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第7回 がんばるだけでは見失うこと


吉本隆明さんが考えつづけたことで、
このコーナーで、くりかえし触れてきた言葉は、

「自ら選んだつもりになっている目的よりも、
 自分では避けられなかった宿命のほうが大事だ」

このようにも、言い換えることができそうだと思います。
今日は、この言い換えた言葉の周辺を、探ってみましょう。

目的よりも宿命──と聞いてしまうと、
ある疑問を、吉本さんに投げかけたくなるかもしれません。

避けられない運命を見つめて達観しすぎていては、
がんばれば何とかなったはずのことを、
がんばらないで済ませてしまったことにならないか、と。

ここで、がんばることに対しての
吉本さんの、ひとつの警戒の言葉を、紹介します。

「戦後、誰もが貧しさを経験したときに通用した、
 欠乏があるけど、そのなかでどう生きていくか、
 という倫理観は、いまの世の中では通用していません。
 すくなくとも、金銭や物質の豊かさは、あるのだから。
 
 だからこそ、今は、あちこちで
 あたらしい生き方を提案する人が現れるのだが、
 実際、そういう人たちが何を言っているかというと、
 『毎日、がんばって修業していれば見える境地がある』
 仕事のことか、精神面のことか、については
 いろんなバリエーションがあったとしても、
 基本的には、それ以外のことは言っていないんです。
 目的を、修業をがんばることにおいてしまっている。
 
 修業や練習でがんばって、ある境地が見えたとします。
 ほんとうに大事なのは、
 『だからどうしたの?』ということなんですよ。
 修業だけをやっていればいいという主張は、
 社会の中で、人がいかに生きるかという問いに、
 解答をすこしも出していないじゃないか。

 ほんとうはもうすこし
 もたついたほうがいいところを、
 こうすれば幸福になるよとか、
 こうすればできちゃうよとか、
 どこかで近道をふんでいるような気がします。
 近道なしに現実を生きていこうとすれば、
 やっぱりいろんなことにぶつかって、
 簡単にうまくいかないというか、
 そういうほうが、まっとうな気がするんです」


修業を一生続けているだけでは、
自分以外のものを見ることにはならない。

盲目的に、ひとつの道に専心することの弊害を
吉本さんが、ずいぶんたくさん見た経験があるからこそ、
こういう言葉が出てくるのかもしれませんが、
あなたは、いま、これを読んで、どう思いましたか?

今日の最後に、あとひとつだけ、
ヒントになりそうな発言を、紹介してみますね。

「ある人の精神が正常であるということが、
 『精神が平均的だ』と理解されているとすると、
 その平均性からの、なんらかの意味での
 逸脱といいますか偏りは、いってみれば
 全部の人が免れがたいことではないでしょうか。

 それぞれの偏りに対応するだけの
 べつな意味での特色というか個性がある。
 偏りなしには文明とか文化は
 展開したり発展したりしてこなかったんじゃないか。

 異常とか逸脱、偏執とか偏向ということによって
 文化を築いてきた人類にとっての
 『異常』を乗りきる方法は、
 おおきな射程で描かれた時間とか時期を
 遮二無二でも通過するほかないんだとかんがえます。
 遮二無二やってるうちに、
 直らなくても、異常のまんまでも、
 倒れようとどうしようと、いつかくぐり抜けた、
 そういうことが、あるのではないでしょうか」


まだ、この発言の意味については、
「ほんとのところ、どういうことを
 伝えようとしているのか、わかりにくい」
と思う人も、いらっしゃるかもしれません。

ただ、やはり「避けられない運命」についての
ひとつの言葉ではあるので、まず、紹介してみました。

それぞれ、偏った考えを持っていて、
しかも答えを早めに出したがる生きものを、
吉本さんは、どのように見つめているのでしょうか?

そのへんは、次回につづけたいと思います。

あなたが、吉本さんの言葉を読んで感じたことや
「避けられなかった運命」について思うことなどは、
postman@1101.com
こちらまで、件名を「コンビニ哲学」として、
自由に、お送りください。すべてじっくり読んでますので。

このコーナーへの感想などは、
メールの表題に「コンビニ哲学」と書いて、
postman@1101.comに送ってくださいね。

2003-09-05-FRI

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