POMPEII
「ポンペイに学べ」
青柳正規教授と、鼠穴で対談しました。

第6回 宗教的なものに対して
    
[今回のみどころ]
ポンペイ展のなかにいると過剰なまでの装飾を見るよ。
テーブルの足ひとつにも猫の足の彫刻がある、そんな
当時のひとは何を思ってそういう暮らしをしたのか?
そこでこのふたりも、キーになると思われる
宗教的なものへの視点についてしゃべりはじめました。

青柳 ポンペイでは貧しいひとも金持ちも、自分の家を
壁画できれいに装飾する気持ちが顕著なのですが、
貧しいひとは絵の具をあんまり使わなかったり、
画家も普通は10日かかるのを1日で仕上げちゃう。
さっささっさした筆づかいで。私たちはそれを見て
「あ、これは古代の印象画だ」なんて言ってます。
一方金持ちはそれこそ最高級の絵の具を使わせて
画家に丁寧に描かせて素晴らしいものにする。
何て言うか、レンジがべらぼうにあるんですね。
それをみんなが楽しんでいたと思うんです。
糸井 あのばらばらさに感動した。
いいものは今見ても明らかにいいわけです。
それで、風呂屋のペンキ絵に近いものもある。
教養主義者はそこまでのレベルのものも含めて
「古いからいい」って言っちゃうけど、俺は
そのペンキ絵は低いと思う。高さがあるとすれば。
でも、低いとしても、住んでいたひとにとっては
きっと感じとるものがあったんだろうから、
素晴らしいと思うんですね。
青柳 自分の神様への信心を示そうとしたら、
「こういう人間のおごりたかぶりが
 このような神罰を与えるんだ」
というのばかり描かせて、それで
自分が信心深い人間だとお客さんに言うとか、
あるいは自分はもうそんなのどうでもいいから、
すけべだと思われてもいいから、壁には
ゼウスが女神に言い寄っている場面だけを描く。
糸井 あれ、気持ちよかったでしょうね。
青柳 ええ。一歩距離を持って
「芸術は崇高である」「芸術のための芸術」
というのではなくて、彼らにとっては
もっともっと身近なものでしたからね。
あそこの家の壁画は好きだとか嫌いだとか、
「金がないからあの程度しか描けない」
という批評をお互いにやっていたと思うんです。
糸井 それぞれ趣味を細分化させていたに違いないし、
クラスチェンジがあったかもしれない。
青柳 もちろん。
糸井 そこらへんは遺跡ではわからないものだし、
想像でおぎなっていると愉快なんですよ。
趣味も転換するでしょうね。未来ですよね。
おもしろいなあ。
青柳 さきほど自然食のひとについておっしゃったけど、
当時はやはり生薬と健康法しかない。
長生きするためにはそのふたつをやる。
病気になると瀉血とかいろいろ方法があって、
成功する場合もあるし失敗する場合もある。
そこで「弱い人間」を認識するから
その頃のひとたちはどうしても信心深くなる。
われわれ現代人と古代人の一番の違いは、
神をどれだけ信じたか信じてないかという
やはりこのへんだと思いますね。
天変地異の起きる原理を知らなかったので、
彼らはそれらが起きたときにはすべてを
神の怒りか喜びがひきおこしたとみなします。
糸井 人間にコントロールできない領域が広いほうが、
ああいう豊かさっていうのは生みやすいのかな?
うーん、大きい問題ですね。
新聞をこのところ注意してみてると、
宗教観について宗教学者的なひとが
一生懸命に警鐘を鳴らす文章がよくあるんです。
オウム真理教以来、宗教全体に対して、
宗教と言えばある種の精神病理だ、
うさんくさい、とみんなが思っている。
今はようやく学者のかたたちが、
科学以外の引き出しが小さくなる状態に
「それはどうだろうか?」
と言えるようになってきた。
オウム事件の頃にもしそういうのを書いたら
大変なことになってましたよね。
最近そういう記事を見つけると、
「これみんな読んでるかなあ」と思いますけど、
ぼくは気になっていたから読んでいますけど、
気にならないひとはいまだに読まないんですよ。
例えば新しい宗教なんかに入っちゃったひとは
それこそ十把一からげで、
「科学やお金で買えないものを信じる変なひと」
という風に心の村八分にしますよね。
それはまずい、と新聞みたいなマスメディアが
最近ではちゃんと載せるようになってきたので、
このゆり戻しをもうちょっとやってくれると
いいのになあ、という気がするんですよね。
宗教そのものを語ることじゃなくて
文化を語ることで自然に出てくると思うんです。
青柳 われわれの世代でおわりかもしれないけど、
ここに天皇の写真がかかってるとすると、
ぼくはその写真を足で踏むことはできないんです。
この感覚は、いろいろしゃべってみると、
どうも欧米人にはあんまりないようですね。
その意味でわれわれは宗教に転化できるかどうか
わからないけど、一種のアニミズムとかを
持っているのではないか?と思うんです。
糸井 日本を航空写真で見ると
神社仏閣の面積がすごいっていうんですよ。
こんなに信心深い国ってないんだって。
青柳 ああ、そうかもしれないですね。
糸井 余談的に言うと漁港の数の多さもすごいらしい。
これは利権がからんでるからだけど(笑)。
漁港と神社仏閣の面積がすごいんですね。
でもいちおう宗教はないことにして
全部タブーになっちゃってますよね。
子供のときに遊んだな、と神社をイメージで
語るぶんにはいいけど、信心を積極的に出すと
変わったひとになってしまうという。
青柳 そうですね。
糸井 趣味についていくら語ってもよくなったのは
ここ最近のことですよ。おたく文化があって。
これも宗教のかけらだとおもうんですけどね。
その意味では日本には宗教的な土壌が
たくさんある。カルト宗教を生む土壌なんかも
全部そのへんから来てると思うんですけど。
青柳 ただひとつ、これは日本の特殊事情か
たまたまなのかわからないんですけど、
人口あたりの美術をやっているひとの数、
スキーをやるひとの数、神社仏閣の数などなど、
そういったものはそれだけ多いわけですよね。
それだけすそ野が広くなっていれば、
峰も本来は高くなっていてもいいですよね。
それがなかなかならない。これはなぜですかね?
糸井 そのへん、おもしろいですね。
前に話に出た「飽き」っていうことと
関わりがあるのかもしれないですね。


[第6回目のひとくぎり]

宗教的なものに対する話からまたふたりの話は
日本の文化にうつってきましたね。この傾向は
おそらくふたりともが未来を見てるからなのかな。
歴史そのものだけを見て終わるんじゃなくて、
どうやらふたりともこれからやる何かが好きみたい。
じゃあ、この対談は未来に何を求めるのか?
それは今後語られていくのです。

(つづく)

2000-02-06-SUN

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