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#29 訓練しないと悩めない


哲学の世界では、よく知られている考えであったとしても、
ふと日常生活で人に伝えると、ヘンに感心されたりします。

今日は、そういう話を、おとどけしたいと思います。

……あなたは、地球がまるいことを、今、証明できますか?

きっと、「厳密にはできない」という人が、大半でしょう。
だからと言って、地球がまるいということを、
やすやすと「ウソ」とは言いたくない気分になりませんか。

例を変えてみると、わかりやすいかもしれません。
どんな事実も確実だと見なさない人が、側にいたとしたら、
その人の言うことを、あなたは、信用できますか?

すべてを疑おうとする人は、
何ひとつとして正しいとは言えないのですから、
「正しいの?」と疑うところにさえ、行き着けませんよね。
当然、すべてを疑う人の言葉は、
何一つとして、確実ではありえないということになります。

人は、確実さを、どうやって得るのでしょうか。

計算を習う子どもは、
「教師を信じてもいい」という前提がなければ、
何ひとつ習うことができないはずです。

私たちの世界観は、必ずしも、その正しさに
すべて納得したから私たちのものになったわけではない。
「その世界で正しいとされるもの」「そうでないもの」
この区別を、伝統として受け継いだからだとも言えます。

人は、言葉を学ぶときに、
何を探求すべきか、何を探求すべきではないか、
といったことも、同時にうすうす、学んでいるはずです。

例えば、まったく知らない言語については、
聞くことも喋ることもまったくできないのだから、
「その言語をまちがえること」さえ、できないわけです。
だから、人はある世界に参加していないかぎりは、
まず、まちがうことさえできない、とされているんです。

何ひとつ認められない、
まったくトンチンカンなことを告げられたら、人は、
「狂ってるよ」とは言うかもしれないけど、
「まちがいだ」と疑うことはできないわけです。
本当にわかりきっているとされていることだけを、
「この靴の右足部は、左足用ではないか?」と
毎日アタマをひねって悩んでいる人もあまりいません。
人はそれを、たぶん疑いや悩みとして認識できません。

疑いや悩みというのは、そんな風に考えると、
ある限定した枠組みの中にしかないのかもしれないんです。

いろんな認識の中でも、
ごくごく、限られたものだけが、「悩み」と扱われる。

だとすると、人の悩みは、
ある程度のある社会の枠組みに参加しているからこそ、
ある特定のかたちで、あらわれてくるものだと、
割と大ざっぱに言っても、いいのかもしれません。

仕事の悩みが、
どんな職種でもある程度共通しているのは、
「ある社会である集団が作られたら、
 出てこざるをえないひずみが似てくるからなんだ」
とさえ、想像することができるかもしれません。

このコーナーで、
かつて話題にした「遅刻」についても、
「遅刻をしない」という世界が意識されていない限りは、
いけないこととして認識されることさえ、ないでしょうし、
「遅刻をしない方がいい」
という社会を認めた人どうしの誤差としてでなければ、
「いけないこと」は登場しませんよね。

これを読んでいる人の中には、
引きつづき、遅刻などについて、
かなりの悩みを抱えている人がいるかもしれません。

でも、それさえも、例えば世界的な
けっこう大きなものさしで眺めてみると、
「かなり進化して社会生活もうまくいった後の
 小さな誤差でしかないかもしれない」とも言えますし、
「小さな誤差だからこそ、余計に腹が立つ」
とも言えます。

「人は、誤差でしかまちがえることがないのかなぁ」
と、更に考え続けてゆくことだって、できますよね。

「悩んでいるからには、
 その世界で、ある程度の訓練を積んでいる印」という
前提条件さえ、そこからは受け取れるのかもしれません。

仮にそういう立場を取ると、他人の疑いや怒りを、
あなたの方からは、どう眺めることができるでしょうか?

……疑っている時点で、それから、怒っている時点で、
その人は、何かを確実にしていることになりますよね。
それがないから、疑ったり怒ったりしているわけですから。

その人の「確実さ」は、どこにあるのか。
それを見極めてみる作業は、意外とたのしいものですよ。

「あらゆる問いには、答えたい方向が見えている」
という言葉がありますが、それは、あらゆる問いに、
「その人が、ここまでは確実としている文化」
が、見え隠れするからとも言えそうです。

そうだとすると、策が見えてきませんか?

「その人にとって確実にしている文化」を見つめること。

これは、原因不明に腹が立って仕方がないときの
自分の疑いや怒りにだって、当てはめられるはずです。

人間が、まるで魅入られたかのように、
昔も今も、くりかえし問いかけてしまう考えは、
「その問いが私たちを一歩も進めない」
とわかっていたとしても、止められない場合が、多いです。

例えば、死についての心配などは、それに当たるでしょう。

それはもしかしたら、無益な問いなのではなくて、
誰でも、世界で生き抜く訓練の結果、
ついつい、そんな風に問うてしまうように、
「私たちのいる世界の考え方が生んだ一定の誤差」
として、最初から組み込まれているのかもしれない。
そう考えることは、できませんか?

例えばそう受け取ってみた上で、
「今、自分は、何を認めているのか」
「何を認めないで疑いにハマっているのか」
そう問うたとしたら、あなたはどう考えるでしょうか。

人があやまりを犯すことは、すでに、
「他の人間と同じような判断のしかたをとっている証拠」
なのだとも、哲学の世界では、よく言われているんです。

なぜなら、社会規範が前提になっていない場合には、
人はそこに参加してはいないので、
「まちがうことさえできない」わけですから。

そう考えると、
「自分がいる世界の中で、自分が
 道をまちがえるとしたらそれは、どういう意味か?」
と、そのつど自分に問いかけることは、案外、
想像しているより難しくない問いなのかもしれません。

最初に、いったん何かを信じこまなければ
まずは、自分のいる社会に、参加さえできないのだし、
悩んだり疑ったりすることも、できないわけですよね。
ある世界での訓練がなければ、悩みにさえ行き着けません。

悩みや疑いに行き着いているのならば、それだけでも、
あなたはある特殊な社会で訓練を積んでいるわけですから、
求めるゴールは、これまでの訓練を見つめることによって、
おのずから、割とあっさり、出てくるのかもしれません。

「悩みや疑いは、その人の世界の誤差の範囲内に過ぎない」

そう考えるとすると、

「だから、人の悩みを読むとそれを解く訓練になりそうだ」

極端に言えば、こんな考えを取ることだってできますよね。
他の人も、似た世界で似た訓練を積んできた人なのだから。

自分だけでは、気づけなかったかもしれないけど、
求める回答は他人の悩みの中に浮き出ているかもしれない。

そのときあなたは、他人の悩みをどう読み取るでしょうか?

いろんな人の悩みや疑問についてのメールは、
今後、実際に紹介することにして、あとは次回に続きます。

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                  木村俊介

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2003-11-26-WED

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