まるでハガキのように。
お題付き短文投稿ページ<1.27>

ほぼにちは。

「訳のわからないコレクション」に
たくさんのご投稿ありがとうございました!!
もう、ほっんとに訳がわかりませんでした。
理屈じゃないんですね、コレクションは。

さて、突然ではございますが、
本日より新しいお題に移らせていただきます。
新しいお題は・・・

「思ひ出の先生」

みなさんも、1人や2人、
人生史上に残るような
いろんな意味でものすごい先生に
出会ったことはありませんか?
今回は、そんな懐かしの“先生”を思い出しつつ、
思う存分語ってください!

たとえば、

「ぼくらの高校の卒業式の日、担任が来なかった。
 式が終ってから現れたその先生は、
 頭と腕を包帯でぐるぐる巻き。
 最後のホームルームなのに、
 ぼくらへのスピーチはこうだった。
 『僕はゆうべ彼女に養命酒の瓶で殴られました。
  みなさん、卒業しても、
  こういうふうにならないように
  しっかり恋愛をしてください』
 先生は泣いていた。
 『きみらもがんばるように』
 おまえががんばれ、とぼくらは思った。」

とか、

「中学の担任はちゃらんぽらんな人でした。
 『先生は生まれてから一度も歯を磨いたことがないぞ。
  でも、虫歯なんかになりません。
  そういう得な体質なのです!』
 とか。さらに、
 『このごろサラ金でいろいろ問題がおきてるけど
  あれは、だいじょうぶです。
  なぜなら、利子だけ返せばいいからです。
  先生はそうやってしのいでます!』
 とか。でもその発言が親に伝わって
 PTAで大問題になりました。
 先生はそれでもぜんぜん平気そうでした。
 今でも、その先生のこと、嫌いじゃありません。」

とか、

「私の中学の先生は、
 12月8日は毎年必ずお休みしています。
 理由は“ジョンレノンの命日だから”です。
 ご本人いわく、
 『明日(12月8日)は、僕をジョンに預けてくれ。
  この日は、ジョンのためだけにすごしたいんだ。
  ジョンの曲を聴きながら、ジョンの詞を読んで、
  ジョンのことだけをを想いながら
  1日をすごしたいんだ。
  仕事とか、そんな自分のためにすることは
  一切何もしたくないんだ』
 そうです。」

などなど、みなさまの思い出に残る先生のお話を
お聞かせください。
笑える先生だけでなく、
嫌いだった先生のお話でもかまいませんよ。
あっ、あとちょっと“ホロリ”とくる
涙のエピソードなんてのもあったら
ぜひぜひ聞いてみたいですね〜。

いつものようにルールはとくにありません。
字数は800字以内でおねがいします。

それでは、みなさまからのたくさんのご投稿、
お待ちしておりま〜す!

(※ここをクリックすると、投稿にいきます。)

2001-10-19-FRI

●yama

高校時代の話です。
日光が当たれば素敵に輝くつるっぱげ校長先生。
壇上でスポットライト(ハゲ集中)を
イタズラ照射されたりする
お茶目なじいちゃんでした。
あの頭は毎日タマゴの黄身で磨くのだ、
という噂も。

その先生が定年を迎える年が、
ちょうど私たちの文化祭。
フィナーレは大盛り上がりでした。
そして、最後を飾るのは校長先生のお話。
彼は、開口一番に

「皆さん、燃えましたか?」

年老いた先生の中に一瞬だけ、
生徒たちはロック魂を見ました。


●yuka

私の知ってる中学校時代の先生は、
常に白衣で“指さし棒(闇名ツンツン棒)”
を持ち歩いています。
黒い棒の先に指の模型がついてるだけの
棒なんですけど・・・。
でも、先生はソレがないと、
激怒して、授業してくれません。

あと、その先生の必需品として、
当時(5年前)では珍しい携帯電話を持ってて、
携帯が鳴れば、
授業中だろうがテスト中であろうが
100%の確率で出ます。
しかも、声のトーンが低くなり
ダンディになるんです。


●mikazuki

退職された理科の先生は授業中、
私達生徒がうるさくすると、

「コラーッ!
 おまえら、ぶっ飛ばすぞぉー!
 気づいたら鮫の腹の中だぞー!
 さらに気づいたら鯨の腹の中にいるぞぉー!!」

と真顔で言っていた。
んなこたあない!


●きょう

中学校の時の国語の先生は、
竹刀の一部の竹をいつも持って歩く
おじいちゃん先生でした。
そのおじいちゃん先生の口癖は、

「目圧!(めあつ)」。

そう言われると、私たち生徒は、
何をしていても必ずその先生の目を
じっと見つめなければなりませんでした。
なんだかそうすると、
目の圧力を感じるそうで・・・
もちろんその先生のあだ名は「目圧」でした。


●やまかじ

「生物」の先生。
めがねをかけて、ふくよかで、
何故かいつもほっぺが赤い。
あだ名は「ぷくりん」。
カエルの解剖をした後、
学校の裏庭にカエルのほとけ様を埋めに行く時、
チョコレートのお供えを持ってくる事を強要した。
カエルが喜ぶから、と。
お供えの翌日、お墓を見に行くと
チョコレートの山はきれいになくなっていた。


●わやん

私の通っていた学校は私立だったせいか、
個性的な先生が多くとても楽しかったです。
数学のk先生は
1950年代のようなスーツをいつも着ていて、
授業中に二人目の生徒を指す時は

「袖すりあうも他生の縁、はい、隣のあなた!」

と毎度必ず言っていた。


●ハビ

高校の国語の先生で、あだ名が「バルバロイ」。
理由は、発音が不明瞭で
全く理解できなかったから
「野蛮な言語を話す人」。
高校1年生で初めての現代国語の授業は
一言も理解できず、でも誰も何も言わない。
判らないのは私だけ?
ところが休み時間になってクラス全員が
「先生が何言ってるか判った?」
「判るわけないやん!」
で、みんな聞き取れなかったことが判り
ほっとしました。
担任の先生にホームルームで
「何言ってるかわからない先生がいるんですが」
というと、
「そのうち慣れる。
 僕も20年の付き合いだが
 未だに判らない事がある。」
クラス全員ショック。
「だが、心配しなくても
 生徒の方がよく聞き取れるようだ」
確かにその後2ケ月もすると
聞き取れるようになれました。
1年から慣れてる生徒はいいんですが、
先輩は高校3年でしかも古文の時間で
いきなり「バルバロイ」にあたりました。
さすが受験を控えた3年生は
「先生何言ってるか判りません」
と言ったそうです。
先生はものすごく激怒したそうですが、
その怒りの言葉も当然ながら
やはり聞き取れなかったそうです。


●しんご

小学1年の時の担任の先生。
とにかく毎日のように僕は泣いていました。
ある参観日に先生は、僕と母を呼び止めました。
てっきり僕は、
泣いてばかりいる事を言われると思ったのですが、
先生は、僕の描いた花の絵を褒めだしたんです。
僕は嬉しくて嬉しくて、
それ以来図工には自信が持てるようになりました。
人間てそんなもんですね。
でも、先生が褒めたのは花じゃなくて
花瓶でしたけど。


●マンゴスティン

高3の担任だった白髪のおじいちゃん先生。
私たちの卒業を見送って、定年された。
3年後、道でばったり会ったとき、
「○田○織,○川○夫,○木○美」
と私たち3人の名前をフルネームで呼んだ。
めちゃめちゃ早くて驚いた。
先生は毎夜最後のクラスの私たちの名を
出席番号1番から47番まで暗唱し、
つっかえたりすると自分にペナルティーを課し
47番から1番まで逆に唱えているそうな。
その成果がこのスピードだ。
担任だった時より好きになった。
あれからさらに10年。
先生はまだ毎夜私たちを呼んでいるのでしょうか。


●mariko

今でも心に残るのは
小学2年生のとき、
たった一年間だけお世話になった
担任の鎌田先生(男性)です。
生徒が忘れものをしたり、いたずらしたとき、
先生の罰はきつーい「握手」をすることでした。
子供の小さな手にはとても痛いのですが、
先生はニコニコしながら手をぼきぼきさせて、
皆、怖嬉しくてどきどきしたものでした。
休み時間には皆で
校庭のメリーウエーブに乗りながら、
「山頭火の歌」を教えてくれて、
一緒に歌いました。
授業で「大文字山」のことを話してくれたとき、
先生の話ぶりに、なんてすごい山なんだろう、
と感激したものです。
でも先生は「だいもんずやま」
と発音していたので、
私はその通りに覚えたのですが、
後で母に「ず」と「じ」の違いを教えられました。
生まれも育ちも東京の小学2年生にとって、
訛りという概念は無くて、
純朴で暖かい鎌田先生の人柄そのものでした。
ところが、楽しかった2年生が終わり、
3年生になったとき、
鎌田先生の姿が見えなくなってしまいました。
退職されたそうです。
ものすごく残念でたまりませんでした。
もっともっと沢山話をしてほしかったし、
一緒に山頭火の歌をうたいたかった。
どうしていなくなってしまったのか、
もどかしくも、子供の私には
なすすべもありませんでした。
鎌田先生のいないメリーウエーブは寂しくて、
今でも公園のメリーウエーブを見ると
先生のことを思い出します。
もう30年も前のことです。

2001-11-19-MON

●リノ

小学校の体育の先生。
60歳に近いその先生は、
いつも赤い体育シャツに白の短パン。
昔ながらの厳しい先生でした。
廊下の左側を歩こうものなら、
恐ろしい形相の先生が100M先まで聞こえる声で
「なんで左側を歩くんだ!!!」
みんな恐ろしくて右側に飛び跳ねました。
ある日、準備体操中に女の子が
「ぷぅ〜」とおならをしてしまい、
「クスクスクス」とクラス中に笑い声が広がって
「何がおかしいんだ!
 俺だっておならをする!!」

「・・・プスッ〜」

『ス、スゴイ・・・』
先生は恐いばかりじゃなくて優しいんだと、
その日から先生の笑顔に気づくようになりました。


●ウメ吉

中一の時の理科の先生はダジャレ好き・・・
問題が分からなかったら
「わけわかめか?」
挨拶をしなかったら
「むしむしこさんか?」

むしむしこって誰だよ・・・


●まるあ

元同僚だった ある女性の先生。
いくら職員室の机が
くっついて並べられているからって・・・、
いくら暑かったからったって・・・、
いくら疲れてたからって・・・、
いくら人がいなかったからって・・・、

やっぱ、3人分の机の上で昼寝するのは
マズかったんじゃないでしょうか?

その姿を見たほかの先生方は、
音を立てないように
そーっと職員室を後にしてましたよ。
(私もその一人でした)


●jyunko

幼稚園の頃の話ですが、異様に覚えてるんです。
小さい頃、
「なんで鳥は空を飛ぶの?」や
「どうしてトカゲのお腹が大きいと
 卵が入ってるの?
 太ってるだけじゃないの?」
なんて、疑問に思ってしまいますよね?
その疑問に対する答えは、私のまわりでは
「図鑑で調べなさい」とか
「先生に教えてもらいなさい」
って返事ばかりでした。
そんなとき、
「ぞうさんの耳は、なんで大きいの?」
という疑問を持ちました。
そこで、幼稚園の先生に聞いたんです。
すると、先生は1冊の絵本を持ってきて
説明してくれました。
絵本には、ぞうさんの耳の下に
子供や動物が雨宿りしてる絵が描かれていました。
そして先生は、
「ぞうさんは、雨の日は
 みんなを雨にぬれないように守ってくれるから、
 耳が大きいの。」
と教えてくれました。
私は、生まれてはじめて
自分の知りたい答えが返ってきて、
うれしかったんです。
今までいろんな先生に出会いましたが、
一番忘れられない先生です。


●かかる

小学校の担任の郡山先生は、
落語家の柳家小三治さんのお姉さんでした。
ちょうど小三治さんが真打に昇進して、
名前を「さん治」から「小三治」に改めたときに、
初めてそのことを話してくれたのですが、
子供たちは
「何で偉くなったのに、名前は小さくなるのか、
 不思議だねー」
と、話していたのを覚えています。
いま思うと、先生の顔は
小三治さんにそっくりでした。


●ライナス

高校3年の時の担任は、人相が悪く、
見た目ヤ○ザ風。
趣味は、「自宅の2階から放尿すること」
というちょっと変わった人でした。
卒業間近のある登校日、
教室の黒板に担任は
「柵の中の懲りない“麺々”」
と書き残し、
私たちは教科書を持って
裏山に連れて行かれました。
何事かと思っていたら、
そこへ女子が洗った鉄板と、
なにやら材料が運びこまれ、おもむろに、
「火をおこせー!」
と号令がかかったのです。
次々に火にくべられる教科書たち・・・。
嫌いな教科の教科書を火にくべる快感・・・。
しかし、忘れられないのは
教科書で焼いた焼きそばの味!!
格別でした。


●BURI

中学1年の時の担任。
60過ぎのおじいちゃん先生だけど、面白かった。
一番前の席の子が、
その頃流行りの「ゴダイゴ」のカンペンケースを
机の上に置いたのを見るなり

「なんだ、これは?『ご・だ・い・ご』??
 ・・・天皇か?」

と真顔で尋ねていた。
そのセンスにクラス中、誰もついていけなかった。

高校1年の時の国語の先生。
彼もまたおじいちゃん先生だったけれど、
授業中、絶対に生徒の顔を見ない事で有名だった。
いつもあさっての方向を見ているので、
ある日、思い切って理由を聞いた所、
深刻な表情で曰く、

「私は、人の顔を見ると、
 その人の死期がわかってしまうのですよ。
 だから、顔を見ないで授業をしているのです」

先生の年が年だけに、
なんとも信憑性が高く思われ、
クラス一同が凍りついた。


●沙保

「ジェロ」
というあだ名をつけられた、生物の先生。

数字の0(ゼロ)を
「ジェロ」と言うからなんだけど。
その先生の乗ってる車が
「パジェロ」だと知った時、笑った。


●モゲポン

川で溺れた人を助けるときは
まず頭を殴って気絶させろ、
と一番最初の授業で教えてくれた数学の中嶋先生、
いまどこでなにやってるんですか。


●ハナモゲラ

高校の時、ゲームセンターで先生を見かけました。
「先生、こんな所で何し・・あっ!」
横には、同級生の女の子。
先生は、とっさに
「うん。はい、これ。」
と、そのゲームセンターのタダ券を
僕に握らせました。
パニクっているのか、落ち着いているのか、
分からない微妙な対応をした
キュートな先生でした。


●beatrock

中一の時の担任、中村先生に

「お前は北条政子だ」

と、言われたことがあったけど、
あれはどういう意味なんでしょうか?
いまだに気になって仕方がありません。

2001-11-15-THU

●もーもー

中学時代、事実かどうか分からないけれど
「エーゲ海に捧ぐ」を上映している
映画館から出てきたという理由で
“エーゲ”と呼ばれていた先生がいました。
校庭を歩いていれば上のほうの階の教室から、
廊下を歩いていればものすごく遠くから
「エーゲッ!」
と叫ばれ、そのたびに
「誰だー!先生は見てなーい!」
と怒り狂ってました。
先生は嫌な仇名をつけられたら
無視するに限るということを
身をもって教えてくださいました。


ねぎ

夏休み明けに学校に行ったら、
古文の女先生の苗字が変わっていた。
40歳台後半のブサイクな先生だっただけに、
私たち生徒は素直に祝福した。
が、授業中に
「先生の再婚相手、去年別れたダンナらしいなぁ。
 やっぱ別れたら惜しくなったんか〜?!」
という心ないクラスメートの暴露で、先生号泣。
「そうよ。
 この切なさは、アナタたちが
 大人になったら分かるはず・・・」
と、2日がかりで赤裸々に
2人のナリソメから別れ、そして再会までを、
語ってくれた。
高校生の私たちは、「ダセェ」と思う反面、
「なんかこの女スゲェ」
という尊敬の念も抱いてしまった。
以来、先生のあだなは
“チャレンジャー”になった。


●まるじゅん

女子高の体育の先生です。
100メートル走など
数人で競争するときの判定がエッチでした。

「乳首の差で○○の勝ち」
「おっぱいがもう少し大きかったら勝ったな」

そんなことばかり言ってました。
今ごろは立派なエロ爺になっていることでしょう。


●秋津

国語のテストのとき
監視の先生がこっそり答えを教えてくれた。
しかし、間違っていた・・・・
後日、ごめんと謝ってくれた。
何と言っていいのか困った。


●ミポ

看護学生1年の時、
専門教科を教えに来てた先生が
私にとって思い出の先生です。
その先生はいつもオシャレで紳士っぽくて
生徒の間で服装チェックが入るほどでした。
その先生が最後の授業で私たちに語った言葉は

「特に医療者は患者さんに対して
 優しくなければならない!
 そのためには恋愛をしよう!
 恋愛と言うものは傷つくものです。
 しかし、恋愛の傷は必ず癒えます。
 その傷を乗り越えて人は優しくなれるのです」

というものでした。
それを聞いた私はその先生が
今までで一番素敵に見えました。
大熱弁を振るった先生は、
拍手喝采のなか去って行きました。
あの時、女生徒ばかりの教室で
先生はみんなのハートを掴んでいました。


●あさみ

私が高校2年の時、
ある日、現国の先生が
とっても幸せそうな顔をして教室に来たので、
みんなで問いただすと、

「先生は今、恋をしてるんだ」

と白状し、そのあと一時間、
先生の恋ばなで授業が終わりました。
「本当にかわいいんだ。」
「結婚してくれ」だの、
教師ではなく、恋をする男の話をしてくれました。
結局その年の3月に同僚の先生と結婚する為に、
転勤していきました。


●にょび

小テスト中に、私の頭を見て、

「おまえ、すんげえフケだぞ!!」

とパイプたばこをふかしながらのたまった。
自分は丸坊主だから、フケだかどうだか
わかんないからって。


●ぷるっぷる

先生の話じゃないんですけど、
今から四半世紀も前の話。
私は、中学3年の2学期から卒業まで、
朝7時頃に登校してました。
朝7時には正面玄関は開いていて、
私は校舎に入れたんです。
だから玄関はいつもずーっと開いているものだ、
と思っていました。
ところが3学期のある日、
雪の中、正面玄関が閉まったままだったときは、
寒さと不安で泣きそうになりました。
10分ほど立っていたでしょうか。
中からガチャガチャ音がして、
用務員のおじいさんが鍵を開けてくれました。
私はそのとき初めて
「用務員さんが鍵を開けてるんだ」
という事実を知ったのでした。
その事件があったあと、
用務員さんは私のいる教室のストーブを、
毎朝一番につけてくれるようになりました。
たった一人の早起きの生徒のために、
毎朝早朝から仕事をさせてた、ってこと、
あのときはわからなかったけど、
今おもいだすと泣きそうになります。


●U子

小学校の体育の時間、
皆でだらだらラジオ体操をしていました。
見ていた熱血K先生がキレました。

「効果のない体操をして
 一体何の意味があるんだっ?」

と言って、
ひとつひとつの動きの意味を説明しながら
やり直しさせました。
心から納得してしまった私は、あれ以来、
ラジオ体操には真剣です。
K先生がどこかで見ているような気がします。
37歳の今でも
会社で朝のラジオ体操の音楽が流れると
はりきってやってしまい、
「体操部だった?」
とか
「台に乗ってやれば?」
などと言われてしまいます。

2001-11-13-TUE

●ちゃっこ

高校の時の先生。
かなりの、ベテランなんだけど、
生徒の前に立つと緊張するらしい。
息継ぎのたびに「すか」「すか」と言ってしまう。
あだ名はもちろん「すか」。
何故そうなってしまったのかわからない。
(多分本人も気付いてない)
例えば
「えー、ナポレオンは、すか、
 どういうことを、すか、
 やったのか、すか、知ってますか? すか」
という感じ。
数えてみたら、30分で300回以上言ってた。
謎だ。
そして聞いてるほうも疲れる。
ちなみに、授業以外のとき普通に話し掛けると
すかとは言わない。
謎だ。


●ナチ

私は小学校6年生のときに転校した。
その転校先にいた担任のお話。
26歳の若い新しい担任は、
非常にマイペースで感情の起伏が激しかった。
転校生の私に初日から一人で教室に行かせ、
新しい小学校で迷子になったり、
遠足バスでリュックを荷棚に上げようとすれば、
上から押さえつける。
私は本気で嫌われてると思ってました。
何を考えているかわからない、
私にとって非常に苦手な先生だった。
しかし卒業式の日の朝、教室に行って驚いた。
黒板(教室の前と後ろ)に
文字が埋め尽くされている。
それを見た友達は大泣きしている。
「なんや?」目を黒板に移すと

「俺はお前らが大好きやーー!!」

と大きな文字が冒頭にある。
それは先生から私たち生徒への
熱い送辞の言葉だった。
先生の熱い気持ちが
黒板にめいっぱい書かれている。
最後の言葉はこうだ。
「お前らの前で泣くのは嫌やから
 こうやって黒板に書いてみた。」
私も涙が止まらなかった。
「不器用なだけだったんやな・・。」
それから先生とは毎年のように
年賀状をやりとりしている。


●ジンジャー

思い出の高校の先生。
「明日抜き打ちテストをやるから、
 勉強してくるな」
と言い、皆が勉強していかなかったら
「お前らみんなまじめだな」
と笑っていた。
自転車通学禁止なのに自転車で通っていた頃。
雨が降って困っていたら
小言の一つもなく車で家まで送ってくれた。
パーマ禁止が校則の女子高で、
教え子がパーマで始末書を書かされたら、
男のくせに自分もパーマかけてきて
始末書書かされてた。
私の同級生が卒業後、
数学の教師の資格を取り
卒業校で教えたいと相談した時、
「俺の代わりに」
と言って自分が先生をやめて、
同級生に職を譲ってタクシーの運転手になった。
今ごろ何してるかな?
まだタクシーの運転手してるのかな?
とても好きでした。


●ゆっきー

生活指導のN先生は、今でも忘れられません。
高校1年生の時の話です。
2時間目の授業が終わり、お腹が減り、
友人と学校を抜け出して
近所のお菓子屋さんへ走り、
カップ・ヌードルを2つ買いました。
お店のおじさんにお湯を入れてもらってから、
部室へ入り、友人とおもむろに食べ始めた瞬間!
N先生が部室へ乱入してきました。
「こらっ! おまえら何しとる?
 このたわけっ! 没収じゃ!!」
名古屋弁丸出しで、
カップ・ヌードル2つを没収していきました。
貧乏高校生の2人は
「ちぇっ、お金損しちゃったよね」
と愚痴ってしました。
その日の授業後、帰宅しようとしたら
N先生の声で全校放送が流れました。
「ゆっきー君と誰々君は、
 至急職員室へ来なさい!」
また怒られるのかなー?と思いながら、
友人と職員室へ行くと、N先生が
「おまえら、さっきは悪かったなー。
 イスに座って、ちょっと待っとれ」
と言いました。
アイツ、いいとこあるじゃん! と思うやいなや、
職員室に置いてあった冷蔵庫の中から
伸び切った麺が盛り上がった
冷やしカップヌードル2つをとりだしてきて、
「おー、遠慮なしに食えよ! 腹へっただろ?
 もったいないから、残すなよ!」
周囲を先生方に囲まれ、
伸び切った、冷え冷えの麺を2人で食べました。
この味も、一生忘れられません。


●のり巻

20年以上前の高校の先生は、
ユニークな人が多かったです。
英語の女性の先生は、
アントニオ猪木の強烈なファンで、
モハメド・アリとの異種格闘技前の授業は、
大半はどんなに猪木が強いかという話でした。
試合後は、猪木が立ち上がって戦わなかったことに、
泣き出さんばかりに憤慨して、
その後は猪木の話題が減りました。


●こんにょ

私が通った高校は
あんまりおつむの良い学校ではなく、
毎日授業はかなりの喧騒の中行われていました。
それを憂いた英語担当の女性の先生はある日、
テープレコーダー片手に教室にやってきて、
再生ボタンを押しました。
中近東の民族音楽みたいな音が
「ヒャ〜ン♪」と流れる中、
先生は授業を始めました。
ある生徒が恐る恐る
「先生、これ何?」
と聞いた所、
「これを聞くと心が静まるんです」
と静かな声で言いました。
我々生徒は、一瞬
「・・・・」
となったものの、やっぱりうるさくしていました。
なので、その音楽の中での英語の授業は
その後しばらく続いたのでした。
そして結局静かにはならないのでした。


●きん

小学校3年のときの担任たっつぁんは、
ユニークな先生だった。
父親参観日の前日、
先生の質問にはわからなくても
全員手を挙げることを提案。
「わかっててあてられてもいい人は、パー。
 そうじゃない人はグーで挙げること。」
当日、生徒全員が嬉々として手を挙げ、
お父さん達も笑顔。
たっつぁんだけ、なぜか苦笑。
全員グーだったのだ。


●ケニーヤ

高1の時、担任だった英語の先生が、
「今度英検2級受験する」
って言ってました。
当時はなんとも思わなかったけど、
今になるとそんな先生に英語を教わっていたら、
英語できなくて当たり前だ!


●ひなた

クラスの担任の先生が、

『先生のことを嫌いな人は
 手を挙げてちょうだい。怒らないから。』

としつこく生徒に呼びかけ、
馬鹿正直に手を挙げた生徒は
平手打ちをくらっていた。
様子をうかがって手を挙げずに見てた私は
何かを学んだような気がする。

2001-11-05-MON

●古平武史

中学に入って初めての家庭訪問のとき、
家の近くまで先生を迎えにいきました。
そして、家に近づき、
「ここがぼくの家です」
と言おうとした瞬間、先生が

「あ、ここは空家だな」

とつぶやきました。
僕の中では永遠に語り継がれるであろう伝説です。


●まねきねこ

私の高校時代の体育の先生の話です。
当時三十前くらいでしょうか。
ちょび髭を生やした、
それなりに雰囲気のある男性でした。
が、しかし・・・・
まず、初授業の日に2クラス分の女生徒を前に、

「もし、この1年間の授業中に
 事故か何かがあって、
 誰かが怪我をしたとする。
 その場合、責任の99%は俺が取る。
 だけど、残りの1%は、
 自分の胸に聞いてみてくれ!」

という、熱血演説がありました。
当時、もう青春ドラマは廃れていたんですけどね。
また、ある日、彼の話を聞かず
おしゃべりしていた生徒に
熱血お説教をしたまでは良かったのですが、
その後、

「さあ、気を取り直して、
 あの太陽に向かって皆でダッシュだ!」

と、太陽を指差しました。
皆、一瞬固まっていましたが、
結局彼につきあってあげました。
この先生、生徒からは
「ガッツ」と呼ばれていました。


●ちゃあ

「宿題をやってない者は、その場で立て!」

がたっ、がたっ、がたたん・・・。
クラス全員が立ち上がっています。
「お前までか、お前までやってないのか?!」
そう言われた委員長、

「先生、宿題は出てません。」

「う、嘘までつくのか〜!?
 オレはお前たちを見損なったぞ!!」

最後まで自分の間違いを認めなかった先生。
卒業文集の表紙の年号も間違ってましたよ。


●まゆき

高校の校長先生の退任のあいさつ。
話も佳境にはいった時、

「では、長唄を一曲」。

血色のいいほがらかさんでした。


●ほぼねえちゃん

中学のときの美術の先生。
クラスの半分以上が資料集を忘れたとき
もんのすごく怒り、
筆とか投げて、おうおう泣いていた。
鼻水もすごい勢いで出てた。

これが芸術家肌ね・・・・。と肌で感じた。


●ヤッホー

小学校の図工の時間中、
絵の具の蓋がなかなか開かなかったので
先生に開けてもらいに行くと、
先生は力みすぎて思わず蓋を開けると同時に

「プッ」

とオナラをしてしまった。
私は笑っていいものか分からず、
笑いをこらえるのに必死で
また黙々と絵を書き始めました。


●hinkotankon

私は中学生の時バレー部でした。
その部活の顧問は
物凄い恐かったです(あらゆる意味で)。
よく女子部員相手に
思い切りボールを投げ付けていました。
友達は胸ぐらつかまれて宙に浮きました。
さらに自分の趣味で中島みゆきの「悪女」を
部員に体育館の舞台の上で歌わせていました。
これはもう半ば伝統になっていて
先輩から後輩へと代々受け継がれていました。
私は何も分からずこの歌を歌っていましたが、
今思い出して口ずさむと、
こういう意味だったんだなと感慨ひとしおです。
彼は理科の先生でしたが、
前にいた学校は
顕微鏡で自分の精子を生徒に見せたので
飛ばされました。全部実話です。


●さんちゃん

中学の時担任だった先生は、
強力な道具を持っていました。
それは、幅10センチ、厚み2センチ、
長さ1メートル程の木材をガムテープで
ぐるぐる巻きにして補強してあり、
片面には「男は決心」
裏には「女は度胸」と書いてありました。

その名も「決心棒」。

決心棒の威力は
もちろん宿題を忘れたり、遅刻したり、
悪いことをしたときに、発揮されます。
野球部の顧問で立派な体格のその先生は、
生徒が「横軸」を選択した時は、
決心棒の平たい部分で、
お尻に向かってバットのようにフルスイング。
「縦軸」を選択すると、
決心棒の細い部分を頭のてっぺんに垂直落下。
どちらを選択しても、それなりに跡が残ります。
しかも、決心棒を振り回しながら、

「男は決心、女は度胸!!」

と、叫んでいました。
「悪いことをするから、殴られる」
という先生の理論は、
「男は決心、女は度胸」の精神で殴られることで
妙に納得してしまい、
文句を言う生徒は一人もいませんでした。
ただ、使いすぎて決心棒が折れてしまった時は、
ちょっと引きました。
でも、次の日には
ちゃんと「決心棒2」が登場していました。
また、テストを返すときも、
教卓にずらっと並べて、
「勝手に取りに来い」と言い、
みんなで慌てふためいて取りに行くと、
「見られて恥ずかしいような点を取る、
 自分が悪いんや!!」
と、不敵な笑いを浮かべていました。
それから、私はしっかり決心と度胸がつき、
テストで0点を取っても、
クラスのみんなに見せて回るほどになりました。
今の座右の銘は
「男は決心、女は度胸」にしています。
PTAから文句が出て、
先生はクビになってしまったけど、
今でも大好きです。

2001-11-02-FRI

●ゆきんこ

いつも無愛想で言葉も悪い中学の担任。
保健の授業で白血病の話になった時、
突然血を吐いて教室から駆け出していった。
私達をビックリさせようと、
免許のない先生は
わざわざ他の先生に車を出してもらい、
コンビ二でトマトジュース&ケチャップを購入。
そして教務室からずっと口に含んできたそうな。
生徒に全く興味ないふりして、
ほんとはかまってもらいたかったのかな。


●pentoc

私の通っていた高校は私立女子校です。
高2の修学旅行の時、
世界史担当の独身男性教師はカメラを抱えて、
女子学生の写真を撮りまくっていました。
しかし、それらの写真は、
私達学生の目に触れる事は結局ありませんでした。
一体、その写真は何に使ったのでしょうか・・・
謎です。


●はっち

小学2年生のある冬の日、
東京から念願のマイホームを求めて
わが家は埼玉に越しました。
その日のホームルーム、
担任の60近いおばさん先生は
とても怒っていて、クラス全員立たされ、
ただただ叱られておりました。
私も神妙に立っていたのですが、
次第に尿意が襲ってきました。
でも転校したその日で言える友達もなく、
先生が怒りまくっている時に
「先生、トイレ行ってもいいですか?」
とも言えずひたすら我慢してました。

しかし、元々栓のしまりが悪かったせいもあり、
あっけなく放尿。
転校したその日におもらしです。
次第に私を中心にして
ザワザワしてきたのを先生が気づき、
「ハッ」とした顔をして
すかさず窓に置いてある花瓶の水を
私にかけました。
「あ〜ら!ごめんなさい!
 手がすべっちゃった!
 すぐ、保健室へ行きなさい!」
という言葉で保険委員に連れられて
保健室へ行きました。
その後、先生からみんなにどんな話があったかは
分かりませんでしたが、
全然友達にいじめられることはありませんでした。
今思うと先生は転校生だった私が
トイレに行きたいと言えなかったことを
重々分かって
咄嗟に水をかけてくれたんだと思います。
いい先生でした。


●うきち

高校の時の担任、げんちゃんは、
雨がふると、お休みでした。

「雨を見ているとさびしくなるから」

といってました。
いろんな意味で、とってもいい先生でした。


●酢ダコ風味

小学2年生のときのえんどう先生。
若くて面白い大人気の先生でした。
ある日、先生のカバンから
黒いものが飛び出していたので
なんとなく引っ張ってみると、
女性の履くパンストがでてきました。
しかも明らかに使用済み(未洗濯)の
微妙な空気感。
こういうとき子供は残酷です。

「うわあ、こいびとのなのー?」
みんなで詰め寄ると、

「せ、せ、先生が履くんだよ、
 寒いときにね。」

苦しいウソでした。
いったいどこから調達したのでしょう。


●みきちょん

わたしの小学校のときの先生は
チョークを投げていました。
いまでも忘れません。
その先生が投げたチョークは
狙った人へ向けて百発百中の確率で
当たっていました。
先生はどこで練習しているんだろう・・・!?
などと思う毎日でした。


●頑張ってる自炊ちゃん

小学校のときまだ当時20代後半くらいの
若い男の先生がいたんですけど、
頭のうしろがちょっと薄くなっちゃってたんです。
当時あたしはそれがめちゃ気になってて、
ある日、何を思ったのか、

「先生、頭から風邪ひかないでね!」

って言っちゃったんですー!!
先生は静かに

「人の気にしてることを
 言っちゃいけないんだよ・・・」

いっしょによく遊んでくれるすっごくいい先生で
大好きだったのに、本当にごめんなさいっ!!


●ちーこ

高校2年の時に出会った化学の先生は、
授業中に縦笛を吹いたりする人だった。
それに、その先生はいっつも裸足で、
もちろん真冬でも裸足。
「先生は、なんでいつも裸足なんですか?」
と尋ねたら、
「いいかー?足の裏もなー、呼吸をしとんのや」
と誇らしげに答えた。
なぜか納得してしまった。
その他にも、夢をカラーで見るか、白黒で見るか
というアンケートをとったりしていた。
割と好きだった。


●てんこ

中学の時の担任は、
あだ名が「ボディー」でした。
その名のとおり、
胸板の厚い柔道部の顧問でした。
当時いちばん流行った遊びは
「ボディーダッシュ」。
ピンポンダッシュと同じ要領で、
少し離れたところから
「ボディーーーーーーーーー!!」
と力いっぱい叫び、
あとは怒ってこちらに全力疾走してくるボディーに
捕まらないようダッシュで逃げるだけ。
スリル満点の楽しい遊びでした。
ちなみに、廊下の真ん中にボディーがいる場合
端と端で同時に
「ボディーーーーーー!」
と彼の名を呼び、どちらを追ってくるか賭ける、
という高度なボディーダッシュも存在しました。

2001-10-28-SUN

●オレオ

中学生の時、
担任からなぜか目をつけられてました。
札付きの不良とかそんなんじゃなかったんですが、
何かというと呼び出され、
いちゃもん(としか思えない些細な事)を
つけられ、職員室で叱られてました。
その日も、いつもの調子で
ぶつぶつ説教を聞かされたあげく、
「その前髪はなんだ!ここで切ってやる!」
と机からはさみを取り出し、
私の前髪をひっぱるのです。
もう、恐いのと悔しいので、
頭が真っ白になったその時、
担任の隣の机の家庭科の先生が、
担任の腕をがしっ!とつかみ、

「それ以上は私が許しませんよ!」

と間にはいってくれました。
定年前の年配の女の先生でしたが、
抱き着きたいくらい嬉しかったです。
あまり愛想のいい感じのヒトでなく、
どちらかというと恐い感じの先生だったんですが、
それ以来とても近くに感じて、
ずっと慕ってました。
その先生の調理実習では、
御飯は昔ながらのお釜で炊くことになっていて、
あのおこげ付き御飯はほんと美味しかったなぁ。


●シンゴ

適当にダラダラと過ごしていた学生時代。
近いから、という理由で進学した専門学校。
そこで出会った先生の話。

先生が趣味のラジコンヘリの話をしていて、
ふいに生徒に話を振ってきました。
「お前ら、趣味はあるのか?」
その質問にある生徒がこう答えました。
「と、特にありません」
すると先生は激怒して、

「自分の好きな事にも一生懸命になれんヤツが、
 どうしてキツイ大変な仕事に
 一生懸命になれるんか!」

毎日を適当に暮らしていた僕には
とても熱くなるセリフでした。
それから僕はバイトでお金を貯め、
「こんな仕事ができたらいいなぁ」
くらいに考えていた職種に就くために
上京しました。
今では「最終的にはここに入れたらいいな」
と思っていた会社に奇跡的にも採用され、
必死に頑張っています。


●JINKO

中学校1年から2年の終わりにかけての
社会科のばあさん先生。
授業中、(2年のときは歴史担当)カッターを
二刀流で振り回し

「○○氏と○○氏はこぉぉぉうしてぇぇ、
 いくさしたんだぁぁぁぁぁ!!!」

1年の最初の授業のとき

「男と女は、年頃になると、
 白い液と赤い液が出ます!!」

あんさんは保健体育の先生か。


●A92M055

中学校時代の名物先生は数学のK先生。
ちょっとボケかけたおじいちゃん先生でした。
彼は(精神注入棒)で、
成績が悪かったり授業中うるさい生徒のお尻に
気合いを入れるんです。

あるテストの時、
50人の生徒のうち半分が50点以下で
K先生、
「そこに並べ!!」
例の精神注入棒が火をふくわけです。
生徒が順番にたたかれます。
「いっぱああああつ!!」
ビシッビシッ。
薄暗い教室にかわいた木の音が響き渡ります。

ところが、この日に限って
いつになっても生徒の列が途絶えない。
先生はおかしい、と思いながら、
流れる汗をふきつつ精神を注入し続けたんです。
そして、とうとう授業は終わりました。
僕たちは授業を避けるべく、
叩かれたあとまた列の最後尾についていたんです。

先生、ごめんなさい。
あの時の汗を、僕たちは忘れません。


●nob

大学に、アル中の教授がいました。
マイクを持つ手が震え、片方の手で止めにかかる。
今度は、手のひらの中でマイクが回る、
退屈しない講義。
そして、教授は、随分長い事休まれました。
久しぶりに、講義で見かけた教授は顔中傷だらけ。

教授は、
「長い事休んですみませんでした。
 飲み屋でガス爆発にあってしまいまして・・・」
と、おっしゃいました。
そして、こうとも、
「顔中傷だらけで、申し訳ないです。
 エレファントマンみたいでしょ。」

素晴らしい。
行動学を教えつつも、
芸術系の大学であったので、
センスの光るご発言でした。


●きいろちゃん

小学校5.6年の頃の担任が、
定年間近くらいの男の先生だったのですが、
生徒が言うことを聞かないと、
鼻毛を“フンッ”と抜いて
パラパラと振りかけていました。
みんなキャーキャー言っていましたが、
今思うと、とんでもないですねぇ。


●えりか

最近フッと思い出した。
幼稚園年少の担任のヒジキ先生。

「ヒジキ」ってどういう字を書くんだろう?


●ぞりちゃん

中3の11月、転校することになった時。
受験生なのに、友達と離れたくないのに、
卒業制作だって途中なのに、
アルバム用の写真だって撮ったし、
好きな人だっているのに・・・・。
世界が終わるかのごとく、
どっぷり落ち込んだわたしに、
美術の先生が言ってくれた言葉。

「先生なんてなぁ、これだけ年をとってると、
 死にたいくらい哀しい思いを、
 いっぱいしてるんだぞぉ。
 親が死んだりなぁ。」

そうなんだ。
大人の人は同じくらい悲しい思いを
何回もしてるんだ。
みんな悲しい思いをたくさん経験して、
生きてるんだぁ。
自分のことだけしか見えていなかったわたしが、
少し大人になった瞬間でした。

2001-10-23-TUE



高校の頃の話。
うちの高校の文化祭では、
生徒は前もって金券を購入し、それを使います。
余った金券はもちろん後日払い戻しがあります。
購入する時は親にお金を出してもらい、
払い戻し金は自分の懐に入れる。
ほんの1000円くらいのことですが、
私たちはそれをとても楽しみにしておりました。
他のクラスでは
一斉に払い戻しのあったある日のホームルーム、
何故だか私たちの担任は、
お金の話をしようともしません。
不審に思った1人の生徒が
「先生、金券の払い戻しは?」
と聞いてみたところ、
彼の顔は見る見るうちに真っ赤になり、
その目には涙を携えていました。
数秒の沈黙の後で、突然土下座した先生。

「すみません!!!
 昨日、飲んじゃいました!!!」

なんでも夕べ軽くお酒の入った先生は、
ポケットの中に
まとまった金が入っていることに気づき、
(その時点でそれが私たちのお金だということは
 忘れ去られていた。)
「なんだか嬉しくなっちゃって」(本人の弁)
ぱぁっと使ってしまったのだそうです。
必死で口止めをされ、
「次の給料日には必ず返す!」
と約束され、私たちはとてつもなく複雑な思いで、
“土下座する大人”を見つめておりました。
なにやら切ない思い出です。


●りこ

高校のとき、最初の自己紹介の時に

「私のことは○○(名字)先生ではなく、
 ○○五段と呼ぶように」

と言った先生がいました。
教科は忘れましたが、
囲碁をされているとのことで、
大会の翌日などは
囲碁の話で授業がつぶれたほどでした。


●atsuzo

体育のM先生は検尿の前の日に、

「タンパクがおりるので検尿の前には
 オ○ニーしないように」

という注意をしていた。


●さきっち

忘れ物をして、
数学の先生に教師用の木製の三角定規の
“45度の所”で頭を刺された。
本気で痛いし、私は女の子だったのにい、
ふつう刺すか〜!?
今でもあの痛さは忘れられません。


●yuzukuri

忘れられない先生は、
中学校2・3年の時に担任だった長谷川先生です。
昭和60年代だったから、まだ体罰もあった頃で、
ご多分に漏れず
私の中学校も竹刀や角材を持った先生が
たくさんいて、校則違反を見つけるや
「説教」が入りました。
長谷川先生も間違いなく
そっちのタイプの先生でしたが、
今でも先生に大感謝しているのは、
“返事・挨拶”です。
2年生の始業式の日に、

「おまえたちには勉強も教えるが、
 社会に出たらもっと重要なことを必ず叩き込む。
 いい返事しなかったら1発叩く」

と言われたのです。
で、宣言通り、名前を呼ばれて返事が悪いと、
ノートや日誌で頭を叩かれました。
でも、半年もするとクラス全員が
まるで魚屋の主人のように
「はいっ!」
と返事するようになったのです。
今でもその当時のクラスメイトに会うと、
よくその話が出ます。
ベテランの数学教師で、教え方も上手で、
こわーい先生でしたが、
本当に社会に出てから一番役立つ教えでした。


●かお

「思ひ出の先生」というより
先生にあえなくなって29年も経つのに
『阿部○四郎せんせ〜い!!』
日に1度は思い出す名前。

私は、整理整頓が苦手な阿部先生の
脱ぎ散らした服をたたむ係りをしていました。
とても地味な係りでしたが、
クリーニング屋さんのようにきれいにたたんで
ビニールの袋にきっちり入れるのが
私の日課でした。
(今思うと、すっごく汗っかきの先生だったから
 ビニールの袋なんかにしまっちゃって、
 さぞ臭くなってしまっていたのではないか
 という気がしますが・・・)
そんなある日、
『○○(私の名前)には、
 こんなにすごいところがあるぞ!!』
皆の前で、ビニール袋に入った服を掲げて
いつもきれいにたたんでいることを
誉めてくれました。
先生には何気ない言葉だったんだろうとは
思うのですが、
その頃、3人兄弟の中で1番出来が悪くて
自分に自信がなかった私に
「私にもいいとこがあるんだ」
という思い込みをくれて、
今でも励ましてくれてるんです。
私の事は
憶えていらっしゃらないかもしれないけど、
もう1度会いたい先生です。


●かんぱち先生

小学3年生のときの担任のことです
給食後にある机から腐ったかびたパンが発覚。
その後の学活でこれは誰のパンか
という議論になった。
無論、出てくるはずもない。
そこで担任!!
「今から一人ずつ廊下で聞くから
 先生だけには教えてくれ」
学級36人はひとりずつ
懺悔室に連れて行かれるごとく、
廊下での担任へ罪の告白をしにいった。
やはり犯人は出なかった。
先生は一言、
「この学級で素直にやったことを
 認めないという人がいるのは先生の責任だ。
 だからこのパンは先生が食べる。
 食べ物を無駄にはしてはいけないのだぞ。
 いいかよく見ていろよ」
そう言って、先生は全員の前で
腐ったパンを口にした。
みんなが泣いた。熱かった。


●ジャスミンママ

小学校5,6年に担任だった先生は
忘れられないです。
授業中に話を聞いていなかった子にめがけて
スリッパを投げ、
またあるときは画鋲を投げようとし、
さすがにそれは画鋲をつかんだコブシを
ふりあげたまま、ぐっとこらえて、
なんと、ご自分の頭の上に
まいていたこともありました。

夏休み前の日先生は話の最後にこう言いました。
「みんな、この約束だけは守れよー。
 いいか、夏休み中に死ぬな。
 これだけは絶対に守れ。」
そんなことを言われたのは
後にも先にも初めてでした。

「死・な・な・い。はい!復唱!」
「し〜な〜な〜い!」

とクラス全員大声で復唱しました。
なんだか突飛でおかしかったけど、
確かに一番大切な約束ですよね。
子供ながらに
「なるほど、死んだらだめだな」
と思いました。
20年以上たっても忘れられません。

2001-10-22-MON

BACK
戻る