
(笑)面識もない
二十二歳の若者の電話ですよね。
はい。
当時よく使われていた、共闘、
という単語を使ったと思います。

「……ぜひ、
 共闘しましょう。
 できると思うんです」

「そういうむずかしいことは……
 少々お待ちください」

あたらしい電話番号を
教えてくれたので、
そこに電話をすると──

「はい。『風景』編集部です」

「悠々会では、ないのですか」

「悠々会でもありますが、
 どんなご用件でしょうか」
(笑)またおなじことが。
「そういうむずかしい話は……
 今、会長がおりますから」

電話口に
田辺さんが出たわけですよ。
へぇ。
紀伊国屋の社長の田辺茂一さんが。
偶然がかさなっているんですね。
田辺さんも

「そういう
 むずかしい話は
 電話じゃダメだ。
 こっちにきなさい」

とおっしゃる。
住所きいてたずねると、
田辺さんのご自宅でした。

当時『風景』という
冊子が出ていたんです。
舟橋聖一さんが
編集長をやっていましてね。
読書好きの人に向けて、レジ横に
「ご自由にお持ちください」
と置いてあるという……
田辺さんは文人が大好きだから
ご自分でもエッセイを
書いていたんですけど、
自宅の一室を開放して
その雑誌の編集をやらせていたんですね。

『風景』は
悠々会と呼ばれる
東京の書店主たちの
親睦団体に加盟している書店に
置かれていたんです。
そういうことは
あとでわかるんですけれども。
そこで、
田辺さんは
「きみは誰だね?」
と思いますよね。
自分自身を、
どう説明したんですか?
学生ですが、
というしかありませんし、
とにかく電話と
おなじことを話したんです。

「そういうむずかしい話は、
 オレじゃダメだな」

どうされるかと思ったら、
その場で誰かに電話をしてるわけです。

「そっちに、
 若いのひとりいくからよろしくな」

日本キリスト教書販売、
という会社があるから、
そこの中村という人に
会いにいけと言われました。
中村さんというのは
銀座の教文館という書店の
社長さんでしたが、
日本キリスト教書販売の
専務も兼ねていらしたんです。

つまりキリスト教の本を中心とする
取次店のひとつを
紹介していただいたわけです。
そこで、またおなじ話をするわけですけど。
(笑)もう、四か所目ですね。
「きみが考えていることと
 われわれと一緒にしないでほしい」
と言われました。
(笑)いててて。
ただ、
「ところでいったい
 きみは何をしようとしてるんだ」
と中村さんに水を向けられて
はじめて
「ぴあ、という雑誌を
 創刊したいのですが
 たいへん困っているんです」
と伝えてサンプルを見せました。
パラパラめくって、中村さんは、
「雑誌っていうのは
 プロがやったって
 簡単にうまくいくもんじゃないんだ。
 だから傷口を広げないうちに
 やめたほうがいいな」と。

そこでぼくが
どうこたえたかは
おぼえてないですが、
最後には
「……どこの本屋さんに置きたいんだ」
とおっしゃったんです。
「本屋さんをリストにして持ってきなさい」
それは大逆転ですね。
それでぼくは帰りました。
ぼくの下宿でみんなが待っていて
「どうだった?」というから、
これこれこういう話になったと……。
(笑)
『ぴあ』という出版社は、
下宿ではじまったんですよね。
はい。
それで、本屋さんを
みんなでリストアップしました。
今でこそ
「全国書店組合員名簿」
が思いうかびますが、
当時はそんなことわからないですよ。
記憶を辿って、
「新宿なら紀伊国屋」
みたいに出して、電話帳も使って、
みんなでなんとか、
百ちょっとのリストを作りました。

それを持っていくと、
「明日の何時にまたここにきなさい」
さらに翌日に行くと、
中村さんのデスクに
封筒が山積みされているわけですよね。
「これを持っていきなさい」
封筒の中身を出すと、紹介状なんです。
最後に直筆で署名がされて
印がおされてある。

ぼくらが出したのは
書店リストでしたが、
○○書店○○社長と名前まで書かれたものが、
百何通もあるわけですね。
これを持って、まわりなおせというわけです。

感激というか、
一生、忘れることのできない場面です。

日本キリスト教書販売の二階の事務室。
木造の建物から、階段をおりるたびに
ヒザが、がくがくするんです。
窓から夕日が斜めにさしこんでいる中、
キナ臭いようなにおいのするその情景は、
今でも何かの拍子に
ポッと浮かぶときがあるんです。
へぇー……。
だからそれを持ちかえって、
翌日から七人か八人か、みんなで
手分けして、一度ことわられた店を
まわりなおすわけです。

そうしたら、
一度ことわられた店でも封筒を開けてみて
「なんだ中村さんか。しょうがねぇなぁ。
 わかったよ、置いてきなよ」
みたいにして置いてもらえた。

もちろん
ことわられた店もありますけど、結果、
八十九店が置いてくださったんですね。

ですから中村さんがいなければ
『ぴあ』は世に出られなかったんです。
書店にならばなければ成立しませんから。
それが第一号ですか?
ええ。
(笑)それだけバタバタした状態で、
一万部、刷ったわけですね?
刷っちゃったんです。
考えてみたら無茶ですよね。
流通が確定する前に
刷っちゃっているわけですから。
その数字は
思いきりましたね。
そこに、ツキが
あったんじゃないかと思うんです。

つまり、売れた部数に
近いぶんだけ刷っていたら
「よかった、よかった」
で終わるけど、
八千部も返ってくると、
そこからはじめてアタマを使いますよね。
すばらしい失敗です。
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2005-08-22-MON