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#19 他人に代えられない世界


前回の「コンビニ哲学」"#18" に対しても、
たくさんのメールを、どうもありがとうございました。

その中で、一通だけですが、
「『ムダな時間は過ごせない』という考えがわかりません」
というおたよりが、気になりました。

この方は、
「後にプラスに転じた経験談が紹介されていましたけれど、
 経験には、後でどう考えてもマイナスでしかないものが
 あるように感じているのです。ムダはムダだと思います」
ともおっしゃっています。

確かに、そのとおりだと思います。

あるひとつの目的や、あるひとつの視点から見ると、
その目的や視点に合わないものについて、
「ムダな時間」だと指摘することは、可能だと思います。

ただ、前回、ぼくが伝えたかったのは、
「でも、その時間を経験することからは逃げられなかった」
「同じ時間の中には、誰も、二度と過ごすことができない」
という点で、その時間は「そのように流れた」のであって、
「ムダに流れた」と判断するものでは、ないかもしれない、
ということだったのです。

充実感に満ちた時間も、ムダに費やしたと後悔した時間も、
どちらも、生まれて死ぬまでの貴重な時間として見るなら、
同じように「すでに、流れていった」ということなのです。

ムダだとか、まちがいだとか、
客観的に断罪をできるような時間は、
今も、いつでも、流れていないのかもしれません。
「あれはムダだ」「あれはまちがいだ」と告げる一言こそ、
かなり後から見たら、よくそんな偉そうなことが言えるな、
と思えるものだったりすることは、たくさんありますので。

哲学者の書いたものをたくさん読んでいると、後になって、
そのまちがいを指摘されたものが、とても多いものだから、
哲学書にまちがいが含まれているということは、最初から、
ほとんど前提になっているようなところがあるのです。
もちろん、ハイデガーの『存在と時間』も、その意味では、
すでに、たくさんの批判にさらされている本でもあります。

しかし、あるまちがいがあったとしても、
「つまらない」と言いきれない奥深さを、そこに感じたり、
先人が、あることをまちがえた理由を調べてみることから、
哲学者たちは、たくさんの考えるヒントを汲んだりします。
ムダに思える記述も、まちがいに思える記述も、
先人がそれを記している時間は、そうとしか流れなかった。
ただ、生涯の一つの貴重な時間として過ぎていったのです。

ハイデガーは、最も強い影響を受けたと言えるニーチェが、
考えの誤解(カントの "関心なき"という言葉への誤解)を
述べたことについて、丁寧に辛辣に、それを指摘した上で、
学生に対する講義で、次のように話したことがありました。

「ニーチェの誤解を指摘したことは、
 カントへの根深い誤解を取り除くことが目的ではなくて、
 ニーチェが考えている事柄を、その歴史との関わりから
 把握するためだったのです。
 彼の誤解は彼の限界であると共に彼の時代の限界であり、
 誤解があっても、ここでは、ニーチェの考えが、
 そのひとつしかない地盤から成育するのを見守った上で、
 その考えがどう分裂状況に陥るのかを見届けたいのです。
 私は、何度も反復しながら、ニーチェと対決したい。
 反復することで、彼の全体を規定している少数の思想を
 くりかえし巻きかえし、それがどれほどの射程を持って
 今もなお銘記すべき思想であるか、見いだしたいのです。
 対決とは、彼の考えを追いかけていき、その弱みでなく、
 それの発揮する力量をつきとめるということにあります。
 一体、何のために対決などするのかと言われたとしたら、
 対決を通じて、厳しく考える自由さを求めるからでして」


「同じような時間は二度と流れない」という
ハイデガーの前提条件は、結局、何に向かうのかと言うと、
「生まれてから死ぬまでに、本人が
 他人に代わってもらえることは、ほとんどない」
ということだと思います。

ここでは、そのへんについて『存在と時間』に記された
内容を、細かい用語を噛み砕いて伝えてみたいと思います。

「死んでいった人は、確かにこの世界から去ったけれども、
 ある『世界』を後の世に残して去っていったのでしょう。
 私たちは、純粋に他人の死を経験することができません。
 せいぜいできることは、その場に居合わせるとことだけ。
 誰かが、他人の犠牲になって死んであげることはできる。
 しかし、いかなる人も、他者が『死ぬこと』自体を
 取り除いてあげることなんて、できないのですから。
 死とは、誰にも、そのつど『自分だけのもの』なのです」


ムダな時間とか、まちがえてしまった時間とかではなくて、
生まれてそして死んでゆくまでの、「一つの世界」として、
人が時間と共に暮らしてゆくことを見つめるとどうなるか?

そういう試みを、
ハイデガーという哲学者は、かつて、したのだと思います。

周囲からダメだと思われていても、ムダと思われていても、
その人が、一つの世界を歩いていることには変わりがない。

そういう
「他人の代わりになれない時間の推移」を見つめた試みを、
このコーナーでは、少しずつ、特集してゆきます。

このあたりで、それぞれの人に流れる時間を考える
ヒントになりそうな、実際に生きている人の言葉の数々を、
前回に続き、いくつか、紹介しておきたいと感じました。

大上段にふりかぶったような、抽象的な話を続けることは、
ハイデガーの時代にはとても向いていたと思います。
しかし、今、実際にこのページを読んで、それを
考え方や生き方のヒントにしようと思う人にとっては、
おそらく、経験談と混ぜながら話してゆくことの方が、
話が抽象的になればなるほど、有効になるでしょうから。

かつてぼくが、直接に話をうかがった職人たちの言葉を、
少し長くなりますが、時間に絡めて、二つ、ご紹介します。

「何かが出しつくされたと思われた後で、
 いったい、何ができるか。
 ファッションなんか見てよ。
 裾が広がっているズボンは、昔は、
 ラッパやパンタロンって言ったもんよ。
 あれ、俺が中学校のころからすると、
 少なくとも、四回はその時代が来たと思う。
 でも、そのたびに名前がぜんぶ違うんだよ。
 デザインは一緒なの。
 ……だったら、おもしろさが出つくくした時に、
 『古い』とされている、その古さって何なんだ?
 古いか、新しいかの、問題じゃないんだよ。
 たまたま、時間は通り過ぎていくもので、
 既にあったものを後ろに行かせなきゃいけない……
 だから、便宜上、古いって言ってるだけで、
 どっちがいいとか、そんなはずはない。
 古い、新しい、は、誰が決めたんだという話だよね。
 古い? 新しい? 関係ない。
 彫刻とか民芸品とか、何でも、そうじゃないの?
 職人とか名人芸だとか、今、改めて言われているからね。
 古いとか新しいとかが関係ないなら、
 言いきるヤツ、やりきるヤツ、貫ききるこそヤツが、
 本当は、どれだけ豊かなことか。
 今の世の中の価値観でも、もう、そういう捉え方が、
 既に、はじまっているのかもしれないよ。
 古いとされているものには、捉え方ひとつで、
 感じ方ひとつで、カネが埋まってんのよ。
 これ、俺の分野の話をしてるようだけど、違う。
 すべてに言えると思う。どの世代でも、みんなが、
 自分で言いきっちゃうようなワガママさが出てきたら、
 本当の意味でのおもしろい時代が来るかもわかんないよ」

「他人からお金を預けてくれて、仕事をさせてもらって、
 自分の思うようなものを作らしてもらって、
 最後にはみんなが、
 『ありがとう、ありがとう』と言ってくれる。
 それでごはんを食べていられるわけですから、
 こんないい仕事はないと思います。そうでしょう?
 そりゃもちろん、やっぱり苦しいというか、
 そういう時は、多少はありますし、あったと思います。
 しかし、修行するのに苦しいとか、
 そういうふうに思う人がいますよね。それは、
 仕事の雰囲気の中に入りこんでないから苦しいんです。
 入りこんでしまえば、全然何でもないですよ。
 だから、入りこめない子はかわいそうですよね。
 いろんな能力のある子は、なかなか入りこめないです。
 『仕事にどっぷり首まで浸れ』
 と言うても、これは浸れる子と浸れない子がいる。
 それはどこに違いがあるかというと、
 他に能力を持ってる子は浸れないですよ。
 ここまで入るまでに
 いろんなことを考えてしまって、他を見ますよ。
 苦しくなったら、他を見ますよ。
 でも、能力のない子は、苦しくても、
 一つの仕事しか見られないんです。
 それが、楽しいことなんですよ。

 徒弟修業のようなものですから、
 師匠と弟子たちとで、おおぜい一緒に住んでますと、
 その時間の中で、伝わるものがありますな。
 手が足りない時には、ほんまに仕事するのも、
 夜、寝ずにしてますもん。そういう癖がつく。
 そうなってくると、休みたいとか
 そういう気は、誰もがなくなりますね。
 仕事のおもしろみがわかったら、
 もうそのまんまほっといても、
 どんどん自分でやっていく感じですね。
 これをこうしなさいとか、言ったことないですよ。
 自分の師匠も自分にかんなくず1枚だけでした、
 手本を示してくれたのは。
 『かんなくずはこういうもんだ』
 と、ポッと見せてくれただけです。教えてくれない。
 こういうかんなくずが出なくちゃなんないんだなと、
 毎日毎日、夜に帰ると研いでは削り、
 研いでは削りして練習するわけですよ。
 だから、何にも言う必要ない。
 かんなくずだけ見本に置いとけばいいわけです。
 学校だったらば、こういうかんなくず出すのには、
 かんなの台はどうのこうの、研ぎはどうのこうのいう。
 そういうことはいわないんですよ。
 そういう目指すものだけあればいいんです。
 それに近づこうとするわけだから。
 
 今のうちも、大部屋で、ドアはないですし、
 来て一か月ぐらいでやめる子は、
 やっぱしそれに耐えられないんですね。
 寝ても起きても隣で同じ顔があるというのがイヤだと。
 しかし、大部屋で過ごすことによって
 みんなと仲よくしなくちゃならないとか、
 いろんなことを考えてはじめるわけですよ。
 ですから、忍耐とか何かが
 自然に養われてくるわけです。
 自由な時間がない。そういう生活をしていると、
 自分というのは優しくなければ、長い時間、
 みんなと一緒にともに過ごすことができないぞ、
 ということに気がつくわけです。
 ですから、うちの子はみんな優しいですよ。
 例えば物を持つのでも、力のあるような子は
 重い方をスッと持ちますよ、二人で持つのでも。

 で、料理でも、みんなの好む味を作るようになります。
 それが大切なんですよね。
 個室で育った子が来るわけだけど、
 それで思うのは……個室が一番悪いですよね。
 個室があれば、自分でそこへ入り込んで、
 自分なりの考えをするでしょ。それが一番邪魔ですよ。
 だから、昔の、そういう個室で育ってない人たちは、
 やっぱしそれだけでも、修行するのが楽でしょうなぁ。
 自分も、師匠のところで生活をしていたら、
 仕事場から帰ってきて御飯を食うのも一緒で、
 ずうっと寝るまで一緒ですよね。
 寝ても緊張して寝てるようなもん。
 ほんとに自分の自由になる時間は一切ないですよ。
 そして、そこまで自由の時間が一つもない、
 というものに追い込まれると、
 自分の癖というものがよくわかりますよ。
 自分の癖がわからないで、違うことをやってたら、
 師匠に怒られたり何かするわけです。
 『あ、これは自分の癖が悪いんだな』
 とか、そういうふうに自然にわかってきます。

 だから、自由な時間というものが
 なくなるぐらいまでの生活をすると、
 いろんなことを感じ取ることができますよね。
 そこまで感じられないというのは、
 自由な時間があるからでしょうね。
 みんなと生活をするということの中には、
 自分の自由な時間というのはないです。少ないですよ。
 しかし、それをみんなと一緒に生活していると、
 『みんなと一緒にいる自由』というのがわかるわけです。
 
 自分の時間の、わがままな自由じゃなくて、
 みんなと一緒に生活しないとやっていけない自由に、
 はじめて気づくわけです。
 そうすると、例えば一つの建築をやるのにも、
 穴を掘ってくれる人、屋根をふいてくれる人、
 材木を運んできてくれる人、みんな、
 この人らがいなかったらば仕事ができない、
 ということに気づくわけです。
 ですから、家族の自由というのはないですよね。
 しかし、その中で楽しむ自由なら、あるんですな。
 十人ならその十人が集まった中の自由で
 やっていけるわけですよね。
 そしたら、放っておけば、ちょっとした先輩が
 手本を示して、それを見習っていくという。
 やっぱし師匠もいい師匠につけばいいし、
 弟子もやっぱし一番先の弟子に左右されますよ。
 まわりでいいのがいると、影響されるわな」


今回の内容に、直接は関係しない言葉ではありますが、
あなたが「時間」について考えるヒントになれば、
と思って、おとどけしてみました。

あなたは、今回の職人たちの発言を読んだり、
「他人に代わってもらうことのできない時間」
という考えに触れたりして、どういうことを感じましたか?

じっくり考える時間を提供することができるように、
経験談や、みなさんからの感想に、
そのつど戻りつつ、話を進めてゆきたいと思います。

次回に、続きます。

あなたが、読んだ後に感じたことや考えたことなどを、
メールで送ってくださると、とてもうれしく思います。
postman@1101.com
件名を「コンビニ哲学」として、送ってくださいませ。


                  木村俊介

このコーナーを読んだ感想などは、
メールの件名に「コンビニ哲学」と書いて、
postman@1101.com
こちらまで、お送りくださいませ。

2003-11-04-TUE

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