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#24 空白を埋めない方法


前回の "#23" で触れた「自分と和解する技術」については、
「そういうものを、前から求めていたけどなかったんです」
というメールを沢山いただきました。一部をご紹介します。

「人生に迷ったとき、師がいたらなぁ、と思っていました。
 私なりの練習メニューを考えて、はげましてくれる監督。
 読書の方法や、小説家に必要なことを教えてくれる師匠。
 マラソンの高橋尚子や作家の大江健三郎ら『成功者』は、
 それぞれ、いい師を持っている、と感じていたからです。
 でも、金メダリストやノーベル賞作家と、私の人生とを
 比較することには、自分なりに違和感を覚えていました。
 封建制度、軍隊、宗教の原理主義、独裁国家、などなど、
 師や教本だらけの社会の息苦しさは、身近にあるのだし、
 失敗する自由があることを喜ばなければ、と思ってます。
 この自由が、たとえ、他人からみたら、自由なんていう
 かっこいい言葉じゃなくて、単に失敗かもしれなくても。
 『自分自身と和解するための方法論は、語られにくい』
 という言葉は、今の私の気分に、ぴったり合っています」

「人にとって、中途半端な状態は気持ちが悪いと思います。
 宙ぶらりん状態で生きることに我慢がならないからこそ、
 結果を出したくなり、目標を設定して、頑張ってしまう。
 自分も含めて、そんな人の行動や気持ちが気になります。
 この道を歩けば、あそこにたどり着くし、着いてみたい、
 という目標や方向がなく、どこに行くか定まらないまま
 歩いてゆくことは、前進か後退か、でさえもわからずに、
 ものすごく、気持ちの悪いものに感じられると思います。
 ただ、一つ感じていることは、この、何とも生ぬるくて、
 どこに進んでいるんだか知らず、目標も定まっていない
 無駄な歩きを『ダメ』と決めつけない人生全体に対して、
 信頼を持てるならば、幸福かもしれないということです」


ふと迷ったときに、これからの道を、
すべて細かく教えてくれる答えを求めたくなったり、
先の見えない中途半端な状態のままでは不安だから、
まず、何かの目的を設定して進んでみたくなるというのは、
沢山の人が、一度は経験したことのある感情だと思います。

今日は「何をしたらいいか、わからなくなってきた」と
悩みの渦中にいる人に、少しでも参考になるかもしれない、
「空白があったら、ある程度そのままにしておく」という、
ハイデガーがよく使っていた方法を、紹介してみましょう。

まわりにいる人を傷つけるような言葉しか言えないときや、
誰かと別れてしまい、誰とも会いたくないと感じたときは、
話すほどに、違和感や絶望感が広がる状況に陥りがちです。

また、性急に自分の目的を知ったり、獲得しようとしたり、
焦るあまりに、機が熟していなかったりするときも、多い。

急いで、よそよそしい誘導尋問のような言葉にまみれた後、
自分や他人の境遇や気持ちまで、分析の刃で切り刻むなら、
おたがいに疲弊してさようなら、ということもあり得ます。

……そういうときは、何が、問題なのでしょうか?

もしかしたら、
「苦境の折に、一発逆転をねらいすぎていること」が、
問題と呼べるのかもしれません。

追いこまれている状況を、まず認めて、ゼロに戻す方法や、
追いこまれたからこそ、すぐに勝ちにいくためではない策。
そういう遅々とした方針が効くときもある、と思われます。

先まわりをしようとしているときには、
あなたは、先まわりをしなければならないほど、
崖っぷちに、追いこまれすぎているのかもしれません。

そのときの、つい早口になったり、早く目的に着くために
自分や他人を説得させるためだけの言葉を重ねる状態には、
誰が見ても、まず「豊かさが湧き出る感じ」がありません。
空白を埋めようとするだけの語りは、周囲にバレています。

哲学の歴史の中には、頭の中が空っぽになってしまったり、
空白でどうしようもなくなった人が、多く、登場するので、
袋小路に陥ることは、割と普通の話として語られています。

知への道を進むということは、どうしても、
自分を否定する意味あいもある、と言われ続けていますし、
「知への道は疑いの道であり、絶望の道でもある」
と語られる。そのことは、様々な哲学書に書かれています。

考えれば考えるほど、自分が進歩すればするほど、
「まだ、把握できていないこと」が、いっそう際立つ、と。

しかし、その「疑いと絶望の道」と呼ばれている考えも、
懐疑主義で終わる考えと、そうでない考えとに、別れます。

「あれは、少なくともこのへんまではダメ」と限定つきで
否定している場合には、否定した地点から、新しい考えが
生まれるはずで、こうして精神の旅はおのずと進んでゆく。
そういう考えを取る哲学者は、過去に、ずいぶんいました。

おそらく、ハイデガーもそういう人間の一人だと思います。
彼は既に、十代で難しい哲学書を読みはじめたときにさえ、
何度も「読んでもわからない」という壁にぶつかりました。
故郷の小さな町メスキルヒで哲学論文を読んでいた体験を、
ハイデガーは次のように振りかえっていたことがあります。

「いくつもの謎が絡みあって出口が見えなかったが、
 そんなとき私は、野の道に救いを求めて出かけたのです。
 野の道の周囲にある自然のありのままの事物の広がりが、
 私に、世界を与えてくれました。
 言葉によって語ることのできない中でこそ、
 神は、はじめて神になるのでした」


まだ、彼がカトリックに浸っていたころの思い出ですが、
この「言葉にならないものをそのままにしておく」方法は、
彼の生涯を通して、かなり使われたもののように思います。

美しい花が咲いている姿を見つけたとしても、
その花を切って手に取ると死んでしまう。だからその花を、
生えているところにそのまま立たせておくようなことこそ、
考えるうえで重要なんだ、と彼は述べたことがありました。

得たいものを、わかろうとしすぎて解剖するのではなくて、
素朴に、「いい」と思った衝動から、離れたくないのだと。

ハイデガーは、神学に懐疑を覚えて哲学に転向もしますし、
その後、少年時代に傾倒していたカトリックも捨てました。
しかし、なぜ捨てたのか、なぜキリスト教に惹かれないか、
については、後になってもあまり詳しくは語っていません。

ハイデガー研究家たちが、ああでもないこうでもない、と
詮索をする以上の「キリスト教を捨てた理由」への興味は、
ハイデガー自身にはなかったのではないかとさえ思います。

ハイデガーは、旅をして、教会や礼拝堂を見かけると、
カトリックを捨てた後も、祈りを捧げることを続けました。

非カトリックなのに、なぜ、礼拝をするかと問われたとき、
彼は、次のように答えました。

「こんなにも多くの祈りがなされた場所には、
 神々しいものが、特別なありかたで近くにいるんです」


沢山の哲学の講義でも、神学に触れることはめったになく、
「神学に沈黙することで、私は、神学を敬っているんです」
と、生徒たちに伝えたことも、ありました。

「こうあるべき」という考えだけを推し進めると危険です、
と、理論の絶対化には反対していたことも、おそらく彼の、
「空白は、そのままにしておく方法」の一つだと思います。

かつて、あるものを、強く尊敬した体験があったとしたら、
実際に尊敬した時間そのものは、大事にしておくべき、と。

理論的なものの中への、まちがった深入りは、
自分のまわりの体験を見渡すことへの大きな障害になるし、
理論によって、理想化されたものしか見えなくなるのなら、
理論は、現実を破壊するだけ、とも言えるかもしれません。

最高に客観的な立場になって、
最高指揮官のように世界を見渡せる丘なんてどこにもない、
……ハイデガーは、そのように述べたことも、ありました。

偏見を廃してものを見る立場なんて、本当には取れないし、
常に何かしらの偏見や偽りを自分の根拠にしたがる人間の、
その現実の構造に、注目すべきだと、主張していたのです。
本来あるべきものからスタートするのではなくて、
ここにあるものを見つめるだけで、まずは精一杯だ、と。

話すことができないときは、周囲に耳をすませて沈黙する。

自説を展開するほど余裕がないときには、まわりが見えず、
その空白や喪失感を埋めたくなるけれど、そんなときこそ、
一度しか現れないかもしれない「不安の時間」を、味わう。

そういう考えが重ねられていった、ハイデガーの考え方は、
次のような手紙を書いたことによく表れていると思います。

「せかせか働く風潮や、成功や結果に囚われることにより、
 私たちの探求は、根本的に、邪道に導かれてしまいます。
 私たちは、本質的なものがあると、錯覚しているのです」


「本質がある」と思うから苦しくなってしまうのであって、
本質や理想化なんて、まずは忘れて、沈黙するという方法。

迷ったとき、
目の前にある無責任な鎮静剤のような言葉に頼ったならば、
生き生きとした自分自身のことを忘れちゃうのではないか、
と述べた彼の考えは、その先に、当然、
「ハイデガー本人の言葉にだって、人は頼るべきではなく、
 それぞれの人はそれぞれの人の根っこを見つめるべきだ」
という方向に、進んでゆきます。

哲学界には、ハイデガーが途中で書くことに断念した
『存在と時間』をめぐる議論は、ずいぶん沢山ありますし、
彼が本当は何を言いたかったかに関しても意見は別れます。

ところが、それぞれの人は、それぞれの根を見いだすべき、
という考えそのものは、しっかりと書かれているのだから、
哲学界で、生き抜きたいわけでもない普通の私たちならば、
安心して、自分の根を見つめるための、きっかけや技法を、
彼が残した本から、自分なりに読み取ればいいのでしょう。

彼がこうでなければいけないとした理想の理論はないけど、
「こんな角度で見る」というヒントは多かったのですから。

あなたが、目的が見つからないときや空白を感じたとき、
しかも、誰もがやっている解決法では満足できない場合……
もしも、空白をすぐに埋めないまま、考え続けたとしたら、
その後、あなたはどんな気分になっていくと想像しますか?

今回の最後は、「あまり具体的に語らない」という方法で
毎日を過ごしている画家の人に、かつてぼくが
直接に聞いた話を、参考までに紹介してみたいと思います。

「ぼくがこの仕事をはじめたのは遅い年齢からで、
 この仕事に入る頃には、もう四〇歳を過ぎていたので、
 自分のスタイルは、あまり決めないでやっていますね。
 新しい画材を使ったり、やったことないことをするって、
 道具を買うので、かなり、お金がかかるじゃないですか。
 ぼくは、そうやって目に見えてお金を使うのがたのしい。
 その後に仕事になるかどうかはわかんないけど、
 浪費がたのしくて、新しいことをやっているのかも……。
 ビデオを買ったりカメラを買ったり、油絵をはじめたり、
 エッチングをやってみたり、オブジェの材料を変えたり。
 飽きたから、ある一つの手法をやめた、というよりも、
 別のことをやっているうちに、他が薄らいでいくんです。
 『表現の方法としては、やることやっちゃった』
 という地点から、どんどん、移り変わっていくわけです。

 ぼくがいま描いている絵は、意味なんてほとんどなくて、
 同じ絵でもいいやっていうくらい、自然に描いています。
 それを何十時間もやっちゃうと、『どうだ』っていうか、
 自然と、描き方とかも変わっていったりするわけでして。
 どれが完成か、いつ完成に達したのか、わからないほど、
 大量に、ほとんど何も考えないまま、描いているんです。
 後で大量に見直すと、実は、この地点が完成だったのか、
 と気づいたりするんですけどね。
 何の意味もなくどっと描いて、自分がこうやりたいとか
 そういうものとは関係のない、偶然の要素が気になるの。
 描くときの、その場の雰囲気もちょっと関係してますし。

 ただ、今、こうしてしゃべればしゃべるほど、
 何か、自分のやっていることとズレてしまう気がします。
 やっぱり活字とか言葉とかにしてしまうとズレますよね。
 だから、さっき実際に目の前で描いてみせたような、
 あれで、すべてなんですね。ぼくのやっていることって。
 しゃべればしゃべるほど、何か、おかしくなってきます。
 ぼくは、しゃべると失敗するんですよ、絶対に。
 言葉を持っていないのに、
 喜ばせようという気持ちだけは、一生懸命なので。
 そうすると、ついついウソをつかなくちゃいけなくなる。
 わかりやすくするためには、ウソになっちゃったりする。
 だからぼくは、黙ってものを作ったほうがいいんですよ。
 それはもう、この年齢に来て反省しきりでもありまして。
 言葉って、本当に難しいですよね。
 たとえば『無意識でやってます』って言っても、まるで、
 無意識さを意識してるみたいになったりしますから……」


目的を明確にするあまり、
自分や他人にウソをつかなければいけなくなる地点。
そこを「空白を埋めないまま過ごす」という方法があると
気づくだけでも、ヒントになるのではないかと思いました。

あなたにとっての、現時点での、
「はっきり言えないけど、大切なもの」は、何でしょうか?
もちろん、それを明確に話せなくても、いいのですけどね。

次回に、続きます。

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メールで送ってくださると、とてもうれしく思います。
postman@1101.com
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                  木村俊介

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2003-11-13-THU

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