増田 いつかこの忙しい時期が去ったら
自分たちの歌いたい歌を歌い、
自分たちのペースで仕事できる日が
来ると思っていました。
糸井 そういう話は、あの頃
ぼくらには聞こえてなかったですよ。
増田 だって、それは
言ってはいけないことですから。
糸井 あ、言ってはいけないんだ。
そうかそうか。
増田 ふたりだけの秘密です。
事務所から「こうあるべきだ」という
指示は特になかったのですが、
ちっちゃな子どものファンもいるし、
夢を与える仕事だから、
こういうことは言っちゃいけないな、
という自覚はありました。
糸井 だから、ぼくのような者から見ると
よくわからないままの解散でした。
そのピンク・レディーが、
去年から今年にかけて
ひさしぶりにテレビに出てて、驚いた。
歌って踊る姿を観て、素直に、
「どうすればそんなことができるんだよ!?」
と思ったんです。
そしたら、ケイちゃんに
「ステージ観たらもっと驚きますよ」
と言われて。
増田 はい(笑)。
糸井 読者の方がメールで
「AKBの踊りより激しいですよ」
と教えてくれました。
そういえば、ピンク・レディーは
ふたりだ、と気がついて。

テレビの画面でもステージでも、
ふたりがいつもまるごと見える状態で、
動いてない瞬間がない。
「大勢じゃない」という部分だけでも
たいへんなことです。
それをまぁ、この月日がありながら(笑)、
当時よりよくできるようになってる!

そんなふうに
ぼくらには見えました。
増田 それはとてもうれしいことです。
糸井 実際そうですよね、きっと。
増田 はい。
テレビ番組は、まず、
画面にふたりが映らないといけないので
かなり寄った場所が立ち位置になります。
だから思いきり踊れない。

当時の私たちがコンサートで
1時間以上歌って踊るのは無理でした。
オリジナルのテンポのままだと
重たく感じて、踊りもハードになります。
疲れているからこそスピード感が増すように
速いテンポで演奏してもらいました。

でも、あれから30年経ちました。
昔のものを、
ただ懐かしいというだけでやるのは
意味がありません。

確かに、見かけは歳を重ねて
衰えた部分はいっぱいあります。
けれども、豊かになった部分は
もっとたくさんあると
自分たちではそう思っているんです。

ですから、昨年の9月1日、
「解散やめ」を発表したときから、
こう考えていました。

もしまたツアーをやるのであれば、
昔以上のものをやらなくてはいけない。
なつかしいだけでは、お客さんは
ぜったいに来てくれない。
糸井 つまり、プロデューサーは、
自分たちなんですね?
増田 もちろんそうです。
以前はもちろん事務所があったし、
プロデューサーもいたんですが。
糸井 支える人が
ものすごくいたわけでしょう。
増田 はい。でも、50歳を過ぎてまで
人の言うとおりにだけやっていたら
なんの感動もないことは、わかっていました。
自分たちが自分たちの思いで
発信しなかったら、
見てくださるファンの方に伝わらない。
だったら、いま何がいちばん大事なんだろう。

それは、昔を超えることです。
無理かもしれないけれども、
あの頃を超えるパフォーマンスと歌。
それしかない。
そう考えるようになりました。
糸井 うん。
増田 あらためてヴォーカルトレーニングを受けて、
体力や筋力をつけるために
運動のトレーニングも行いました。

体力は、もちろん、
昔とはぜんぜん違います。
ふたりそれぞれが、ほんとうに
一所懸命努力して望んだツアーでした。

実は、「解散やめ」をしようという
考えが起こったのには理由があったのです。

2003年から2005年の2年間、
ピンク・レディーの解散後の
限定復活コンサートがありました。
そこから、作詞の阿久(悠)先生が亡くなり、
振付の土居(甫)先生が亡くなり、
「スター誕生!」で私たちに
プラカードをあげてくれた
育てのプロデューサーである
相馬一比古さんも亡くなりました。

支えてくださった方々が
相次いで亡くなったことで、
私たちふたりが
こうして元気でいられることは
あたりまえではなく、奇跡なんだと
思うようになりました。
どちらかが先に逝ったらもう
ピンク・レディーはありえない。
糸井 それは、本気で、
そう思ったんですね。
増田 そうです。
本気で思いました。

‥‥あ。あれ?
糸井 お茶が出ます。
増田 もしかしてそれは
私のプロデュースした
エプロンですね。
糸井 そうなんです、
先日うかがったコンサートで
スタッフが買わせていただきました。
増田 うれしい。
かわいい!
ありがとうございます。
(つづきます)

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2011-09-02-FRI